夢追人ニュース

 JAXA(宇宙航空研究開発機構)タウンミーティングで、 青森県弘前市出身、宇宙研の川口淳一郎教授が、 「挑戦しない限り成果は得られない。挑戦せよ」とエール送る
 1月6日、三沢航空科学館(大柳繁造館長)で、はやぶさプロジェクトマネージャの川口淳一郎教授と、宇宙輸送系システム研究会開発センターの沖田耕一センター長を迎えての、JAXA(宇宙航空研究開発機構)タウンミーティングが行なわれた。
 タウンミーティングには、子どもたちも多く参加した。


 予算はアメリカの十分の一
 タウンミーティングは、まずJAXAから、JAXAの概要、JAXA及びNASA(アメリカ)、ESA(欧州宇宙機関)との予算規模の比較などの説明があった。
 予算規模では、JAXAはNASAの十分の一しかない中で研究を続けていることを知らされた。


 こんな経済状況だからこそ未来への投資が必要だ
 「話題提供」パート1として、宇宙輸送システム研究開発センターの沖田耕一センター長が、日本のロケット開発の歴史や中国やインド、韓国など、アジア圏での宇宙開発の台頭などを説明した。
 「話題提供」のパート2として、川口淳一郎教授が話をした。

kawagutijunitirou.jpg 川口教授は、「はやぶさ」の直接的な成果は、もちろんは科学技術の成果です。それは人材育成にも貢献します。
 もう一つは国民が夢を持てた、自信が持てたことではないでしょうか。映画が3本もつくられました。
 アメリカでは今、音速の20倍という航空機の実験をしております。日本はこんなことをやっているかというと、全くやっていません。私は日本政府に提案しました。
 この経済状況の中でそんなことが出来るかといわれました。
 違うんです。こんな経済状況だからこそ未来への投資が必要なんです。ライト兄弟が、エンジン付きの飛行機を開発したのは、1903年ですから、わずか100年ちょっと前です。
 この100年間に航空機がもたらした社会の変化というのは、とんでもないものでした。
 これから100年後はどうなるでしょうか。IC(集積回路)も発展するでしょう。その中で一つの切り札になっているのは、超高速での輸送手段の出現だろうと私は思っています。
 未来に投資しなかったら100年といわず、30年後どんなツケがまわってくるでしょうか。私たちが30年後に一流企業を残していけるかどうかというのは、実は未来への投資をするかどうかにかかっているんです。
 アジア諸国ではどんなことが行なわれているのか。つい最近、中国の惑星探索機が小惑星トータティスにフライバイ(接近通過)して写真を撮りました。中国はここまで来ている。インドは火星探索機を今年10月に打ち上げようとしています。
 私たちは、98年(平成10年)に「のぞみ」という火星探索機を打ち上げたが失敗しました。我々が目指していたのはアメリカ、ロシアに続いて世界で3番目に火星を周回させる予定でした。今、中国もインドも火星周回機を打ち上げようとしています。かつて世界で3番目を争っていた日本が、今やアジアで3番目になれるかどうかになっています。
 この国に自信を持てなくてどうしますか。
 「はやぶさ」の最初の計画は、小惑星の片道飛行でした。私たちはアメリカから四半世紀遅れていました。だから手堅く行こうということでした。当時、小惑星へ探索機を送る計画は私たちだけでした。NASAと一緒に勉強会をしたら、NASAは私たちのアイディアをとってしまって実施に移してしまったんです。
 私たちはショックを受けました。だけど悔しかった。
 そこで私たちは、NASAでの席上、私たちは小惑星からサンプリングすると思わずいってしまいました。
 実は、やぶれかぶれのハッタリでした。こだわったのはオリジナリティ、独創性ということでした。
 月刊誌『致知』で、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんと対談したとき、彼はこういいました。
 「研究は言われたことを言われたとおりにしている奴はダメだ。教科書を信じる奴はバカだといわれてしまう世界です」
 教科書に書いていることは過去のことだけです。
 新渡戸稲造は、新しいことへの取り組み方として、「急がず、弛まず」といいました。
 新渡戸稲造の祖父新渡戸傳は三本木開拓をしました。
 そして廣澤安任は三沢の開拓の祖です。その孫の廣澤春任は、実は私たち宇宙研の大先輩です。新渡戸傳も廣澤安任も成功したのは、明るい展望が持ち、かつ自信を持っていたからです。
 日本はこれまで製造の国といわれてきました。これからは創造の国に変わって行かなければなりません。誰もやったことのないことに挑む。やれない理由をさがすんじゃなくて、やれる理由を探すんです。挑戦しない限り成果は得られません。
 やれる理由を示して、明るい展望を示す。これがJAXAの役割です。と、参加者に勇気と、明るい展望を与える話であった。

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写真上/JAXAタウンミーティングでユーモアを交えながら語る川口淳一郎教授
写真下/JAXAタウンミーティングに参加した子どもたちと記念写真。この中から将来科学者が出るかも

 kitasatodaigakukyoukyougaku.jpg十和田市には、十和田フィルハーモニー管弦楽団、ジュニアオーケストラ十和田、そして北里大学交響楽団部の三つのオーケストラがある。
 その三つ目のオーケストラである北里大学交響楽団部の、第25回定期演奏会が12月8日、十和田市民文化センターで行なわれた。
 25回目の今年は、「旅」をテーマに、第1部は、『ポルカ 観光列車』、『篤姫』のメインテーマ、『TITANIC』(映画『TITANIC』よりの3曲。
 第2部は、交響詩『中央アジアの草原にて』と、『眠れる森の美女』組曲から、「序奏 リラの精」「アダージョ パ・ダクション」「パ・ド・カラクテール」(長靴をはいた猫と白い猫)、「パノラマ」「ワルツ」(第1幕)であった。
十和田市立中央病院「アルタ・ノヴァ」の会コンサート
思わぬお客さん岡田照幸さんが飛び込む
 kusanomasatada.jpgkusano2.jpg十和田市立中央病院の芸術ボランティア団体、「アルタ・ノヴァ」の会(新渡戸常憲会長)のコンサートが12月15日、中央病院のエントランスホールで行われた。
 ゲストは、日本を代表するピアニストの一人である草野政眞さん。草野さんは、ドビュッシーや、シューベルトのピアノをわかり易く解説しながら演奏。集まった一般市民や入院患者が、その演奏と語りに魅せられていたとき、思わぬお客さん、ピアノ奏者で、演奏は勿論だが、ディスクジョッキーや音楽塾などで活躍する岡田照幸さんが飛び込みで登場。
 シューマンやショパンのピアノを、二人の解説を交えた、より音楽内容を深めるピアノコンサートとなった。

青森県七戸町出身の学者姉妹

aidayouko.jpg (あいだ) 陽子さん(理化学研究所分子ウイルス学研究ユニットリーダー)
 理化学研究所(以下理研)。実は、一般にはあまり知られていないが、すごいところである。
 「2位じゃダメなんでしょうか?」といった馬鹿な政治家がいたが、世界最速のスーパーコンピュータ「京」を開発したのが、この理研である。
 それだけではない。理研理事長の野依良治さんは平成13年(二〇〇一)のノーベル科学賞の受賞者。同じく理研の脳科学研究センター長の利根川進さんは、昭和62年(一九八七)のノーベル医学生理学賞受賞者。その他、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士(昭和24年受賞)や朝永振一郎博士(昭和40年受賞)も、かつて理研の研究者であった。
 また今、ノーベル賞受賞の山中伸弥京大教授が開発した、iPS細胞を使った目の治療やがん治療の臨床研究にも着手した。
 理研は、大正6年(一九一七)、日本資本主義の基礎を築いたといわれる渋沢栄一らによって設立された、95年の歴史を持つ、物理学、工学、化学、農学、生物学、医学の日本最大の頭脳集団である。
 間陽子さんは、その理研の分子ウイルス学特別研究ユニットのリーダーであると共に、東京大学連携大学院の、連携教授でもある。
 「理研は、研究者の自由な楽園です。研究者が好きな研究をすることができます。
 私が今取り組んでいるのは、世界の死亡原因の約3割がエイズやサーズ、インフルエンザなどの感染症なんですが、それらのワクチンと抗ウイルス薬をつくることなんです。自分のやっている研究が必ず人類の役に立つ。そう思って研究しています」と語る。
 間陽子。昭和31年(一九五六)4月、七戸町に生まれる。七戸中学校、青森西高、北里大学獣医学部卒業。北海道大学大学院博士課程修了後、理研に入り現在に至る。
 二人の実家は、実は七戸町の諏訪牧場である。

 (あいだ) 弘子さん(日本中央競馬会競走馬総合研究所運動科学研究室室長)
 「競馬は男の世界でしょう。私が入るまでは、女性の獣医師なんて一人もいなかったんです」と語る間弘子さん。
 今は、日本中央競馬会で、運動科学や臨床医学、感染症、温泉リハビリなどの研究に取り組む、競走馬総合研究所で、運動整理学の研究をしている。
 間弘子。昭和34年(一九五九)1月、七戸町に生まれる。七戸中、三本木高校、北里大学獣医学部卒業。アメリカ・カルフォニア大学ディビス校動物病院留学。
 帰国後、実家が競走馬を生産していたということもあって、昭和59年(一九八四)日本中央競馬会に入る。しかし、前述したように競馬界は男性社会で、正職員にはなれなかった。
 平成3年(一九九一)になって、男女雇用機会均等法が整備されこともあって、ようやく正職員として採用された。
 そして平成7年(一九九五)に、北海道大学で獣医学博士号取得し、現在は、競走馬総合研究所運動科学研究室の室長である。

 写真/七戸町出身の姉の間陽子さん(向かって写真左)と、妹の間弘子さん。二人揃って学者姉妹だ

 

松延康さんの大人のための理科実験
 matunobesizuka1.jpgmatrunobusizika2.jpg日本テレビ「世界一受けたい授業」でも人気の、理科研究フォーラム夢・サイエンス代表の松延康さん。
 12月21日、八戸ポータブルミュージアムはっちで、大人のための「いまさら本気の理科実験」が行なわれた。
 親子づれや高校生、そして大人と50人ほど参加した。
 たとえば、「重さの感覚実験」では、まず丸い鉄の玉を参加者に持たせてみる。次に、机に6つの箱を並べる(写真)。箱は左から数キロづつ重くなっている。
 そして、その箱を左から準に持たせ、さてこの鉄の玉と同じ重さの箱はどれでしょうかと聞く。
 50人いて、当てた人はゼロでった。
 何故?これはプラシーボ効果を利用した実験である。
 プラシーボとは偽薬のことで、これは医療の現場でも使われることがある。
 つまり、最初に鉄の玉を持たせる。鉄は小さいが重いというイメージを持つ。
 そして鉄の玉より数十倍大きなダンボールの箱を持たせる。ダンボールは軽いというイメージがあるから、重くてもそう重く感じないのである。
 このプラシーボ効果は、商売にも使われ、騙されることがあるのでご用心。
 たくあんの電気を通すとオレンジ色に光る?実験。
 たくあんには、塩分、つまり塩化ナトリウムが入っている。これが電気を通すと化学反応を起こし光るのである。
 ここでは、二つの理科実験を紹介したが、大人も子どもも、ワクワクしながら目を皿のようにして実験を見張り、また参加していた。

 写真上/ 「この鉄の玉(左端の横にある)と同じ重さの箱をいい当てて下さい」と、参加者に、左側からちょっとづつ重くなっている箱を一つづつ持たせる。結果はいい当てたひとゼロであった。何故?

 写真下/電気を通すとたくあんがオレンジ色に光る実験

 三沢航空科学館

 rikugunbki1.jpg 人間情報紙「夢追人の記事がきっかけとなって69年ぶりに引き揚げられた、旧日本陸軍の立川キ54一式双発練習機。今、三沢航空科学館(大柳繁造館長)に展示されている。
 昭和18年(一九四三)9月27日、秋田の能代飛行場から八戸に向かう訓練の途中、エンジンの不調により十和田湖の中湖に不時着した。
 飛行機には、少年飛行兵4人が乗っていたが、3人は飛行機から脱出し、自力で岸に泳ごうとしたが、途中で力尽き湖の底に沈んでしまった。怪我をした1人が、飛行機の上にいたのを、ヒメマスを獲っていた十和田湖の漁師に助けられた。
 この立川キ54一式双発練習機は、立川飛行機が開発し、1342機作られた。が、現存するのはこの1機だという戦前の日本の貴重な技術遺産、そして戦争遺産でもある。
 立川キ54一式双発練習機は、全長11・94㍍、全幅17・9㍍、総重量3897㌔、最大速度367㌔、巡航速度240㌔、航続距離960㌔(航空科学館展示資料)である。
 驚くことに、戦地に船で運ぶとき、両翼を簡単に取り外すことができるように、たった4本のピンで留められていたことである。
 この引き揚げられた一式双発練習機には、胴体壁に断熱材が張られ、床には暖房用の配管があった。製造年月日の銘板には、昭和17年9月15日、製造番号294と彫られていた。
 rikugunki2.jpgrikugunki3.jpg 写真上/十和田湖の湖底から引き揚げられた旧陸軍の立川キ54一式双発練習機。69年もの間湖底に沈んでいたにもかかわらず、これほどの姿でいられたのは奇跡に近い。それは、水深57㍍の湖底で、外気温の影響を受けず、常に水温が10度前後という環境のもとにあったからであろう。しかし、さすがに復元は難しい。
 機体の前にあるのはエンジン。プロペラが曲がっているのは、飛行機が不時着したとき、プロペラがまだ廻っており、水面を叩きつけたためにあろう。機体の左側にある翼は、車輪を見せるためにひっくり返して展示している。
 写真中/驚くのは、飛行機の全重量が3,897㌔にもかかわらず、翼がたった4本のピンで留められていたということである。これは、船で戦地に運ぶとき、翼を簡単に取り外すためであろう。

 写真下/飛行機の絵は、当時の関係者が描き、カレンダーに使われた一式双発練習機の絵。

 

 

kokefo-ramu.jpg  奥入瀬渓流のコケ(蘚苔類)に注目し、コケが観光資源になり得るかを調査・研究する、奥入瀬渓流エコツーリズムプロジェクト実行委員会(通称/モスプロジェクト)の報告フォーラムが、1月19日、市民文化センターで行なわれた。
 フォーラムは、まず特別講演として、国立極地研究所特認教授の神田啓史さんが、「奥入瀬渓流のコケ植物について‐蘚苔類相基基調調査報告‐」を行なった。
 神田さんは、調査の結果奥入瀬渓流には170種のコケがあることがわかった。また、どんなところにコケがあるか。岩、腐植土、樹など、写真で説明した。
 続いて、ノースビレッジガイドの河井大輔さんが、何故コケに注目したか、及びモスプロジェクトの1年間の活動を報告した。
 河井さんは、これまでの奥入瀬渓流の観光は、どれだけ少ない時間で、どれだけ多くを楽しむかの通過型の観光スタイルであった。観光は「光」を「観」と書く。これからは、地域の「光」を、ゆったり、じっくり、たっぷりと観る、滞在型の観光に変えて行かなければならない。
 大きな自然は小さな自然の集まりである。コケの観察は、あるく、たたずむ、うずくまるの、これまでと全く違う形の自然とふれあう観光となる。
 また、この1年間でどんな講師に来ていただいたかでは、日本蘚苔類学界会長の秋山弘之さん、岡山理科大学自然植物園園長の西村直樹さん、国立科学博物館の樋口正信さん、『苔とあるく』の著者田中美穂さん、『コケはともだち』の著者屋久島野外活動総合センターの小原比呂志さんなど、日本のコケ研究の専門家をほぼ網羅するほどの講師陣であった。
 続いて行なわれた、「小さな自然を観る旅は奥入瀬観光を変えるか?」のパネルディスカッションでは、河井大輔さんをコーディネーターに、パネリストには、下川原まゆみさん(十和田湖奥入瀬観光ボランティアガイドの会)、高岡實さん(NPO法人十和田・奥入瀬郷づくり大学)、藤浩志さん(十和田市現代美術館副館長)、山下圭三さん(星野リゾート青森屋総支配人)、アドバイザーとして神田啓史(国立極地研究所特認教授)で議論を深めた。
 モスプロジェクトの1年間の活動及び、その報告フォーラムは、将来の十和田湖・奥入瀬の観光形態を変えるであろうと思われるほどのインパクトのあるフォーラムであった。
 なお、これを機会に「奥入瀬自然観光資源研究会」(鮎川恵理会長)が発足した。

 パネルディスカッション「小さな自然を観る旅は奥入瀬観光を変えるか?」写真左から、コーディネーターの河井大輔(㈱ノースビレッジ)、パネリストの下川原まゆみ(十和田湖奥入瀬観光ボランティアガイドの会)、高岡實(NPO法人十和田・奥入瀬郷づくり大学)、藤浩志(十和田市現代美術館副館長)、山下圭三(星野リゾート青森屋総支配人)、アドバイザーの神田啓史(国立極地研究所特認教授)の皆さん

 新渡戸稲造生誕150年記念講演
 稲造研究の第一人者佐藤全弘さん(大阪市立大学名誉教授)語る
 nitobeinazou.jpg今年は新渡戸稲造が生まれて150年目。新渡戸記念館(新渡戸常憲館長)及び十和田市教育委員会は、新渡戸稲造の思想なり活動を広く知っていただこうと、新渡戸塾を開講。
 その第2回目の講演は、『新渡戸稲造全集』の編集委員であり、新渡戸稲造研究の第一人者、大阪市立大学名誉教授の佐藤全弘さんであった。
 佐藤さんは、「光は東北から‐日本復興のさきがけ‐」と題して講演。
 東北は、平安時代の初期の貞観三陸大地震、明治の三陸大地震、昭和の三陸大地震、そして今回の東日本大震災と、東北は大きな地震と津波に見舞われてきた。
 また東北は、冷害の常襲地域であり、そのたびに飢饉に見舞われてきた。
 一方、戦前は兵役、戦後の経済高度成長時代には労働力の供給源として日本を支えてきた。
 このように、東北は災害や政治に冷遇されながらも、そのたびに不屈の精神と独立の精神で復興を成し遂げてきた。
 新渡戸稲造は昭和8年の三陸大地震を見ています。
 そして稲造は、英字新聞に書いたコラムで、正直、親切、思いやりの、日常の三徳の実践こそ日本復興の源である。東北には三徳を持つ人々がたくさんいると書いています。
 稲造は、日常の徳とは、正直、親切、思いやりの実行であり、職業的愛国者のいう、愛国心や忠義は信用できないといっています。
 今、日本で必要なことは、震災、原発災害の事実の正直な原因究明であり、東北人の独自性を尊ぶ復興でなければならない。復興は、東北の新しい文化の創造でなければならないと、新渡戸稲造の思想と、東北人への復興の想いを語った。

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国際ソロプチミスト十和田チャリティディナーショー
 azusamitiyo.jpg 女性の事業者の国際的ボランティア団体である、国際ソロプチミスト十和田(三星陽子会長)の、恒例のチャリティディナーショーが、11月14日、富士屋グランドホールで行われた。
 ディナーショーに先立って三星会長は、この日の益金10万円也を、市の図書購入に役立てて下さいと小山田市長に手渡した。
 今年度の招聘歌手は、『こんにちは赤ちゃん』、『二人でお酒を』などの大ヒットを飛ばした梓みちよさん。
 梓みちよさんは、昭和18年6月生まれで、現在69歳にも関わらず、軽妙なトークと、声量ある歌声で観客を魅了していた。

テーマは「日露戦争‐反戦・平和思想のめざめ」

heiwabunkasai1.jpg 第8回目を迎えた九条平和文化祭(主催/九条を守る上十三の会)が、このほど十和田市民文化センターで行われた。
 今回のテーマは、「日露戦争‐反戦・平和思想のめざめ」であった。
 日露戦争については、日本発展の原動力にという評価がある一方、満州や朝鮮半島の権益を争奪する帝国主義戦争であったという考え方もある。
 heiwabunkasai3.jpg第二次世界大戦にしてもそうだが、戦争は名もない多くの国民の命の犠牲をともなう。
 日露戦争は約1万6000人が戦死し、写真の203高地だけで5052人の戦死者がでた。まさに屍の山である。
 そこから反戦思想が生まれるのは当然であろう。日露戦争を前後して、幸徳秋水や堺利彦らを中心として、日本で最初の反戦思想が芽生えてくる。
 資料展示は、日露戦争の交戦図や戦争の絵、写真など日露戦争関係資料。国民を戦争に導いて行った小学校の教科書。旧上北町出身の反戦詩人大塚甲山、反戦詩『君死にたまふこと勿れ』で有名な与謝野晶子。軍馬補充部で栄えた三本木町の資料などが展示された。
 また、第二次世界大戦で亡くなった230万人のうち、その六割は、実は餓死だったという衝撃的な資料も展示された。
 トークでは、元十和田市議の斉藤孝一さんが体験談として、昭和7年(一九三二)9月16日に、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件を語った。
 今、自民党が圧勝し、安部内閣が発足した。安部さんは憲法第九条の改革論者である。中国の尖閣諸島への挑発、北朝鮮のミサイル問題など、外交問題が山積みしている現在、歴史を踏まえ、私たちもしっかりと考えていかなければならないと感じさせる平和文化祭であった。

heiwabunkasai2.jpg 日本軍5,052名の戦死者が出た203高地の戦い兵士の周りにはロシア兵の死体が無造作に転がっている(写真上)。アジアにおける戦争犠牲者(写真右)。第二次世界大戦での日本兵の戦死者(写真下)。その六割は餓死であった。いかに無謀な戦争をやったかこれもわかる

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