夢追人ニュース

3.11東日本大震災支援がきっかけで、このほど全国コンサートツアーを行なった

sakuiradamakoto.jpg 6月29日、十和田市文化センターで行なわれた満席の「桜田まことコンサートツアー2013 inとわだ」は熱気に包まれた。
 これは、4月19日、宮崎市から始まり、福岡、東京、京都など全国16ヵ所で行われた最終回のコンサートであった。
 地元十和田市で、楽器屋をやりながら音楽活動を始めたのは平成6年(一九九四)。それから19年、全国に仲間ができ、「ライブをして欲しい」と声をかけられ、今年は16ヵ所の全国ツアーを行なった他、昨年はカナダから声がかかり、12都市14公演を行なった。
 桜田まことというと、RABラジオ「桜田まこと 風のうた、音の旅」のパーソナリティや、ソフトバンクホークスの応援歌『ぼくたちのホームラン』の作詞・作曲及び歌などで知られている。
itabasikazuyuki.jpg 全国に飛び出すそもそものきっかけは、3・11東日本大震災の支援であった。
 3・11の惨状を見て桜田さんは、被災地の人たちを勇気づけるために音楽で支援できないものかと、遠野市を拠点に、三陸沿岸の子どもたちへの支援活動を行なっているプロジェクトNextに問い合わせた。早速5月に入り、山田町からぜひ来て下さいとの連絡が入り、避難所である保育園でコンサートを行った。さらに、音楽仲間である秋田県出身で元オフコースのメンバーである大間ジローさんらとグループを結成し被災地を廻った。
 今はネットの時代である。その活動をインターネットで見ていたカナダの人たちが、私たちも日本の被災地を応援したいからまことよ来てくれということになった。
 こうして昨年(二〇一二)9月にカナダに行き、12都市14公演をやり、カナダの人たちから行った先々で熱烈な歓迎を受けると共に、多くの義援金を預かり帰ってきた。
 それらの活動の中で生まれた歌の一つ『Rising Sun』の一節を紹介する。

さあ見えるだろう
新しい夜明けが
もう迷わない
振り返らず進もう
涙は全て流してしまおう
夢の種を育てる時が来た

a-suga-ruzu.jpg 桜田まこと 昭和43年(一九六八)十和田市に生まれる。3歳のとき、原因不明の髪が抜け落ちる病気になった。そんなことで子どもの頃はコンプレックスの塊であった。
 中学校に入ったとき、三つ下の妹が習っていたピアノが今は使われず埃をかぶっていた。オフコースが好きだった桜田さん、そのピアノで何気なくオフコースの曲を弾いてみた。自分で弾くピアノの音と、オフコースの音は新鮮だった。それから、学校から帰ると毎日ピアノに向かった。
 コンサートでは、見事なピアノの弾き語りをするが、ピアノの先生についたことなく、運指法もこのとき以来自然に身についたものである。
 三本木高校ではバンドを組み、盛岡大学4年生のとき、カナダに1年間留学。帰国後盛岡で3年間活動。平成6年に帰郷。十和田市で音楽活動を行った。
 最初の10年はコンサートだけでは食えなかったから楽器店を経営しながら活動。平成15年(二〇〇三)よりコンサート活動一本に絞った。それから10年、作曲やコンサート他、音楽プロデュースと活動を広げ、作曲は300曲を超えている。

 桜田さん満45歳。人間としても成熟期に入った。そして全国へと活動も広がった。45歳の新しいスタートでもある。
 弁証法に「量から質への転換」の法則がある。これまで量を積み重ねてきた桜田さん。成熟期に入りどう質的に変化するか楽しみである。

桜田さんがプロデュースするアースガールズと応援に駆けつけた盲目シンガーソングライターの板橋かずゆきさん



  

独学で作曲・編曲を学んだあと飯島俊成氏に師事。今は作曲家としての道を歩みはじめた
 nosakakimonori.jpg十和田市出身で、様々な分野で活躍する若手の文化関係者が出始めてきた。作曲家の野坂公紀さんもその一人である。
 十和田市出身の作曲家では、『月がとっても青いから』や『お座敷小唄』などで知られる菅原都々子の父親である陸奥明(本名・菅原陸奥人)。旧十和田湖町出身の桜田武男ぐらいのものである。
 野坂さんは昨年10月、自らが作曲した『air scape~木管五重奏の為の三章~』をひっさげて、首都圏を中心に活動する木管五重奏団「Rai‐0n」のコンサートを行い、大好評であった。いわばふるさとに錦を飾ったのである。
 野坂公紀。昭和59年(一九八四)1月、十和田市に生まれる。三本木中学、七戸高校を卒業。そして大学は音楽大学とか思いきや、ナントいわき明星大学の人文学部現代社会学科を卒業している。
 それが何で作曲家に?ということになるが、そこが人生の面白いところである。
 野坂さんは、北園小学校、三本木中学、七戸高校、そして大学と吹奏楽部に入っていた。高校のとき作曲家になりたいと思った。が、青森には教えてくれる先生がいない。そこで、吹奏楽から管弦楽まで100人くらいの音楽家のCDを片っぱしから聞いた。その中でこれはすごいと感動したのが飯島俊成さんの作品であった。
 早速、飯島先生のホームページに作曲を習いたいんですけれどとメールした。偶然にも飯島先生は、三本木高校吹奏楽部のために作曲しているときであった。飯島先生から、「その時にお会いしましょう」との返事が来た。まさに想えば叶うである。これをきっかけに飯島先生に作曲を師事した。
 が、大学に進むときに、野坂さんもさすがに作曲で食って行けると思っていなかったから、取りあえず社会科の先生になろうと、前述の大学に進学した。
 ところが、大学を卒業して教員の試験を受けたが、見事に落ちてしまった。しかたなく、広島県の音楽関係の会社に就職した。
 そこで音楽関係の仕事をしているうちに、やっぱり俺の進む道は音楽だと、会社をやめて上京。昼はアルバイトをしながら、夜間の音楽専門学校に入った。そこでピアノや音楽の基礎を学び、独学で作曲や編曲を学んだ。
 また、文化庁の芸術家海外留学制度を利用して、フランスの音楽学校に半年間留学し作曲を勉強。帰国後飯島先生に再び師事し、作曲家の道に一歩踏み出した。
 現在は、管弦楽や吹奏楽、室内楽の他、舞台や映像、放送のための楽曲、コンピューターミュージックなどと、作曲の幅を広げている。
 音楽大学の作曲科を出たから作曲家になれるのではない。夢を持ち、それに向かって行動するから作曲家になれるのである。

 将来が楽しみな新進若手作曲家の一人である。

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 写真は、野坂さんの曲を演奏した木管五重奏団「Rai‐on」

 鷹山宇一記念美術館
 takayamauiti.jpg鷹山宇一記念美術館の今年最初の企画展は、箱根・芦ノ湖成川美術館所蔵の現代女流作家展である。
 現代女流画家展は、82歳のときに青いケシ「ブルーポピー」を求めてヒマラヤに行き、92歳を過ぎて『命といふもの』を画集にまとめ、95歳になった現在なお描き続けている堀文子さんの作品(40点)をはじめ、次代の日本画を託される今をときめく森田りえ子さん(15点)など、14名の女流画家の作品が展示されている。
 展示室に入ったとたん、あっ女性の絵だなと、女性特有の優しさと華やかさが伝わってくる作品展である。
 展示作家は、堀文子、森田りえ子、松本祐子、鳥山玲、伊藤深游木、安田育代、吉澤照子、林美枝子、清水操、米倉正美、鈴木紀和子、青木淑江、宮本和胡、毛利やすみの皆さん。
 会期は、6月16日(日)迄。問い合わせは、℡0176‐62‐5858.

5周年記念展「フラワーズ」は9月8日迄
ゴールデンウィーク中だけで25,700人入る
 

hurawa-zu1.jpg hurawa-zu2.jpghurawa-zu3.jpg 十和田市現代美術館(坂戸勝館長)が開館5周年を迎えた。平成20年(二〇〇八)4月26日開館から5月9日まで5年間の入館者数は約83万人である。
 4月27日から始まった、開館5周年記念展「flowers(フラワーズ)」は、4月27日~5月6日までのゴールデンウィーク期間中だけでも、官庁街通りの桜と相まって2万5713人が入館した。
 この「flowers」は、「花」をテーマに14人のアーティストが作品を創るというもの。
hurawa-zu4.jpg しかもその作品は、美術館の中だけに留まらず街に飛び出し、中心商店街の14店舗に展示。観客は案内図を見ながら、街を回遊し観る、街にも「花」を咲かせる、美術館と商店街が一体となった「flowers」である。
 作品を展示した店主は、
 「北海道とか東京、大阪からも来ていました」と喜びを語る。
 展示アーティストは、青山悟、安斉研究所、大庭大介、大巻伸嗣、草間彌生、工藤麻紀子、須田悦弘である。、高橋匡太、チェ・ジョンファ、チームラボ、奈良美智、蜷川実花、藤森八十郎、山本修路の皆さん。 

 写真上/オープニングセレモニーに参加したアーティストたち

       (但し左側3人は館長、副館長、市長)

 写真下/草間彌生さんの花

 写真右/チェ・ジョンファさん(韓国)の花
 写真左/奈良美智さんの花

 一歩街に出て見ると
hurawa-zu8.jpghurawa-zu6.jpg hurawa-zu5.jpg 写真上/十和田市に移住したイラストレーター安斉将さんの花(七丁目バス停前)
 写真中/展示のために店まで変えてしまった山本修路さんの作品(高村食料品店)

 写真下/色とりどりのほうきやモップの花が(AST)

 会期は、9月8日(日)迄

映画『渾身』の原作は、十和田市出身の小説家川上健一さん
 kawakamikeniti.jpg1月中旬より全国で上映され、「手に汗握るとはこういう時だな」とか、「映画でこんなに熱くさせてくれるのなんて、近年みたことがない、涙が止まらなかった」、「近年稀にみる本格的な邦画であった」、「原作小説はシンプルでさわやかな佳作である素晴らしい相撲エンターテインメント映画である」などたくさんの感動の言葉が寄せられている映画『渾身KON‐SHIN』。
 実はこの映画は、十和田市出身の小説家川上健一さんの原作『渾身』(集英社文庫)である。
 4月20日、十和田市民文化センターで、川上さんを迎えて、『渾身KON‐SHIN』の特別上映会が行なわれた。
 上映前に、舞台で挨拶に立った川上さんは、
 「30年ほど前に、テレビで隠岐諸島で20年に一度行なわれている古典相撲のニュースを見たんです。その相撲で、力士の背中に塩を浴びせるように投げつける場面があったんです。その時テレビから『これはお前が書く物語だよ』と聞こえてきたんです。それからしばらくして、編集者から『次は何を書きますか』と聞かれたんで、隠岐の古典相撲の話をしたら調べてくれて、『1週間後にある』といわれて、取材にいったんです」と、『渾身』を書くきっかけを話した。
 小説は、坂本多美子(映画では伊藤歩)は夫の英明(映画では青柳翔)と、まだ「お母ちゃん」と呼んでくれないが、前妻の娘である5歳の琴世と幸せに暮らしていた。
 隠岐島一番の古典相撲大会。夜を徹して行なわれた大会もすでに昼過ぎ。いよいよ結びの大一番。最高位の正三役大関に選ばれた英明は、地区の名誉と家族への思いを賭け土俵に上がる。息詰まる世紀の大熱戦、勝負の行方やいかに!?型破りのスポーツ小説にして、感動の家族小説である。
konsin.jpg 川上健一さんは、昭和24年(一九四九)十和田市に生まれた。十和田工業高校では野球部に入り、剛速球のエースとして、当時三沢高校の大田幸司投手と対戦、一勝一敗で引き分けているスポーツマンであった。が、肩を壊し野球を諦めた。卒業後上京、広告製作事務所などをやっていたが、昭和52年(一九七七)、『跳べ、ジョー!B・Bの魂が見てるぞ』で「小説現代」新人賞を受賞。これをきっかけに小説家の道を歩み、平成14年(二〇〇二)に『翼はいつまでも』で坪田譲冶文学賞を受賞。
 また、『雨鱒の川』及び『四月になれば彼女は』は映画化されている。川上さんの小説の映画化はこれで3本目である。

これは注目だ!! 寺山が生前に出版した全著作187点を展示
 terayamashuuji1.jpg「私が死んでも墓は建てて欲しくない。私の墓は私のことばであれば充分」と書き残した寺山修司。その言葉の通り、初出版である『われに五月を』(作品社刊)、昭和32年(一九五七)。47歳で急逝する最後の本となった『ニーベルンゲンの指環・ラインの黄金』(新書館刊)、昭和58年(一九八三)までの26年間に、俳句、短歌、詩、小説、評論など実に187冊の本を出している。1年間に7冊以上である。その他に演劇公演をやり映画を制作しているのである。
 自分は長生きできないと悟っていた寺山修司。生原稿見ると、そう推敲した跡もない。頭から出たそのままが本になっている。まさに天才であり、寺山の1分1秒は、無駄にできない1分1秒であったに違いない。
 そして、生涯に出版した全著作187点が展示されている。絶版になっている本も多いであろう。その本を手にとって見ることもできるのだ。
 今回の「寺山修司の原稿と本」展は、寺山修司ファンにとっては、1日居ても見切れない宝物がたくさん展示されている。
 会期は、~7月28日迄。 

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十和田市現代美術館開館5年目、市民に開放市民で溢れる美術館に変わる
 genbi1.jpg genbi2.jpg今年4月26日で開館5周年を迎える十和田市現代美術館。
 美術館というと一般的には、静かに作品を鑑賞するというイメージが強いが、十和田市現代美術館は、子どもから若者たち、子育て世代、そして創年と、市民や訪れたひとたちが憩い、集い、交流する場となっている。
 その一つが「超訳・びじゅつ学校」である。「びじゅつ学校」といっても絵の描き方を教えるわけではない。
 戌井昭人(小説家)、下道基行(写真家)、山下陽光(高円寺の古着屋元店主)、山本修路(現代美術家)、Nakari(駆け出しの現代美術家?)ら、多方面で活躍する作家が部長となって、ものがたり部や観察部、被服部、樹木部、わら部などを立上げ、部員はそれぞれ思いおもいの作品を創り展示するというもの。
genbi5.jpg そして、ここで生まれた部活は、まちに広がり、美術館とまちとひとをつなげる。
 また、美術館ないし、市民の団体が美術館を会場に様々なイベントを行い、美術とは直接関係のないひとたちも多く美術館を訪れている。
 かつて、こんな美術館があったろうか。
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 5周年を迎える十和田市現代美術館を裏で支えてきた
 nanjouhumio.jpg平成20年(二〇〇八)4月26日にオープンした十和田市現代美術館(坂戸勝館長)。今年4月26日で満5周年を迎える。
 十和田市現代美術館は、オープン2年半後の平成22年二〇一〇)11月に入館者が50万人突破。3・11の東日本大震災以降入館者の伸びが鈍化したものの、平成24年(二〇一二)6月に70万人を突破。5周年を2ヵ月弱残した今年2月末現在で約79万4000人が入館している。
 入館者の約90㌫が市外、その約60㌫が県外である。
 また、平成23年(二〇一一)には、『アートと建築を巡る旅へ!/日本の美術館ベスト100ガイド』(マガジンハウス社刊)の表紙とグラビアを飾った。
 さらに、「行ってよかった美術館&博物館ランキング2011」で、美術館の部の第20位に選ばれた。
 この十和田市現代美術館の企画段階からかかわり、現代美術館を提案し、開館以後の企画や運営に携わってきたのが、美術評論家で、森美術館館長の南條史生さんである。
 美術館の計画が持ち上がった当初、市民の反対運動もあったが、今は十和田市の一つの象徴にさえなっている。
 「まだまだですね。美術の話題になったとき、金沢21世紀美術館は必ず出てきますけれども、十和田市現代美術館はなかなか出てこない。
 ですから、これで満足してはいけない。
 十和田市現代美術館は、市民が活動できる場でなければならない。美術館と周りの建物が違和感があってはならないし、商業施設とつながっていかなければならない。
 焼山の奥入瀬渓流の入口に市の建物(奥入瀬渓流館)がありますよね。あれはもったいないです。美術館を焼山に広げて行く。奥入瀬渓流につなげ、十和田湖につなげて行かなければなりません」
 と、十和田市現代美術館の持つ可能性と未来を語る。
 そして、現在は東京の森美術館館長である南條さんが、以前代表をつとめたナンジョウアンドアソシエイツが、美術館の指定管理者制度移行に伴い、十和田市現代美術館の指定管理者として運営している。その夢と可能性が今、着々と進行している。
 南條史生。昭和24年(一九四九)東京都出身。慶應義塾大学卒業、美学美術史学専攻。大学卒業後、国際交流基金、ICAナゴヤ・ディレクター、ナンジョウアンドアソシエイツ㈱を経て、平成14年(二〇〇二)森美術館副館長。平成18年(二〇〇六)より現職にある。
 長年にわたって世界の美術を日本に紹介している。平成21年(二〇〇九)には、中国の現代美術家で人権活動家の艾・未未を紹介した「アイ・ウェィウェィ展」、美術と医学を交差させて、生と死の意味を問いかけた「医学と美術展」など、話題の企画展が多い。
 また、日本の美術館のほとんどが、著作権保護のため撮影が禁止されている中で、クリエイティブ・コモンズ導入により撮影を条件つきで自由とするなど、常に美術界の古い体質に一石を投じている。
 著書に『疾走するアジア‐現代アートの今を見る』(美術年鑑社刊)、『アートを生きる』(角川書店刊)などがある。

新渡戸塾・稲生塾特別講座
 

yubiga1.jpg yubiga3.jpg新渡戸記念館(新渡戸常憲館長)の新渡戸塾・稲生塾の最終講座は、濱田珠鳳さんの「指画」の実演及び体験であった。
 「指画」は、中国の唐の始まる、絵筆は一切使わず、手の甲、手のひら、つめなどで描く技法である。
 濱田さんは昭和18年(一九四三)韓国の大邱府で生まれた。
 昭和62年(一九八七)中国の水墨画に魅せられ訪中し勉強。その中で唐の時代から伝わる「指画」に出会い、「指画」家に師事。今では、外国人としてはただ一人の中国指画研究会に登録されている「指画」家である。
 濱田さんの「指画」の実演及び体験は、市民文化センターと、ケアハウス・ボナール十和田の2ヵ所で行なわれた。
 市民文化センターでは、子どもなど50名が参加。ボナール十和田では70名が参加。濱田さんの指導を受けての「指画」体験では、初めてながらそれぞれ個性的な「指画」を描いていた。

yubiga2.jpg写真上/指画を実演して見せる濱田珠鳳さん。

写真下/濱田さんが実演で描いた指画

寺山修司市民大学

terayamasimindaigaku.jpg 寺山修司記念館の外郭団体寺山修司五月会(山本優会長)が主催する寺山修司市民大学の最終合同講座が、2月2日、三沢商工会館で行なわれた。
 寺山修司市民大学は平成21年(二〇〇九)に開講。平成24年度は短歌学科と教養学科の2科が置かれた。その最終合同講座である。
 最終講座は、寺山修司の元夫人で市民大学の学長でもある九條今日子さん、元天井桟敷の役者で寺山修司記念館館長の佐々木英明さん、異色の教師で、寺山修司の研究家でもある鎌田紳爾さんの3人による対談であった。
 その中で、沢田教一が青森高校で同級生であった。その沢田がピューリッツァー賞をとって世界的な写真家になった。
 多分、それが天井桟敷をつくるきっかけとなったし、以外に早く海外公演したのも、沢田には負けまいという意識があったんじゃないかなどと、寺山修司を知る上で非常に興味ある話も飛び出した。

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