夢追人ニュース

「やさしさ」で届ける手づくりコスメ
種は木となり花を咲かせる肌への贈り物
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合同会社 ゆきの木 石鹸工房「種々と木々」
代表社員 岩城 利英子さん

 今回スポットを当てたのは合同会社ゆきの木・石鹸工房「種々と木々」の代表社員・岩城利英子さん(48)。十和田市出身の昭和44年6月15日生まれ。三沢商業高等学校を卒業してから東京の美容学校で学び美容師として勤める。縁あって九州の化粧品会社へ転職し10年間化粧品作りなどの美容について知識や技術を身に着けた岩城さん。父が亡くなり母が一人暮らしとなったために帰郷を考え、そのために起業をする事を決意した。起業するには化粧品製造販売業の許可が必要なため、その許可を取得するために43歳で北海道の専門学校の化粧品コースへ進学し、薬学・化学の専門課程を修了した。青森県内では化粧品製造販売業の許可を取得しているところは意外と少なく4件目の許可取得となった。
 現在、化粧品業界は大手の異業種が参入していて選ぶ側も何を基準にしていいかわからない状態で想いの打ち出しや記載してある効果で選ぶ人は多いだろう。石鹸工房「種々と木々」では岩城さんが化粧品製造販売業の許可を取得したという責任を持ち、厳しい試験を通過したお肌に優しいこだわりの手作りの商品を販売していきたいと語った。( ※商品は12月頃からネット販売で開始予定・詳しくは「種々と木々」で検索。またはホームページ『syusyu-and-kigi.com』で検索 )
 化粧品は通常適切な保存条件のもとで3年以上品質が変化しないもの等、薬機法で細かく厳しく定められている。そこで売るのではなく作ることに目を向けた手づくりコスメ教室を始めた。販売だけではなくコスメの作り方を教えるワークショップを開催していくことで、肌に悩みのあるお客様の声を直接聞いて、お客様に合った化粧品を作るためのレシピなどを伝えていきたいと語った。無添加・防腐剤なしで作るため化粧水や乳液は消費期限が短いことや、冷蔵庫で保存するなど必要事項はあるが自分だけの自分にあった優しいコスメを発見できるかもしれない。
 十和田市生活支援体制整備事業の一環で平成29年度「たすけ愛・ささえ愛の地域づくりフォーラム」が10月16日に十和田市民文化センターで開催された。始めに十和田市の現状と課題を来場者に説明してから在宅介護支援センターみちのく苑・三戸恵美さんと合同会社くらしラボ代表・橘友博さんが住み慣れた地域で生活を続けるために工夫して生活をしている人たちの事例を紹介。地域資源や介護サービス、近所付き合いなどを活用し助け合って生活出来ることを伝えた。
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 講演では「みんなで創ろう、助け合い社会」と題し(公社)さわやか福祉財団地域コーディネーター・葛原美恵子さんが講師を務め、自身の経験を語った。4人の子育て中に夫が倒れ、それから14年間もの介護生活を余儀なくされた。子どもを育てるために介護離職は出来ず、地元ではなかったために頼れる知り合いもいなかった。近所にはスーパーや銀行にも行けない人が多く、町の人にお願いして募金を集め福祉車両を買い、様々な課題を解決するためにNPO法人を起ち上げたことを話した。今は介護保険があるが使えば使うほど若い世代の負担は増える。地域が自分の第二の家族だと思い「すいません」ではなく「ありがとう」と言える環境を創りたいと語った。
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 講演後は63名の参加者を小・中学区のグループに分け、活かせる地域資源やボランティア活動などについて話し合いをして発表した。将来、住んで良かったと思える地域づくりを目指して助け合い、支え合う関係を築くためのフォーラムは終了した。
 平成29年度元気な十和田市づくり市民活動支援事業の一環でコミュニティーワーク礎(市内の医療・介護現場で働く人たちが集まり活動しているグループ)が主催となり第3回「元気で生き生き~輝く未来へ~弁論・作品展」が10月15日に十和田市民文化センターで開催された。
 弁論大会では基調講演として「美しく生きる!」と題して近江真愛さんが講師を務め高齢者の美容コミュニケーションについて語った。弁論の集いでは「これが私の生きる道」をテーマに60歳以上の10名の論者が伝えたい想いや活動を発表した。趣味や活動など1人1人がどういう生きがいを持って楽しんでるかを年齢を感じさせないほど力強く元気に表現していた。最優秀賞はこれが「私の生きる道~楽しむ・経験を活かす~」と題して短角牛のPRやバンド活動の面白さを発表した川村良雄さんが受賞した。
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 作品展はコミュニティーワーク礎の関連している介護施設やグループホームから200点を超える出展があり「私のとっておき」をテーマに絵画や写真、俳句や手工芸、フラワーアレンジメントなど多数の作品が展示された。
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 高齢者によるファッションショー「人生彩色」では会場は一気に盛り上がり、17名の出演者は拍手とスポットライトを浴びながらステージから素敵な笑顔を振りまいた。コミュニティーワーク礎では会員を募集中。お問い合わせは...0176‐21‐5770迄
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↑華やかなドレスや衣装をまとってステージを盛り上げる高齢者のファッションショー
 (公社)青森県宅地建物取引業協会十和田支部(以下、宅建と略)が10月13日に富士屋グランドホールで一般公開セミナーを開催した。去年は境界線をテーマにした講演だったが今年のテーマは「家で生きる‐医療と住まいの話‐」と題して会場には宅建関係者以外に医療や介護に従事する関係者が多く来場した。
 橋場寛支部長が「今までの専門分野ではない医療と地域の問題を考えるセミナーにしたい」と開会の挨拶をした。これは現在十和田市は約94%の高齢者が持ち家を持っている全国でも珍しい地域だが、少子高齢化が進み、近い将来には確実に高齢者の独り暮らしや相続のない空き家が増えていく傾向にあるためだ。
 十和田市中央病院を退職し、現在は一般社団法人緑の杜代表理事、日本財団在宅看護センターみどりの風訪問看護ステーション管理者兼務で活動している太田緑さんと、さくら居宅介護支援事業所の管理者・中野渡俊明さんが講師を務めた。生き物であれば必ずくるものは「死」であるが、誰と何処でどのようにして生き、最後を迎えるかは自分で決める事が出来る。人口の推移やアンケート結果をスライドで流しながら地域が抱える問題と高齢者の悩みやニーズ、地域包括ケアシステム(医療・介護・予防・住まい・生活支援を確保する体制)をどうするべきかを語った。
 例として独り暮らしが困難で医療や介護が存分に受けられない高齢者のために、空き家を活用したホームホスピス「かあさんの家」の開設を紹介。第二の自宅としてゆるやかに暮らせる人生最後の居場所づくりをしたいと始めた事と同時に開設までの様々な地域ごとの課題も伝えた。各自治体で決められている消防法があり、現在の十和田市では難しい事も質問の中で明らかとなったが、これからの時代に合わせた医療と介護の充実、空き家問題の課題をどうするかを考えさせられる講演となった。
 また宅建では県内8つの会場で空き家相談会も開催。十和田市は11月24日(金)に市民交流プラザ トワーレで行われる。お問い合わせは...017‐722‐4086迄
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70年代に釣りブームを巻き起こした釣りキチ三平がやって来る!!
矢口高雄の世界天翔ける童心
7月15日(土)~9月3日(日)鷹山宇一記念美術館

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 昭和48年(一九七三)より週間少年マガジンに連載された矢口高雄の『釣りキチ三平』。以後10年間連載され、単行本65巻、平成版単行本12卷他、テレビアニメや実写映画化され、全国に釣りブームを巻き起こした。
 矢口高雄は、昭和14年(一九三九)秋田県雄勝群西成瀬村(現横手市)に生まれた。無類の漫画好きの少年は、自ら描くことにも興味を持ち、一度地元の銀行にも勤めるが、昭和45年(一九七〇)銀行を辞めて上京。漫画家としては遅めのスタートをしたが、『釣りキチ三平』は前述のように大ブームを巻き起こした。
 矢口高雄の世界展は、作品の表紙絵原画や漫画原稿、貴重な資料など100点以上が展示される。

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問合せは、℡0176‐62-5858迄
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 一九六〇年代後半、寺山修司の「天井桟敷」にも参加したこともある日本を代表する美術家、グラフィックデザイナーである横尾忠則の美術展「横尾忠則 十和田ロマン展 POP IT ALL」が十和田市現代美術館で開かれている。
 一九七〇年代初頭、横尾忠則は2年間にわたり日本各地を旅し、風景画を制作した。その「日本原風景旅行」シリーズの中に、十和田で描いた「十和田湖 奥入瀬」が含まれている。作品『渓流の奔流』は、後の画家・横尾忠則の代表的テーマ「瀧」のルーツとも言われている。
 今回の「十和田ロマン展」には、「瀧」シリーズ他、今回の作品展のために特別に描いた十和田市をイメージした『Towada Roman』他、横尾忠則の代表的な絵画作品約40点などを展示。美術家横尾忠則の世界が満喫できる。
 横尾忠則(81)昭和11年(一九三六)兵庫県西脇市に生まれる、満81歳。5歳にして「講談社の絵本」石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写し、画才を現す。昭和18年(一九四三)小学1年生のとき『漫画少年』に漫画を投稿。昭和21年(一九四六)母とともに大阪の鶴橋の闇市の米や織物を売りに行き、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。昭和27年(一九五二)高校1年生のとき、通信教育で挿絵を学び、油絵やポスターの制作を開始。昭和31年(一九五六)神戸新聞にカットを投稿していた常連5人で個展を開催。それがきっかけで神戸新聞社へ入社。昭和35年(一九六〇)安保反対デモに参加。昭和36年(一九六一)京都労音のポスター制作。昭和42年(一九六七)寺山修司の「天井桟敷」に参加。ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。以後国内外で活躍し、これまで毎日芸術賞(一九九五)、紫綬褒章(二〇〇一)、初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞、旭日小綬章(二〇一一)などを受賞。
 平成16年(二〇〇四)多摩美術大学大学院客員教授。平成22年(二〇一〇)神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。
 平成24年(二〇一二)神戸市に「横尾忠則現代美術館」オープン。平成25年(二〇一三)「豊島横尾会館」をオープンするなど、81歳になった現在でも衰えを知らぬ八面六臂の活動をしている。
 横尾忠則作品展への問い合わせは...℡0176-20‐1127(十和田市現代美術館)迄。
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↑久しぶりに帰郷し十和田のライブハウス「キューダス・S」での演奏会で挨拶する今泉総之輔さん

 今は活動を中止しているが、日本最大のロック・フェスティバル「フジロックフェス」に二度出演。オリジナルアルバムが、オリコン・ウィークリーランキングジャズ部門第1位を獲得するなど、クラブ・ジャズ界で世界的に活躍していたジャズカルテット「クオシモード」でドラムを担当していたのが、十和田市出身の今泉総之輔さんであった。
 その今泉さんは、自らのリーダーアルバム『凛』をリリースするなど、今はフリーのジャズドラマーとして活躍している。
 今泉総之輔。昭和53年(一九七八)5月、十和田市に生まれる。東中、三本木高校卒業。美術の道に進もうと上京して美大の予備校に通っていた。ある日たまたま池袋の公園で遭遇したジャズライブ。特にそのドラムに衝撃を受けた。それからそのドラマーの出演するライブに通い、よし、俺はジャズ・ドラマーになるぞと決意した。
 しかし、そう決心したもののドラムを叩いたことがない。そこで今泉さんは予備校を辞め帰郷。ドラムを買い実家の家業を手伝いながら毎日独学で練習した。と、同時に「サマージャズフェスティバル」で有名になった南郷の「ジャズの館」に通うようになり、地元のジャズバンドに参加させてもらった。
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 そうこうしているうちにジャズの館に「石井彰トリオ」がきた。その石井彰トリオでドラムを担当していたのがファンだった江藤良人であった。今泉さんは、打ち上げに参加させてもらい、自分の想いを激白した。
 石井トリオの仲間が「お前そんなに好きだったら、すぐ東京に出て江藤に弟子入りしなよ」といった。
 江藤は「ドラム叩いてみな」ということで、その場でドラムを叩いた。勿論うまいわけではなかったが、それを聴いた江渡が「じゃ来な」といって、翌日から運転手兼ボーヤ(業界用語で、楽器の積み込み・積み卸し、手配、輸送、セッティングといったミュージシャンのサポートなど行うスタッフ。バンドボーイと呼ぶ場合もある)として東北ツアーに参加。ツアーを終了した一週間後に上京した。今泉さん25歳のときであった。
 27歳で独立、フリーのドラマーとして活動。30歳になったころクオシモードから声がかかりドラマーとして参加。以後、クオシモードの一員として「フジロックフェス」他海外演奏にも参加してきた。
 今泉総之輔さんは実は、元「県南新聞」代表であった故今泉友孝さんのご長男である。現況はホームページで「今泉総之輔」を検索してみて下さい。
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ジャズ専門誌『jazzLife』創刊400号記念号の表紙を飾った「クオシモード」の一員としての今泉総之輔さん(写真右)
↓エコツーリズム大賞特別賞受賞記念フォーラムで挨拶する河井大輔理事長
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大自然の中をハイヒールで歩けるところは奥入瀬渓流しかない
 平成25年(二〇一三)に奥入瀬渓流が日本蘚苔類学会の19番目の「日本の貴重なコケの森」に認定された。その奥入瀬渓流の魅力を、NPO法人奥入瀬自然観光資源研究会(通称おいけん=以下おいけん)の河井大輔理事長は、「なにより魅力的なのはこんな大自然の中を、極端にいうならハイヒールを履いても歩けるのである。この奥入瀬渓流の深い緑をつくっているのは実はコケである。川の中の石を見ても、崖の岩を見ても、古木の根元を見てもコケがびっしり生えている」と語っていた(本紙平成26年第368号)。
 奥入瀬渓流のコケについては、大町桂月が、大正11年(一九二二)に発表した『山は富士、湖は十和田』の中で「焼山まで三里の間、川中に大小の巌石おほくして、その幾百千なるを知らず。しかして巌石ごとに必ず苔若しくは樹木をおぶ。これは奥入瀬川の特色にして天下にその比を見ず」と書いている。しかし、以後の人々はそのコケにふれることなく、奥入瀬渓流の観光は通りすがるだけの観光になっていた。
 北海道でアウトドア関係の雑誌の編集に携わり、且つ全国の自然を探索し歩いていた河井さんだからこそ、大町桂月の指摘に気づいたのであった。
奥入瀬渓流エコツーリズムプロジェクト実行委員会設立
 河井大輔さんは、平成19年(二〇〇七)に奥入瀬渓流に魅了され十和田市に移住。平成20年(二〇〇八)に当時の㈱ノースビレッジに入社した。そして奥入瀬渓流のコケ(蘚苔類)に注目し、元日本蘚苔類学会会長の神田啓史さんや、蘚苔類を研究していた八戸工大の鮎川恵理さんなど専門家を招き勉強会を行うと共に学術調査を行った。
 その結果、奥入瀬渓流には300種以上の蘚苔類が生息していることがわかった。 こうして平成25年に、奥入瀬渓流が日本蘚苔類学会の「日本の貴重なコケの森」に認定され、翌平成26年(二〇一四)にNPO法人奥入瀬自然観光資源研究会を設立。奥入瀬渓流はこれまでの通りすがる観光から立ちどまる観光に大きく変わった。
調査研究と本の出版
 おいけんは、奥入瀬渓流を調査研究すると共に、平成26年に『奥入瀬渓流コケハンドブック』を、同28年(二〇一六)に『奥入瀬自然誌博物館』を、そしてこのほど『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』をと、その研究成果をまとめた本を出版した。『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』は、奥入瀬渓流を「天然の野外博物館」と見立てて、奥入瀬渓流の滝や、7つの特徴と自然観賞のおすすめコースの案内、散策にあたっての準備などをカラーの絵図で示すと共に、奥入瀬渓流を、下流域、中流域、上流域に分け、その見どころ、奥入瀬渓流の魅力を写真と絵図で示している。この一冊があれば、奥入瀬渓流の樹木や草花、昆虫から野鳥、魚まで、よくこれほど詳しく調べたなと思うほど、奥入瀬渓流のことならすべて分かるように構成されている。
そして日本エコツーリズム大賞特別賞を受賞
 日本エコツーリズム大賞は環境省が主催するもので、おいけんを立ち上げてからわずか3年で受賞したことになる。これだけ短期間の活動で受賞したのは初めてで、それだけその活動内容が深いものであったことが伺われる。
 5月14日に行われた、受賞記念フォーラムでは、川村祐一事務局長が「日本エコツーリズム大賞受賞報告」を、河井大輔理事長が「2016奥入瀬自然観光資源調査結果報告」を行うと共に、観光カリスマの山田桂一郎さんが「これからの奥入瀬エコツーリズム」と題して記念講演を行った。
 おいけんの活動は、活動対照に学術のメスを入れると共にそれを観光につなげるなど類似する団体の今後の活動の指標となるものである。
 おいけんへの問い合わせは、0176‐23‐5866迄。
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奥入瀬渓流の歩道橋でコケを観察するコケガール(おい研映像より)
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このほど出版された奥入瀬渓流3冊目の本『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』
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私は思わず「ワーきれい!!」と叫んでしまった。それはよく見ると、海岸に打ち上げられた様々なプラスチック容器で創られたものであった。
 70年代のはじめに日本に居を構え、日本やアジアの素材・技術を生かしたものづくりをしてきたヨーガン レールは、技術や職人が無くなりつつあることと並行するかのように、自然が破壊されていくことに心を痛めていた。農園と住まいを沖縄・石垣島につくったヨーガン レールは、際限なく海辺に打ち寄せるゴミに憤りを感じ、自然を破壊するなといくら叫んでも伝わらないなら、それを美しさに変えて表現しようと計画した。それがヨーガン レールの海からのメッセージである。
 ヨーガンレール展は2月5日迄。

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これは皆地球のごみであった。



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9月22日、十和田商工会館で第10回『月がとっても青いから』全国カラオケコンクール(同実行委員会主催)が行われた。『月がとっても青いから』は十和田市出身の往年の歌手菅原都々子さんの大ヒット曲である。
 カラオケ大会が終わり審査結果が出るまでの間「菅原都々子オンステージ」が行われ、都々子さんは、都々子さんのヒット曲『母恋星』や『帰り船』『月がとっても青いから』、そして最後に『三本木小唄』を会場と一緒に歌うなど8曲を歌った。
 ところがその歌声にビックリ。都々子さんは今年満89歳である。が、その歌声は「ア、忘れちゃった」などと笑いを誘いながらも、声量豊かであのビブラート唱法ツンヅ節が少しも衰えていないのである。驚異という他ならない。
 都々子さんは、昭和26年(一九五一)に行われたNHK第1回紅白歌合戦の第1号歌唱者としても有名である。都々子さんは当時24歳。第1回紅白歌合戦には、赤坂小梅、渡辺はま子、東海林太郎、藤山一郎など14名が出演したが、その存命者は都々子さん一人だけである。
 都々子さんは歌手生活70周年を機に平成18年(二〇〇六)に現役を引退。以後ボランティア活動を行ってきている。歌好きの十和田市の有志が都々子さんの引退を知り、十和田市で『月がとっても青いから』全国カラオケ大会をやろうではないかと呼びかけ、平成19年(二〇〇七)に第1回『月がとっても青いから』全国カラオケ大会を行った。そして今年で10回目を迎えた。
 菅原都々子さん。昭和2年(一九二七)8月、当時朝日新聞の通信員をしていた作曲家陸奥明(本名=菅原陸奥人)の長女として三本木町(現十和田市)に生まれた。陸奥明は大正の中期、東洋音楽学校卒業後、浅草オペラの全盛期、藤原義江、田谷力三らと、河井丸目朗の名前で舞台に立っていたバリトン歌手であった。が、大正12年(一九二三)の関東大震災で劇場が崩壊。やむなく三本木へ帰り朝日新聞の通信員をしていた。そんなときに生まれたのが都々子さんである。
 都々子の命名は、自分は不運にも関東大震災に遭い音楽生活を断念せざるを得なかったが長女に自分に変わって都会に出て舞台に立って欲しいという願いを込めた命名であった。その父の願いを見事に実現させたのが菅原都々子である。
 都々子さん9歳のとき、地元の有名な民謡歌手と一緒に東京のレコード会社にテストを受けるために上京。テイチクに行ったときである。「都々ちゃん」と声をかけてきた人がいた。やはり三本木町出身で『旅姿三人男』や『満州娘』の作曲で知られていた作曲家の鈴木哲夫であった。こうして鈴木哲夫があずかるということで東京で本格的に歌の勉強をした。
 鈴木は、当時すでに売れっ子作曲家として有名であった古賀政男に都々子さんを紹介した。古賀は都々子さんを気に入り自分が引き取り勉強させたいと都々子さんを養女にした。こうして昭和13年(一九三八)、11歳のとき日活映画の主題歌『お父さんの歌時計』で古賀久子の名前で歌手デビューした。以来78年間歌い続けてきた。

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