夢追人ニュース

70年代に釣りブームを巻き起こした釣りキチ三平がやって来る!!
矢口高雄の世界天翔ける童心
7月15日(土)~9月3日(日)鷹山宇一記念美術館

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 昭和48年(一九七三)より週間少年マガジンに連載された矢口高雄の『釣りキチ三平』。以後10年間連載され、単行本65巻、平成版単行本12卷他、テレビアニメや実写映画化され、全国に釣りブームを巻き起こした。
 矢口高雄は、昭和14年(一九三九)秋田県雄勝群西成瀬村(現横手市)に生まれた。無類の漫画好きの少年は、自ら描くことにも興味を持ち、一度地元の銀行にも勤めるが、昭和45年(一九七〇)銀行を辞めて上京。漫画家としては遅めのスタートをしたが、『釣りキチ三平』は前述のように大ブームを巻き起こした。
 矢口高雄の世界展は、作品の表紙絵原画や漫画原稿、貴重な資料など100点以上が展示される。

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問合せは、℡0176‐62-5858迄
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 一九六〇年代後半、寺山修司の「天井桟敷」にも参加したこともある日本を代表する美術家、グラフィックデザイナーである横尾忠則の美術展「横尾忠則 十和田ロマン展 POP IT ALL」が十和田市現代美術館で開かれている。
 一九七〇年代初頭、横尾忠則は2年間にわたり日本各地を旅し、風景画を制作した。その「日本原風景旅行」シリーズの中に、十和田で描いた「十和田湖 奥入瀬」が含まれている。作品『渓流の奔流』は、後の画家・横尾忠則の代表的テーマ「瀧」のルーツとも言われている。
 今回の「十和田ロマン展」には、「瀧」シリーズ他、今回の作品展のために特別に描いた十和田市をイメージした『Towada Roman』他、横尾忠則の代表的な絵画作品約40点などを展示。美術家横尾忠則の世界が満喫できる。
 横尾忠則(81)昭和11年(一九三六)兵庫県西脇市に生まれる、満81歳。5歳にして「講談社の絵本」石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写し、画才を現す。昭和18年(一九四三)小学1年生のとき『漫画少年』に漫画を投稿。昭和21年(一九四六)母とともに大阪の鶴橋の闇市の米や織物を売りに行き、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。昭和27年(一九五二)高校1年生のとき、通信教育で挿絵を学び、油絵やポスターの制作を開始。昭和31年(一九五六)神戸新聞にカットを投稿していた常連5人で個展を開催。それがきっかけで神戸新聞社へ入社。昭和35年(一九六〇)安保反対デモに参加。昭和36年(一九六一)京都労音のポスター制作。昭和42年(一九六七)寺山修司の「天井桟敷」に参加。ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。以後国内外で活躍し、これまで毎日芸術賞(一九九五)、紫綬褒章(二〇〇一)、初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞、旭日小綬章(二〇一一)などを受賞。
 平成16年(二〇〇四)多摩美術大学大学院客員教授。平成22年(二〇一〇)神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。
 平成24年(二〇一二)神戸市に「横尾忠則現代美術館」オープン。平成25年(二〇一三)「豊島横尾会館」をオープンするなど、81歳になった現在でも衰えを知らぬ八面六臂の活動をしている。
 横尾忠則作品展への問い合わせは...℡0176-20‐1127(十和田市現代美術館)迄。
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↑久しぶりに帰郷し十和田のライブハウス「キューダス・S」での演奏会で挨拶する今泉総之輔さん

 今は活動を中止しているが、日本最大のロック・フェスティバル「フジロックフェス」に二度出演。オリジナルアルバムが、オリコン・ウィークリーランキングジャズ部門第1位を獲得するなど、クラブ・ジャズ界で世界的に活躍していたジャズカルテット「クオシモード」でドラムを担当していたのが、十和田市出身の今泉総之輔さんであった。
 その今泉さんは、自らのリーダーアルバム『凛』をリリースするなど、今はフリーのジャズドラマーとして活躍している。
 今泉総之輔。昭和53年(一九七八)5月、十和田市に生まれる。東中、三本木高校卒業。美術の道に進もうと上京して美大の予備校に通っていた。ある日たまたま池袋の公園で遭遇したジャズライブ。特にそのドラムに衝撃を受けた。それからそのドラマーの出演するライブに通い、よし、俺はジャズ・ドラマーになるぞと決意した。
 しかし、そう決心したもののドラムを叩いたことがない。そこで今泉さんは予備校を辞め帰郷。ドラムを買い実家の家業を手伝いながら毎日独学で練習した。と、同時に「サマージャズフェスティバル」で有名になった南郷の「ジャズの館」に通うようになり、地元のジャズバンドに参加させてもらった。
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 そうこうしているうちにジャズの館に「石井彰トリオ」がきた。その石井彰トリオでドラムを担当していたのがファンだった江藤良人であった。今泉さんは、打ち上げに参加させてもらい、自分の想いを激白した。
 石井トリオの仲間が「お前そんなに好きだったら、すぐ東京に出て江藤に弟子入りしなよ」といった。
 江藤は「ドラム叩いてみな」ということで、その場でドラムを叩いた。勿論うまいわけではなかったが、それを聴いた江渡が「じゃ来な」といって、翌日から運転手兼ボーヤ(業界用語で、楽器の積み込み・積み卸し、手配、輸送、セッティングといったミュージシャンのサポートなど行うスタッフ。バンドボーイと呼ぶ場合もある)として東北ツアーに参加。ツアーを終了した一週間後に上京した。今泉さん25歳のときであった。
 27歳で独立、フリーのドラマーとして活動。30歳になったころクオシモードから声がかかりドラマーとして参加。以後、クオシモードの一員として「フジロックフェス」他海外演奏にも参加してきた。
 今泉総之輔さんは実は、元「県南新聞」代表であった故今泉友孝さんのご長男である。現況はホームページで「今泉総之輔」を検索してみて下さい。
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ジャズ専門誌『jazzLife』創刊400号記念号の表紙を飾った「クオシモード」の一員としての今泉総之輔さん(写真右)
↓エコツーリズム大賞特別賞受賞記念フォーラムで挨拶する河井大輔理事長
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大自然の中をハイヒールで歩けるところは奥入瀬渓流しかない
 平成25年(二〇一三)に奥入瀬渓流が日本蘚苔類学会の19番目の「日本の貴重なコケの森」に認定された。その奥入瀬渓流の魅力を、NPO法人奥入瀬自然観光資源研究会(通称おいけん=以下おいけん)の河井大輔理事長は、「なにより魅力的なのはこんな大自然の中を、極端にいうならハイヒールを履いても歩けるのである。この奥入瀬渓流の深い緑をつくっているのは実はコケである。川の中の石を見ても、崖の岩を見ても、古木の根元を見てもコケがびっしり生えている」と語っていた(本紙平成26年第368号)。
 奥入瀬渓流のコケについては、大町桂月が、大正11年(一九二二)に発表した『山は富士、湖は十和田』の中で「焼山まで三里の間、川中に大小の巌石おほくして、その幾百千なるを知らず。しかして巌石ごとに必ず苔若しくは樹木をおぶ。これは奥入瀬川の特色にして天下にその比を見ず」と書いている。しかし、以後の人々はそのコケにふれることなく、奥入瀬渓流の観光は通りすがるだけの観光になっていた。
 北海道でアウトドア関係の雑誌の編集に携わり、且つ全国の自然を探索し歩いていた河井さんだからこそ、大町桂月の指摘に気づいたのであった。
奥入瀬渓流エコツーリズムプロジェクト実行委員会設立
 河井大輔さんは、平成19年(二〇〇七)に奥入瀬渓流に魅了され十和田市に移住。平成20年(二〇〇八)に当時の㈱ノースビレッジに入社した。そして奥入瀬渓流のコケ(蘚苔類)に注目し、元日本蘚苔類学会会長の神田啓史さんや、蘚苔類を研究していた八戸工大の鮎川恵理さんなど専門家を招き勉強会を行うと共に学術調査を行った。
 その結果、奥入瀬渓流には300種以上の蘚苔類が生息していることがわかった。 こうして平成25年に、奥入瀬渓流が日本蘚苔類学会の「日本の貴重なコケの森」に認定され、翌平成26年(二〇一四)にNPO法人奥入瀬自然観光資源研究会を設立。奥入瀬渓流はこれまでの通りすがる観光から立ちどまる観光に大きく変わった。
調査研究と本の出版
 おいけんは、奥入瀬渓流を調査研究すると共に、平成26年に『奥入瀬渓流コケハンドブック』を、同28年(二〇一六)に『奥入瀬自然誌博物館』を、そしてこのほど『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』をと、その研究成果をまとめた本を出版した。『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』は、奥入瀬渓流を「天然の野外博物館」と見立てて、奥入瀬渓流の滝や、7つの特徴と自然観賞のおすすめコースの案内、散策にあたっての準備などをカラーの絵図で示すと共に、奥入瀬渓流を、下流域、中流域、上流域に分け、その見どころ、奥入瀬渓流の魅力を写真と絵図で示している。この一冊があれば、奥入瀬渓流の樹木や草花、昆虫から野鳥、魚まで、よくこれほど詳しく調べたなと思うほど、奥入瀬渓流のことならすべて分かるように構成されている。
そして日本エコツーリズム大賞特別賞を受賞
 日本エコツーリズム大賞は環境省が主催するもので、おいけんを立ち上げてからわずか3年で受賞したことになる。これだけ短期間の活動で受賞したのは初めてで、それだけその活動内容が深いものであったことが伺われる。
 5月14日に行われた、受賞記念フォーラムでは、川村祐一事務局長が「日本エコツーリズム大賞受賞報告」を、河井大輔理事長が「2016奥入瀬自然観光資源調査結果報告」を行うと共に、観光カリスマの山田桂一郎さんが「これからの奥入瀬エコツーリズム」と題して記念講演を行った。
 おいけんの活動は、活動対照に学術のメスを入れると共にそれを観光につなげるなど類似する団体の今後の活動の指標となるものである。
 おいけんへの問い合わせは、0176‐23‐5866迄。
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奥入瀬渓流の歩道橋でコケを観察するコケガール(おい研映像より)
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このほど出版された奥入瀬渓流3冊目の本『奥入瀬フィールドミュージアムガイドブック』
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私は思わず「ワーきれい!!」と叫んでしまった。それはよく見ると、海岸に打ち上げられた様々なプラスチック容器で創られたものであった。
 70年代のはじめに日本に居を構え、日本やアジアの素材・技術を生かしたものづくりをしてきたヨーガン レールは、技術や職人が無くなりつつあることと並行するかのように、自然が破壊されていくことに心を痛めていた。農園と住まいを沖縄・石垣島につくったヨーガン レールは、際限なく海辺に打ち寄せるゴミに憤りを感じ、自然を破壊するなといくら叫んでも伝わらないなら、それを美しさに変えて表現しようと計画した。それがヨーガン レールの海からのメッセージである。
 ヨーガンレール展は2月5日迄。

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これは皆地球のごみであった。



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9月22日、十和田商工会館で第10回『月がとっても青いから』全国カラオケコンクール(同実行委員会主催)が行われた。『月がとっても青いから』は十和田市出身の往年の歌手菅原都々子さんの大ヒット曲である。
 カラオケ大会が終わり審査結果が出るまでの間「菅原都々子オンステージ」が行われ、都々子さんは、都々子さんのヒット曲『母恋星』や『帰り船』『月がとっても青いから』、そして最後に『三本木小唄』を会場と一緒に歌うなど8曲を歌った。
 ところがその歌声にビックリ。都々子さんは今年満89歳である。が、その歌声は「ア、忘れちゃった」などと笑いを誘いながらも、声量豊かであのビブラート唱法ツンヅ節が少しも衰えていないのである。驚異という他ならない。
 都々子さんは、昭和26年(一九五一)に行われたNHK第1回紅白歌合戦の第1号歌唱者としても有名である。都々子さんは当時24歳。第1回紅白歌合戦には、赤坂小梅、渡辺はま子、東海林太郎、藤山一郎など14名が出演したが、その存命者は都々子さん一人だけである。
 都々子さんは歌手生活70周年を機に平成18年(二〇〇六)に現役を引退。以後ボランティア活動を行ってきている。歌好きの十和田市の有志が都々子さんの引退を知り、十和田市で『月がとっても青いから』全国カラオケ大会をやろうではないかと呼びかけ、平成19年(二〇〇七)に第1回『月がとっても青いから』全国カラオケ大会を行った。そして今年で10回目を迎えた。
 菅原都々子さん。昭和2年(一九二七)8月、当時朝日新聞の通信員をしていた作曲家陸奥明(本名=菅原陸奥人)の長女として三本木町(現十和田市)に生まれた。陸奥明は大正の中期、東洋音楽学校卒業後、浅草オペラの全盛期、藤原義江、田谷力三らと、河井丸目朗の名前で舞台に立っていたバリトン歌手であった。が、大正12年(一九二三)の関東大震災で劇場が崩壊。やむなく三本木へ帰り朝日新聞の通信員をしていた。そんなときに生まれたのが都々子さんである。
 都々子の命名は、自分は不運にも関東大震災に遭い音楽生活を断念せざるを得なかったが長女に自分に変わって都会に出て舞台に立って欲しいという願いを込めた命名であった。その父の願いを見事に実現させたのが菅原都々子である。
 都々子さん9歳のとき、地元の有名な民謡歌手と一緒に東京のレコード会社にテストを受けるために上京。テイチクに行ったときである。「都々ちゃん」と声をかけてきた人がいた。やはり三本木町出身で『旅姿三人男』や『満州娘』の作曲で知られていた作曲家の鈴木哲夫であった。こうして鈴木哲夫があずかるということで東京で本格的に歌の勉強をした。
 鈴木は、当時すでに売れっ子作曲家として有名であった古賀政男に都々子さんを紹介した。古賀は都々子さんを気に入り自分が引き取り勉強させたいと都々子さんを養女にした。こうして昭和13年(一九三八)、11歳のとき日活映画の主題歌『お父さんの歌時計』で古賀久子の名前で歌手デビューした。以来78年間歌い続けてきた。

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「私ね、10年以上も前から十和田市現代美術館構想委員として、基本計画や設計者の選定、アート作品の検討などで美術館に関わっていたんで、十和田市現代美術館は非常に身近に感じているんです」と語る小池一子さん。
 小池さんは当時武蔵野美術大学教授として、専門家委員会・基本計画素案について検討(平成16年=二〇〇四)、(仮称)アートセンター設計者選定プロポーザル審査委員会・十和田市現代美術館の設計者選定(平成17年=二〇〇五)、アート作品検討委員会・設置するアート作品についての検討(平成17年初開催)と、基本構想から建物の設計者選定、展示するアート作品の選定まで、すべて関わっていた。
 「十和田市は近代にできたまちでしょう。だから十和田市には現代美術館がふさわしいんです。十和田市現代美術館にはその時々に世界で一番輝いている作品が展示されています。これは設計者の西沢立衛さんの提案だったんですが、一つの作品に対して一つの家、日本では十和田市現代美術館だけの発想です。権威の象徴のような20世紀の美術館とは全く違います。アートは心と精神を奮い立たせます。美術館からの経済面での波及効果も出てきます」
 十和田市現代美術館ができて8年。美術館オープン以来県内外からすでに130万人が訪れているだけでなく、市民そのものに変化がおきている。
 かつて文化の砂漠といわれた十和田市。昭和61年(一九八六)市民文化センターできてから様々な文化活動が盛んになってきた。平成20年(二〇〇八)十和田市現代美術館ができてから十和田市は全国から注目される文化のまちとなった。さらに平成25年(二〇一三)から始まった元気な十和田市づくり市民活動支援事業にこれまで124の事業が採択されている。つまり市民が自らの手でまちづくりしようと、124の市民団体(事業)が立ちあがったのである。これは、小池さんのいう「アートは心と精神を奮い立たせる」その顕れではないであろうか。いずれにしても十和田市現代美術館ができてから十和田市は大きく変わったことは確かである。
 「今後ですか、10周年に向けて、美術館を飛び出し環境とアートを結びつけた奥入瀬芸術祭を今検討中です」と語る。
 十和田市現代美術館はひとを変え、まちを変える。その基礎を創った一人である小池一子さん。今度は指揮者としてその第一線に立つ。
 小池一子、一九三六年東京都出身。父は教育学者の矢川徳光、姉は早くから天才少女と呼ばれた作家・詩人・翻訳家の矢川澄子。早稲田大学卒業。グラフィックデザイナー・絵本作家の堀内誠一のもとで編集、広告の企画、執筆を始める。フリーになったあと、西武百貨店のコピーライティング、編集企画などをグラフィックデザイナーの田中一光と共に手がける。特に小池さんを有名にしたのは堤清二社長のもとで無印良品の立ち上げである。昭和63年(一九八八)武蔵野美術大学造形学部教授に就任。編著書に『三宅一生の発想と展開』、『アイリーン・グレイ 建築家・デザイナー』など多数。毎日デザイン賞(一九八五)、日本文化芸術振興賞(一九九五)などを受賞。



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 「十和田湖は一つ」これは昨年、低迷する十和田湖観光の復興を目的に立ち上げた「NPO十和田湖未来」のスローガンのひとつである。これまで青森県側から神田川を越えて秋田県側に行くことはあまりなかった。しかし、観光客にとって十和田湖に青森県も秋田県もないのである。
 秋田県側の西湖岸には、十和田湖が「日本新八景」に第1位で選定されたのを記念して昭和6年(一九二七)建てられた紫明亭展望台、ひめます孵化場、そして昭和15年(一九四〇)に行われる予定であった東京オリンピックの外国人観光客のために昭和13年(一九三八)に建てられた十和田ホテル、十和田湖からわずか30分の小坂町には明治の芝居小屋「康楽館」、小坂鉱山事務所など歴史的建造物がたくさん残されている。これらはすべて十和田湖圏 である。
 この「十和田湖の新しい魅力を探る」では青森県側から行く秋田県側の十和田湖の魅力を紹介する。まず最初は明治の芝居小屋「康楽館」から紹介しよう。
 案内は、話術巧みな高橋竹見館長


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 「康楽館」は明治43年(1910)に小坂鉱山が鉱山で働く人たちの厚生施設として建築された。今年で106年ということになる。その外観は、白く華麗な下見板張りで、館内の天井は八角形の枠組みの中央にチューリップ型の電燈があるなど洋風建築である。が、館内は桟敷や花道、その花道にはせり上がるすっぽん(切穴)があるなど、江戸時代の伝統的な芝居小屋と、和洋折衷の芝居小屋である。


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 この「康楽館」を救ったのが俳優で庶民芸能研究家の小沢昭一である。建物の老朽化とカラーテレビの普及で昭和45年(1980)に一般興業は中止され取り壊しが決まっていた。そんなときに訪れた小沢昭一は「こんな貴重なものを何故取り壊すんだ。取り壊したら後々まで国賊国賊になるぞ」といった。当時の町長は議会の反対を押し切って、自分の財産を担保にいれる覚悟をしてを保存したという。



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 観客はむかしながらの桟敷の中で観る

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舞台大きな周りになっており、舞台展開はこれを黒子2人で廻す


明治の輝きを今に伝える小坂鉱山事務所

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私財を投じ新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」を再現

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 地元のひとたちから「幻の穴堰」と呼ばれていた新渡戸十次郎未完の穴堰。これは新渡戸 が安政6年(一八五九)に稲生川を開削して三本木平に上水したその7年後の慶應2年(一八六六)に、新渡戸十次郎が2本目稲生川を通そうとして950㍍掘ったところで逝去。そのために未完に終わった穴堰のことである。
 この穴堰は、当時ばんづるやなかづる、てんばづるなどを使って掘った工事跡、灯りとりに使った油煙の跡などが、今掘ったかのようにくっきりとそのまま残されており、江戸末期の測量技術の高さと、穴堰の掘削技術が見られる貴重な土木遺産、歴史文化遺産である。それが中野英喜さんによって150年の眠りから覚め一般公開されることになった。
「この幻の穴堰は、不毛の三本木平にどのようにして奥入瀬川から水を上げたのか。つるはしの一振りひとふりが十和田市をつくり上げた。それを体感できる場所でもあるわけです。特に子どもたちには、ふるさとの歴史を知り、ふるさとに誇りを持つ市民になっていただきたい。そう思いこの幻の穴堰を再現しました。なにより安全を重視しました」と語る。
「幻の穴堰」の再現。それは行政がやることでしょうという声も多いが、実はこの幻の穴堰の再現はまだ未完だが管理棟の建設や環境整備含め最終的には約5000万円かかる見込。それをすべて、ふるさとのためにと私財を投げ打って再現したのが中野英喜さんである。この幻の穴堰は30年前にテレビで紹介されたり、市議会でも再現できないものかと取り上げられたこともあったが、中野さんにとっては30年来の夢の実現であった。
 中野英喜。昭和13年(一九三八)1月、十和田市に生まれる。中学3年生のとき東京都文京区立第一中学校に転校。都立文京高校、慶應大学法学部政治学科卒業。アメリカ・オハイオ州立大学留学。帰国後東北大学商法研究室を経てエジプト・アレキサンドリア大学国際交流セミナーに参加するなど、一九六〇年代は若き国際人であった。
「本当は弁護士か大学教授になりたかったんです」と語る中野さん。昭和37年(一九六二)24歳のとき、父が病気になり帰郷。長男であったことから父のやっていた㈱中野コンクリートブロックの社長に就任。事業の道に入った。
 昭和40年(一九五五)、中野コンクリートブロックをたたみ八戸に進出、結婚式場東奥会館を設立した。高度経済成長時代に入り、それまでそれぞれの家でやっていた結婚式がホテルや結婚式場で行われ始めていた時期である。いち早く時代の波に乗りこれが大当たりした。昭和43年(一九六八)、十勝沖地震をきっかけに青森市に進出。このとき現青森空港のある大谷地区の山を取得した。昭和54年(一九七九)新空港の建設地が決定。その建設予定地に中野さんが持っていた山が入り空港の一部として買収され、当時はみちのく銀行の筆頭株主となり話題になった。昭和55年(一九七〇)東奥カントリークラブをオープン。平成27年(二〇一五)十和田市の優雅な社交場十和田倶楽部をオープン。そしてこのほど、新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」を再現。
「今、穴堰の地に立ち眼下を見下ろすとそこには見事な田園風景が遥か遠くまで広がっています。これこそが十次郎が子孫に残したいと描いたものではなかろうか。子孫たちが、豊かに集う未来を確信して」と語る。
 写真は、渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」オープニングセレモニーで挨拶する中野英喜さん


新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」オープン

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 地元の人たちから通称「幻の穴堰」と呼ばれていた新渡戸十次郎未完の穴堰が、私財を投じた実業家中野英喜さんによって150年の眠りから覚めた。

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 この「幻の穴堰」は、新渡戸傳 が安政6年(一八五九)に稲生川を開削して三本木平に上水したが、三本木平は火山灰土 で漏水がひどく思うように上水できなかった。
 そこで新渡戸十次郎がその7年後の慶応2年(一八六六)にもう一本稲生川を通そうとしたが、十次郎の死去により950㍍掘ったところで未完に終わってしまった。最初の稲生川は十和田市の中里から上水しているが、この穴堰は約3・5㌔先の百目木から上水しようとしたものであった。

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 さらに驚くのは、当時ばんづるやてんばづる、なかづるなど使って掘ったその工事跡がさも昨日掘ったかのようにほとんど崩れておらず、当時の測量や工事の技術を見ることができる。そして管理棟の500㍍の範囲内に、「幻の穴堰」他、稲生川鞍手山出口、国営稲生川鞍手山出口、岩手から来た穴堰の技術者集団の記念碑「山の神」の碑があるなど、三本木開拓の八割方を説明できる。
 またこの穴堰には5種類のこうもりがおり、こうもりの生息地であることがわかった。

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 150年前の工事跡。上右はなかづるで砂岩を削ったときの跡。上左はてんばづるの跡。なかづるとてんばづるの摩擦跡が、150年経った今でもさも昨日工事したかのように光って見える。この砂岩は360万年~260万年前の浅い海に堆積した砂が隆起し固まったものである。
 クランク状の穴堰。左右から掘って中間でれたところを調整したところである。

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穴堰の中には5種類のコウモリが棲んでいる。

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第4横穴の出口と眼下に見える奥入瀬川。約37㍍の標高差がある

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管理事務所及びその内部



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