新渡戸稲造博士の父新渡戸十次郎が
江戸の末期に開削し未完に終わった

幻の穴堰

150年ぶりに復活

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江戸末期、ばんづる、てんばづるなどで掘った掘削跡が約950㍍そのまま残っており、当時の測量技術、土木工事の水準の高さがうかがわれる貴重な歴史文化遺産です。

NPO法人十和田歴史文化研究会

新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」150年の眠りから覚める

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地元の人たちから通称「幻の穴堰」と呼ばれていた新渡戸十次郎未完の穴堰が、私財を投じた実業家中野英喜氏によって150年の眠りから覚めた。

この「幻の穴堰」は、新渡戸伝(つとう)が安政6年(一八五九)に稲生川を開削して三本木平に上水したが、三本木平は火山灰土で漏水がひどく思うように上水できませんでした。

そこで新渡戸稲造博士の父親である新渡戸十次郎が、その7年後の慶応2年(一八六六)にもう一本稲生川を通そうとしたが、十次郎の死去により950㍍掘ったところで未完に終わってしまった。

最初の稲生川は十和田市の中里から上水しているが、この穴堰は約3.5㌔先の百目木(どめき)から上水しようとしたものであった。

写真は新渡戸十次郎(太素塚・新渡戸十次郎像)

150年前の工事跡がそのまま残る!!

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150年前の工事跡。左上はなかづるで砂岩を削ったときの跡。右上はてんばづるの跡。なかづるとてんばづるの摩擦跡が、150年経った今でもさも昨日工事したかのように光って見えます。

 この砂岩は360万年~260万年前の浅い海に堆積した砂が隆起し固まったもので、貝殻の跡も見えます(右写真)。

どのようにして掘ったのでしょうか

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  1. まず、山なりに測量をし穴堰の高さを決めます。
  2. そして横穴(斜坑)を掘り、ある一定に掘り進んだところで今度は山なりに角度と勾配を計算しながら左右に掘り進んでゆきます。
  3. 左右から掘り進んできた本抗が若干ずれる場合もあります。その場合穴堰の中で微調整をします。

いずれにしても当時としてはすごい技術でした。その工事を行ったのが、吉助を頭取とする岩手県和賀郡後藤村を中心とした技術者集団「南部土方衆」でした。

トンネルの中を探検してみよう

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懐中電灯を持って探検気分でトンネルの中に入ってみよう。

トンネルは高さ約1.7㍍、横約1.6㍍のトンネルで、左右から掘っていってずれたところを調整したクランク状の穴堰もあります。

これまで子どもから高齢者までたくさんの方々が訪れていますが、まず驚くのは穴堰の中の測量及び当時の掘削技術の高さです。

そして誰もが関心を持つのがコーモリです。

この穴堰の中には、コーモリ研究会が調査したところ、キクガシラコーモリ、コキクガシラコーモリ、ウサギコーモリ、モモシロコーモリ、テングコーモリの5種類のコーモリが棲んでいることがわかりました。

盛岡藩士である新渡戸伝は何故
三本木平を開発しようとしたのでしょうか

三本木平は約15,000年前の十和田湖火山によって子ノ口が崩壊し大量の土砂が流れ堆積してできた扇状地です。

その広さを、万延元年(一八六〇)に新渡戸伝が南部公に出した『三本木平開業之記』の「開発場所の図」に、東西10里、南北8里の三本木平に水を引き開拓したなら10万石収穫できるであろうとして開拓願い状を出しています。

当時、南部藩は20万石、八戸藩2万石、津軽藩10万石でした。ですから10万石というと城を一つ持つぐらいの米の収穫ができるという壮大な計画でした。

なぜ、新渡戸伝がそんな壮大が夢を描けたのか

文政3年(一八二〇)、稲生川の工事着手の35年前、伝27歳のとき父維民が北郡川内(現むつ市川内)に流されました。伝は安野屋素六を名乗って商人となり、下北のヒバや十和田湖の槻木などを伐り子ノ口から奥入瀬川を使って流し、江戸に持って行き大儲けをします。このとき何回も三本木平を通り、ここを開発しようという夢を抱きます。

新渡戸伝は『三本木開業之記』にこんなことを書いています。

『右の通り東西三十里(八甲田の麓から三沢海岸迄)、南北八十里(十和田市相坂から野辺地迄)余見渡しに相成候へば、日本国中にも稀なる眺望の地にしてあまねく人目を驚かすのみならず、その広きを見てその心意も広く相成、背労病(結核)もたちまちに全快の心地こそしけれ』。

当時、三本木平は木のない草原であったためにそう広く見えました。その三本木平を見ると結核も治るだろう、それくらい広いといっています。

十和田湖からの木流しで奥入瀬川のことを良く知っている新渡戸伝なればこそ、その水を広大な三本木平に上げて三本木平を開拓する夢を描けたのでした。

それを可能にする技術者集団がいました。それは岩手県和賀郡後藤村(現北上市)にいた南部土方衆でした。

こうして安政2年(一八五五)、新渡戸伝62歳のとき稲生川の工事に着工。4年の歳月をかけ安政6年(一八五九)に蔵出山(2,540㍍)と天狗山(1,620㍍)の2本の穴堰を掘削、7,164㍍の陸堰(矢神‐三本木間)掘削して稲生川を完成させました。しかし、コンクリート技術がなかったために漏水がひどく思うように三本木平まで水が来ませんでした。

そこで稲生川完成から7年後の慶應2年(一八六六)に新渡戸十次郎は2本目の稲生川を通そうとして工事に取り掛かりました。しかし慶應3年(一八六七)十次郎の死去により950㍍掘ったところで中断しました。

地元の人たちはこの未完の穴堰をいつしか「幻の穴堰」と呼んでいました。

明治4年(一八七一)に新渡戸伝が死去。ここで新渡戸伝の10万石の夢は未完に終わりました。

新渡戸伝の夢を継いだ人々

新渡戸伝の10万石の夢は伝の死去により未完にに終わったが、その壮大な夢を引き継いだ人々によって三本木開拓が完成しました。これらの人がいなければ三本木開拓は完成しなかったでしょう。

《明治天皇》

その最初の一人は明治天皇です。明治天皇が明治9年(一八六七)に東北巡幸、明治14年(一八八一)に東北及び北海道巡幸をしました。このとき新渡戸伝の偉業を知った明治天皇は、ぜひ最後までやり遂げてほしいと、御嘉賞(褒めたたえること)、御聖旨(天子の考え)及び50円を賜りました。

≪藤田重明≫

これに感激した当時の上北郡長であった藤田重明が明治17年(一八八四)に郡長を辞めて共立開墾会社を設立。国有地の払い下げその開拓を条件に209株(1株=3町5反)を募集しました。

≪渋沢栄一≫

しかし、株を買ったものの水は来ず開拓は困難を極め、結果払いない者が多く、渋沢栄一の第一銀行からお金を借りました。しかしそれが焦げ付き不良債権になってしまいました。

渋沢栄一は、日本で最初の銀行をつくり、生涯に関わった会社が約500社。日本資本主義の基礎を築いた人物です。当時の盛岡支店長は渋沢栄一の最初の奥さんの兄の尾高淳忠でした。明治29年(一八九六)に渋沢栄一は、身内の不祥事であるとして不良債権となった開墾会社の株を買い取りました。その総面積は1,670町歩でした。これが三本木にあった渋沢農場です。

≪水野陳好≫

大正9年(一九二〇)東大を卒業した水野陳好が渋沢農場の5代目場長として三本木に赴任しました。水野陳好は新渡戸伝の偉業を知り、私が新渡戸傳の意思を継いでやりますと、379回の陳情を行い、陳情の陳好と呼ばれながらも昭和12年(一九三七)遂に国営事業が決定。昭和19年(一九四四)に国営稲生川が完成。こうして、最初の稲生川が完成した安政6年(一八五九)から実に85年目にして新渡戸伝の10万石の夢が実現しました。三本木開拓は、こうした新渡戸伝の夢を継いだ人々によって完成しました。

「幻の穴堰」管理事務所から500㍍の範囲内で
三本木開拓の農業開発の八割が説明できます

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幻の穴堰管理棟の500㍍の範囲内に、「幻の穴堰」他、新渡戸伝が通した稲生川鞍手山出口、水野陳好が行った国営稲生川鞍手山出口、岩手から来た吉助他17名の穴堰の技術者集団「南部土方衆」の記念碑「山の神」の碑があるなど、三本木開拓の八割方が説明できる貴重な歴史文化遺産が集積している地域です。

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幻の穴堰管理事務所と、幻の穴堰の第4横穴から出たところから37㍍眼下に奥入瀬川が見える。

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三本木開拓で唯一残されている開拓記念碑「山神の碑」。この石碑の下部には、頭取吉助、副頭取力蔵を始め、穴堰の掘削に関わった岩手県和賀郡後藤村を中心とした17名の技術者集団の名前が刻まれており、鞍出山の穴堰の貫通に成功した安政3年(一八五六)に建立されています。

「山神」とは、山の神様の日で、毎月12日でこの日は山で働く者すべての休息日でした。鞍出山の穴堰工事が無事に終わったことに感謝して建てられたものと思われます。

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新渡戸伝が通した稲生川トンネルの鞍出山出口(上)と、水野陳好が行った国営稲生川の鞍出山出口(右)

新渡戸十次郎による都市開発計画

新渡戸伝による三本木開拓の他と違う大きな特徴は、10万石の米を収穫するのみならず、ここに都市をつくるという計画でした。下図が、札幌に先駆けて設計された街づくり図です。

上にある青い横の線は稲生川。南北に通っている中心の線は奥州街道(国道4号線)です。

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しかし、新渡戸十次郎によるこの都市計画は、水が思うように来ず開拓が頓挫したため、国道の西側(左側)に明治18年(一八八五)に、後に日本最大の軍馬補充部となる陸軍軍馬出張所ができ、昭和20年(一九四五)戦争が終わるまで軍馬補充部でした。

また国道の東側は昭和35年(一九六〇)頃までは水田ないし馬の放牧場があり、この新渡戸十次郎の都市計画の夢が実現するのは昭和40年代以降の日本経済高度成長期に入ってからでした。