夢追人ニュース

十和田市現代美術館開館5年目、市民に開放市民で溢れる美術館に変わる
 genbi1.jpg genbi2.jpg今年4月26日で開館5周年を迎える十和田市現代美術館。
 美術館というと一般的には、静かに作品を鑑賞するというイメージが強いが、十和田市現代美術館は、子どもから若者たち、子育て世代、そして創年と、市民や訪れたひとたちが憩い、集い、交流する場となっている。
 その一つが「超訳・びじゅつ学校」である。「びじゅつ学校」といっても絵の描き方を教えるわけではない。
 戌井昭人(小説家)、下道基行(写真家)、山下陽光(高円寺の古着屋元店主)、山本修路(現代美術家)、Nakari(駆け出しの現代美術家?)ら、多方面で活躍する作家が部長となって、ものがたり部や観察部、被服部、樹木部、わら部などを立上げ、部員はそれぞれ思いおもいの作品を創り展示するというもの。
genbi5.jpg そして、ここで生まれた部活は、まちに広がり、美術館とまちとひとをつなげる。
 また、美術館ないし、市民の団体が美術館を会場に様々なイベントを行い、美術とは直接関係のないひとたちも多く美術館を訪れている。
 かつて、こんな美術館があったろうか。
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 5周年を迎える十和田市現代美術館を裏で支えてきた
 nanjouhumio.jpg平成20年(二〇〇八)4月26日にオープンした十和田市現代美術館(坂戸勝館長)。今年4月26日で満5周年を迎える。
 十和田市現代美術館は、オープン2年半後の平成22年二〇一〇)11月に入館者が50万人突破。3・11の東日本大震災以降入館者の伸びが鈍化したものの、平成24年(二〇一二)6月に70万人を突破。5周年を2ヵ月弱残した今年2月末現在で約79万4000人が入館している。
 入館者の約90㌫が市外、その約60㌫が県外である。
 また、平成23年(二〇一一)には、『アートと建築を巡る旅へ!/日本の美術館ベスト100ガイド』(マガジンハウス社刊)の表紙とグラビアを飾った。
 さらに、「行ってよかった美術館&博物館ランキング2011」で、美術館の部の第20位に選ばれた。
 この十和田市現代美術館の企画段階からかかわり、現代美術館を提案し、開館以後の企画や運営に携わってきたのが、美術評論家で、森美術館館長の南條史生さんである。
 美術館の計画が持ち上がった当初、市民の反対運動もあったが、今は十和田市の一つの象徴にさえなっている。
 「まだまだですね。美術の話題になったとき、金沢21世紀美術館は必ず出てきますけれども、十和田市現代美術館はなかなか出てこない。
 ですから、これで満足してはいけない。
 十和田市現代美術館は、市民が活動できる場でなければならない。美術館と周りの建物が違和感があってはならないし、商業施設とつながっていかなければならない。
 焼山の奥入瀬渓流の入口に市の建物(奥入瀬渓流館)がありますよね。あれはもったいないです。美術館を焼山に広げて行く。奥入瀬渓流につなげ、十和田湖につなげて行かなければなりません」
 と、十和田市現代美術館の持つ可能性と未来を語る。
 そして、現在は東京の森美術館館長である南條さんが、以前代表をつとめたナンジョウアンドアソシエイツが、美術館の指定管理者制度移行に伴い、十和田市現代美術館の指定管理者として運営している。その夢と可能性が今、着々と進行している。
 南條史生。昭和24年(一九四九)東京都出身。慶應義塾大学卒業、美学美術史学専攻。大学卒業後、国際交流基金、ICAナゴヤ・ディレクター、ナンジョウアンドアソシエイツ㈱を経て、平成14年(二〇〇二)森美術館副館長。平成18年(二〇〇六)より現職にある。
 長年にわたって世界の美術を日本に紹介している。平成21年(二〇〇九)には、中国の現代美術家で人権活動家の艾・未未を紹介した「アイ・ウェィウェィ展」、美術と医学を交差させて、生と死の意味を問いかけた「医学と美術展」など、話題の企画展が多い。
 また、日本の美術館のほとんどが、著作権保護のため撮影が禁止されている中で、クリエイティブ・コモンズ導入により撮影を条件つきで自由とするなど、常に美術界の古い体質に一石を投じている。
 著書に『疾走するアジア‐現代アートの今を見る』(美術年鑑社刊)、『アートを生きる』(角川書店刊)などがある。

新渡戸塾・稲生塾特別講座
 

yubiga1.jpg yubiga3.jpg新渡戸記念館(新渡戸常憲館長)の新渡戸塾・稲生塾の最終講座は、濱田珠鳳さんの「指画」の実演及び体験であった。
 「指画」は、中国の唐の始まる、絵筆は一切使わず、手の甲、手のひら、つめなどで描く技法である。
 濱田さんは昭和18年(一九四三)韓国の大邱府で生まれた。
 昭和62年(一九八七)中国の水墨画に魅せられ訪中し勉強。その中で唐の時代から伝わる「指画」に出会い、「指画」家に師事。今では、外国人としてはただ一人の中国指画研究会に登録されている「指画」家である。
 濱田さんの「指画」の実演及び体験は、市民文化センターと、ケアハウス・ボナール十和田の2ヵ所で行なわれた。
 市民文化センターでは、子どもなど50名が参加。ボナール十和田では70名が参加。濱田さんの指導を受けての「指画」体験では、初めてながらそれぞれ個性的な「指画」を描いていた。

yubiga2.jpg写真上/指画を実演して見せる濱田珠鳳さん。

写真下/濱田さんが実演で描いた指画

寺山修司市民大学

terayamasimindaigaku.jpg 寺山修司記念館の外郭団体寺山修司五月会(山本優会長)が主催する寺山修司市民大学の最終合同講座が、2月2日、三沢商工会館で行なわれた。
 寺山修司市民大学は平成21年(二〇〇九)に開講。平成24年度は短歌学科と教養学科の2科が置かれた。その最終合同講座である。
 最終講座は、寺山修司の元夫人で市民大学の学長でもある九條今日子さん、元天井桟敷の役者で寺山修司記念館館長の佐々木英明さん、異色の教師で、寺山修司の研究家でもある鎌田紳爾さんの3人による対談であった。
 その中で、沢田教一が青森高校で同級生であった。その沢田がピューリッツァー賞をとって世界的な写真家になった。
 多分、それが天井桟敷をつくるきっかけとなったし、以外に早く海外公演したのも、沢田には負けまいという意識があったんじゃないかなどと、寺山修司を知る上で非常に興味ある話も飛び出した。

 JAXA(宇宙航空研究開発機構)タウンミーティングで、 青森県弘前市出身、宇宙研の川口淳一郎教授が、 「挑戦しない限り成果は得られない。挑戦せよ」とエール送る
 1月6日、三沢航空科学館(大柳繁造館長)で、はやぶさプロジェクトマネージャの川口淳一郎教授と、宇宙輸送系システム研究会開発センターの沖田耕一センター長を迎えての、JAXA(宇宙航空研究開発機構)タウンミーティングが行なわれた。
 タウンミーティングには、子どもたちも多く参加した。


 予算はアメリカの十分の一
 タウンミーティングは、まずJAXAから、JAXAの概要、JAXA及びNASA(アメリカ)、ESA(欧州宇宙機関)との予算規模の比較などの説明があった。
 予算規模では、JAXAはNASAの十分の一しかない中で研究を続けていることを知らされた。


 こんな経済状況だからこそ未来への投資が必要だ
 「話題提供」パート1として、宇宙輸送システム研究開発センターの沖田耕一センター長が、日本のロケット開発の歴史や中国やインド、韓国など、アジア圏での宇宙開発の台頭などを説明した。
 「話題提供」のパート2として、川口淳一郎教授が話をした。

kawagutijunitirou.jpg 川口教授は、「はやぶさ」の直接的な成果は、もちろんは科学技術の成果です。それは人材育成にも貢献します。
 もう一つは国民が夢を持てた、自信が持てたことではないでしょうか。映画が3本もつくられました。
 アメリカでは今、音速の20倍という航空機の実験をしております。日本はこんなことをやっているかというと、全くやっていません。私は日本政府に提案しました。
 この経済状況の中でそんなことが出来るかといわれました。
 違うんです。こんな経済状況だからこそ未来への投資が必要なんです。ライト兄弟が、エンジン付きの飛行機を開発したのは、1903年ですから、わずか100年ちょっと前です。
 この100年間に航空機がもたらした社会の変化というのは、とんでもないものでした。
 これから100年後はどうなるでしょうか。IC(集積回路)も発展するでしょう。その中で一つの切り札になっているのは、超高速での輸送手段の出現だろうと私は思っています。
 未来に投資しなかったら100年といわず、30年後どんなツケがまわってくるでしょうか。私たちが30年後に一流企業を残していけるかどうかというのは、実は未来への投資をするかどうかにかかっているんです。
 アジア諸国ではどんなことが行なわれているのか。つい最近、中国の惑星探索機が小惑星トータティスにフライバイ(接近通過)して写真を撮りました。中国はここまで来ている。インドは火星探索機を今年10月に打ち上げようとしています。
 私たちは、98年(平成10年)に「のぞみ」という火星探索機を打ち上げたが失敗しました。我々が目指していたのはアメリカ、ロシアに続いて世界で3番目に火星を周回させる予定でした。今、中国もインドも火星周回機を打ち上げようとしています。かつて世界で3番目を争っていた日本が、今やアジアで3番目になれるかどうかになっています。
 この国に自信を持てなくてどうしますか。
 「はやぶさ」の最初の計画は、小惑星の片道飛行でした。私たちはアメリカから四半世紀遅れていました。だから手堅く行こうということでした。当時、小惑星へ探索機を送る計画は私たちだけでした。NASAと一緒に勉強会をしたら、NASAは私たちのアイディアをとってしまって実施に移してしまったんです。
 私たちはショックを受けました。だけど悔しかった。
 そこで私たちは、NASAでの席上、私たちは小惑星からサンプリングすると思わずいってしまいました。
 実は、やぶれかぶれのハッタリでした。こだわったのはオリジナリティ、独創性ということでした。
 月刊誌『致知』で、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんと対談したとき、彼はこういいました。
 「研究は言われたことを言われたとおりにしている奴はダメだ。教科書を信じる奴はバカだといわれてしまう世界です」
 教科書に書いていることは過去のことだけです。
 新渡戸稲造は、新しいことへの取り組み方として、「急がず、弛まず」といいました。
 新渡戸稲造の祖父新渡戸傳は三本木開拓をしました。
 そして廣澤安任は三沢の開拓の祖です。その孫の廣澤春任は、実は私たち宇宙研の大先輩です。新渡戸傳も廣澤安任も成功したのは、明るい展望が持ち、かつ自信を持っていたからです。
 日本はこれまで製造の国といわれてきました。これからは創造の国に変わって行かなければなりません。誰もやったことのないことに挑む。やれない理由をさがすんじゃなくて、やれる理由を探すんです。挑戦しない限り成果は得られません。
 やれる理由を示して、明るい展望を示す。これがJAXAの役割です。と、参加者に勇気と、明るい展望を与える話であった。

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写真上/JAXAタウンミーティングでユーモアを交えながら語る川口淳一郎教授
写真下/JAXAタウンミーティングに参加した子どもたちと記念写真。この中から将来科学者が出るかも

 kitasatodaigakukyoukyougaku.jpg十和田市には、十和田フィルハーモニー管弦楽団、ジュニアオーケストラ十和田、そして北里大学交響楽団部の三つのオーケストラがある。
 その三つ目のオーケストラである北里大学交響楽団部の、第25回定期演奏会が12月8日、十和田市民文化センターで行なわれた。
 25回目の今年は、「旅」をテーマに、第1部は、『ポルカ 観光列車』、『篤姫』のメインテーマ、『TITANIC』(映画『TITANIC』よりの3曲。
 第2部は、交響詩『中央アジアの草原にて』と、『眠れる森の美女』組曲から、「序奏 リラの精」「アダージョ パ・ダクション」「パ・ド・カラクテール」(長靴をはいた猫と白い猫)、「パノラマ」「ワルツ」(第1幕)であった。
十和田市立中央病院「アルタ・ノヴァ」の会コンサート
思わぬお客さん岡田照幸さんが飛び込む
 kusanomasatada.jpgkusano2.jpg十和田市立中央病院の芸術ボランティア団体、「アルタ・ノヴァ」の会(新渡戸常憲会長)のコンサートが12月15日、中央病院のエントランスホールで行われた。
 ゲストは、日本を代表するピアニストの一人である草野政眞さん。草野さんは、ドビュッシーや、シューベルトのピアノをわかり易く解説しながら演奏。集まった一般市民や入院患者が、その演奏と語りに魅せられていたとき、思わぬお客さん、ピアノ奏者で、演奏は勿論だが、ディスクジョッキーや音楽塾などで活躍する岡田照幸さんが飛び込みで登場。
 シューマンやショパンのピアノを、二人の解説を交えた、より音楽内容を深めるピアノコンサートとなった。

青森県七戸町出身の学者姉妹

aidayouko.jpg (あいだ) 陽子さん(理化学研究所分子ウイルス学研究ユニットリーダー)
 理化学研究所(以下理研)。実は、一般にはあまり知られていないが、すごいところである。
 「2位じゃダメなんでしょうか?」といった馬鹿な政治家がいたが、世界最速のスーパーコンピュータ「京」を開発したのが、この理研である。
 それだけではない。理研理事長の野依良治さんは平成13年(二〇〇一)のノーベル科学賞の受賞者。同じく理研の脳科学研究センター長の利根川進さんは、昭和62年(一九八七)のノーベル医学生理学賞受賞者。その他、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士(昭和24年受賞)や朝永振一郎博士(昭和40年受賞)も、かつて理研の研究者であった。
 また今、ノーベル賞受賞の山中伸弥京大教授が開発した、iPS細胞を使った目の治療やがん治療の臨床研究にも着手した。
 理研は、大正6年(一九一七)、日本資本主義の基礎を築いたといわれる渋沢栄一らによって設立された、95年の歴史を持つ、物理学、工学、化学、農学、生物学、医学の日本最大の頭脳集団である。
 間陽子さんは、その理研の分子ウイルス学特別研究ユニットのリーダーであると共に、東京大学連携大学院の、連携教授でもある。
 「理研は、研究者の自由な楽園です。研究者が好きな研究をすることができます。
 私が今取り組んでいるのは、世界の死亡原因の約3割がエイズやサーズ、インフルエンザなどの感染症なんですが、それらのワクチンと抗ウイルス薬をつくることなんです。自分のやっている研究が必ず人類の役に立つ。そう思って研究しています」と語る。
 間陽子。昭和31年(一九五六)4月、七戸町に生まれる。七戸中学校、青森西高、北里大学獣医学部卒業。北海道大学大学院博士課程修了後、理研に入り現在に至る。
 二人の実家は、実は七戸町の諏訪牧場である。

 (あいだ) 弘子さん(日本中央競馬会競走馬総合研究所運動科学研究室室長)
 「競馬は男の世界でしょう。私が入るまでは、女性の獣医師なんて一人もいなかったんです」と語る間弘子さん。
 今は、日本中央競馬会で、運動科学や臨床医学、感染症、温泉リハビリなどの研究に取り組む、競走馬総合研究所で、運動整理学の研究をしている。
 間弘子。昭和34年(一九五九)1月、七戸町に生まれる。七戸中、三本木高校、北里大学獣医学部卒業。アメリカ・カルフォニア大学ディビス校動物病院留学。
 帰国後、実家が競走馬を生産していたということもあって、昭和59年(一九八四)日本中央競馬会に入る。しかし、前述したように競馬界は男性社会で、正職員にはなれなかった。
 平成3年(一九九一)になって、男女雇用機会均等法が整備されこともあって、ようやく正職員として採用された。
 そして平成7年(一九九五)に、北海道大学で獣医学博士号取得し、現在は、競走馬総合研究所運動科学研究室の室長である。

 写真/七戸町出身の姉の間陽子さん(向かって写真左)と、妹の間弘子さん。二人揃って学者姉妹だ

 

松延康さんの大人のための理科実験
 matunobesizuka1.jpgmatrunobusizika2.jpg日本テレビ「世界一受けたい授業」でも人気の、理科研究フォーラム夢・サイエンス代表の松延康さん。
 12月21日、八戸ポータブルミュージアムはっちで、大人のための「いまさら本気の理科実験」が行なわれた。
 親子づれや高校生、そして大人と50人ほど参加した。
 たとえば、「重さの感覚実験」では、まず丸い鉄の玉を参加者に持たせてみる。次に、机に6つの箱を並べる(写真)。箱は左から数キロづつ重くなっている。
 そして、その箱を左から準に持たせ、さてこの鉄の玉と同じ重さの箱はどれでしょうかと聞く。
 50人いて、当てた人はゼロでった。
 何故?これはプラシーボ効果を利用した実験である。
 プラシーボとは偽薬のことで、これは医療の現場でも使われることがある。
 つまり、最初に鉄の玉を持たせる。鉄は小さいが重いというイメージを持つ。
 そして鉄の玉より数十倍大きなダンボールの箱を持たせる。ダンボールは軽いというイメージがあるから、重くてもそう重く感じないのである。
 このプラシーボ効果は、商売にも使われ、騙されることがあるのでご用心。
 たくあんの電気を通すとオレンジ色に光る?実験。
 たくあんには、塩分、つまり塩化ナトリウムが入っている。これが電気を通すと化学反応を起こし光るのである。
 ここでは、二つの理科実験を紹介したが、大人も子どもも、ワクワクしながら目を皿のようにして実験を見張り、また参加していた。

 写真上/ 「この鉄の玉(左端の横にある)と同じ重さの箱をいい当てて下さい」と、参加者に、左側からちょっとづつ重くなっている箱を一つづつ持たせる。結果はいい当てたひとゼロであった。何故?

 写真下/電気を通すとたくあんがオレンジ色に光る実験

 三沢航空科学館

 rikugunbki1.jpg 人間情報紙「夢追人の記事がきっかけとなって69年ぶりに引き揚げられた、旧日本陸軍の立川キ54一式双発練習機。今、三沢航空科学館(大柳繁造館長)に展示されている。
 昭和18年(一九四三)9月27日、秋田の能代飛行場から八戸に向かう訓練の途中、エンジンの不調により十和田湖の中湖に不時着した。
 飛行機には、少年飛行兵4人が乗っていたが、3人は飛行機から脱出し、自力で岸に泳ごうとしたが、途中で力尽き湖の底に沈んでしまった。怪我をした1人が、飛行機の上にいたのを、ヒメマスを獲っていた十和田湖の漁師に助けられた。
 この立川キ54一式双発練習機は、立川飛行機が開発し、1342機作られた。が、現存するのはこの1機だという戦前の日本の貴重な技術遺産、そして戦争遺産でもある。
 立川キ54一式双発練習機は、全長11・94㍍、全幅17・9㍍、総重量3897㌔、最大速度367㌔、巡航速度240㌔、航続距離960㌔(航空科学館展示資料)である。
 驚くことに、戦地に船で運ぶとき、両翼を簡単に取り外すことができるように、たった4本のピンで留められていたことである。
 この引き揚げられた一式双発練習機には、胴体壁に断熱材が張られ、床には暖房用の配管があった。製造年月日の銘板には、昭和17年9月15日、製造番号294と彫られていた。
 rikugunki2.jpgrikugunki3.jpg 写真上/十和田湖の湖底から引き揚げられた旧陸軍の立川キ54一式双発練習機。69年もの間湖底に沈んでいたにもかかわらず、これほどの姿でいられたのは奇跡に近い。それは、水深57㍍の湖底で、外気温の影響を受けず、常に水温が10度前後という環境のもとにあったからであろう。しかし、さすがに復元は難しい。
 機体の前にあるのはエンジン。プロペラが曲がっているのは、飛行機が不時着したとき、プロペラがまだ廻っており、水面を叩きつけたためにあろう。機体の左側にある翼は、車輪を見せるためにひっくり返して展示している。
 写真中/驚くのは、飛行機の全重量が3,897㌔にもかかわらず、翼がたった4本のピンで留められていたということである。これは、船で戦地に運ぶとき、翼を簡単に取り外すためであろう。

 写真下/飛行機の絵は、当時の関係者が描き、カレンダーに使われた一式双発練習機の絵。

 

 

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