夢追人ニュース

県境つないだ十和田湖マラソン
十和田湖の魅力を全国に発信する自然と人が駆ける道
 7月10日に十和田商工会議所青年部が中心となり、十和田湖を活性化させようと地域と連携し、十和田湖の湖畔を走る第一回十和田湖マラソンが開催された。
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 秋田県と青森県の県境を十和田湖畔に沿って21㎞を駆けるこのマラソン大会は北海道から長崎まで、15歳から78歳までの463名の選手が参加した。受付・集合場所は休屋にある「十和田湖観光交流センターぷらっと」前、そこから遊覧船に乗って十和田湖の景色を楽しみながらスタート地点である秋田県大川岱に移動し、ゴールである子ノ口を目指す。前日までの60%の雨予報は大会成功を願い耐えるかのように時折小雨が降るも太陽の下、開会式が始まり、実行委員長の佐藤百年氏は「走りながら十和田湖の景色や魅力を楽しんで是非、全国へ発信して欲しい。そして何度でも足を運んで欲しい」と挨拶。今大会最年少の米田親一郎君が選手宣誓の挨拶をした。
↓第1回十和田湖マラソン実行委員長を務める佐藤百年さん
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↓選手宣誓を誓う参加者最年少の米田親一郎くん(15)
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↓合図と同時に一斉に勢いよくスタートする選手ら
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 スタート前に合図を待ち、意気込む参加者に訪ねると「ここは標高差のあるコースでのぼりや下り、カーブも多いこのコースは全国でも珍しいです。走る側にはかなり難易度が高い厳しいコースでとても待ち遠しかった!」と笑顔で喜びながら教えてくれた。スタートの合図で100m走かと思うくらいのスピードで先頭集団が走り抜ける。ボランティアスタッフ285名が大会運営を支え、小坂中学校、十和田湖中学校、十和田第一中学校の生徒らも給水ポイントで選手らを励ましながら大会を盛り上げる。十和田湖マラソンは険しいコースと時々降る雨、蒸せる暑さ、自然の厳しさとエネルギーを感じながらの疾走となった。
 1位のゴールテープを切ったのは秋田県鹿角市の尾崎紀幸さん。タイムは1時間15分46秒だった。ゴール後はしばらく動けないほどの疲労、最初の一言は「よいでね~(秋田弁で容易ではない)」と苦しかったコースを振り返る。10秒後に2位の小坂橋大史さんがゴール。出身は旧十和田湖町で現在は仕事で県外にいるがマラソンを機に帰郷してチャレンジしたという。お互いに健闘を称えあう姿は次々とゴールするランナー全てに窺えた。
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↑笑顔でガッツポーズ!互いを称えあう男子1位尾崎紀幸さん(右)、2位小板橋大史さん(左)と
女子1位川村美学さん(写真下)
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↓ゴールで選手を笑顔とお水で迎える十和田第一中学校の生徒ら
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 女性の部第1位は川村美学さんでタイムは1時間29分04秒。南部町にあるはらだクリニックに勤務。一緒に出る予定だった院長が肉離れのため断念したため孤軍奮闘。また名川中学校の陸上部のコーチもしているという。距離もコースも厳しかったと振り返る。
 次々とゴールする選手らは疲労困憊で足取りもフラフラ、汗と雨でずぶ濡れになりながらも目は輝いているように笑顔が絶えなかった。順位ではなく目標を達成した充実感が会場を埋め尽くす。
↓閉会式会場では十和田バラ焼きとひめます汁の無料提供があった。疲れて冷えた参加者の心と身体を温めた
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 ゴールした選手らは子ノ口から休屋にフェリーで移動し閉会式を待つ。会場では十和田バラ焼きとひめます汁が無料提供された。ボリュームある「バラ焼き+おにぎり」に「ひめます汁」のさっぱりした味の相性は抜群で、疲れで身体の冷えた選手らを力付ける。表彰式では小山田市長が標高差183mある厳しいコース、これを成功させたのは参加者や大会運営の協力者だと感謝の意を述べた。そして、今年を第1回とするならば第2回の開催も期待したいと挨拶した。年齢性別ごとに表彰式が行われ受賞者には実行委員長佐藤百年氏から記念品が贈られ大会は大成功のまま幕を閉じた。
【男子】高校生以上39歳以下①尾崎紀幸②小板橋③目移/40歳以上49歳以下①金澤貴②三谷③羽賀/50歳以上59歳以下①畠山一則②石岡③鶴ケ崎/60歳以上①永井恒②桧山③小西
【女子】高校生以上39歳以下①川村美学②橋本③原子/40歳以上49歳以下①敦賀奈津子②千葉③松原/50歳以上59歳以下①工藤小百合②久保③藤田/60歳以上①秋田秀子②小笠原③佐藤 ※1位選手のみフルネームで記載
今年の十和田市民大学講師に

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 昭和10年(一九三五)、第1回芥川賞の選考委員会で予選候補になったものの選ばれなかった太宰治が、選考委員の一人であった佐藤春夫に、次は自分を選んでくれるようにと長文の手紙を出した話は有名である。
 青森県から芥川賞の受賞者は『忍ぶ川』で受賞した三浦哲郎ただ一人だけである。
 その芥川賞に受賞はしなかったものの、第152回で『指の骨』が、第153回で『朝顔の日』がと2回連続で候補になったのが十和田市出身の高橋弘希さんである。
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 高橋さんの作品はどう評価されたのであろうか。断片的ではあるが、選者のコメントの一部を紹介しよう。『指の骨』で小川洋子さんは、
「『指の骨』で、例えば薬棚の描写や、巨大なタコの樹を見上げる場面を、私はうっとりしながら読んだ。思い浮かぶイメージのどこに焦点を絞るか、高橋さんは的確に判断し、簡潔な言葉でそれを救い上げている...」
 同じく奥泉光さんは、
「アジア太平洋戦争中の、ニューギニアの戦地にあった日本兵を描いた高橋弘希氏の『指の骨』は力作であり、作者の力量は十分に感じられた。...戦争を体験せぬ世代である我々は...作家の『いま』への問いかけがなければならない...」
 宮本輝さんは、
「私は高橋弘希さんの『指の骨』を推した。...とりわけ最後の数行が、私をこの主人公の心情に同化させた。文章の力だと思う。その描写力や構造には非凡なものを感じ、高橋氏の才能を認めて受賞作に押した...」
 島田雅彦さんは、
「『指の骨』は骨太な読み応えのある戦記に仕上がっている。戦争経験のない者は他者の戦争経験に学ぶしかないのだが、『戦場にいる自分』の創造の仕方は見事である」
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 『朝顔の日』では、
 選者の山田詠美さんは、
「『朝顔の日』。病室の白い壁が、さまざまな色で、時に淡く時に鮮烈に染め上げられて行くかのよう。この作者は、死と隣り合わせの静謐を美しく描く印象派...」
 などと、その創造力や文章力、描写力を高く評価している。あとはテーマであろう。芥川賞にもっとも近いところにいる作家の一人である。
 高橋弘希。父は黒石市、母は十和田市出身。昭和54年(一九七九)十和田市で生まれた。とはいっても、お母さんが十和田市出身であったことから出産のために帰郷して弘希さんを出産して半年くらい十和田市に居たということである。が、弘希さんは夏に毎年母の実家に帰り夏休み中十和田市で過ごしていたから、弘希さんにとってはやはりふるさとは十和田市である。
 その高橋弘さんが平成28年度の十和田市民大学にやってくる。



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 第20回ふるさとイベント大賞「内閣総理大臣賞」を受賞した女性だけの流鏑馬「桜流鏑馬」を創出した、十和田乗馬倶楽部会長の中野渡利彦さん。桜流鏑馬創出にはこんな秘話があった。
 中野渡さんは現在74歳(昭和17年3月生まれ)、馬を始めたのが50歳を過ぎてからである。中野渡さん50歳のとき同級生がガンで亡くなった。それは衝撃であった。このとき中野渡さんは、俺もこんな歳になったのか。人間はいつか死ぬ。ならやりたいことをやって死にたい。何かやり残したことはないだろうかと思った。
 ちょうどその年にバルセロナオリンピック(一九九二)がありスペインに行った。そのバルセロナで見たのが騎馬警官であった。午年生まれで馬に興味があった中野渡さんは騎馬警官のあとをついていった。そして厩舎に行くと、そこで障害者たちが馬に乗っていた。障害者が馬に乗る。それは驚きであった。
 帰国し、日本で障害者乗馬をやっているところがあるかとNHKに電話をしたところ日本障害者乗馬協会を紹介された。
 その会議に参加すると何やらもめている。そのもめごとの解決を提案したところ、「中野渡さんぜひ会長をやってくれ」といきなり会長に押された。同時に北海道より和種馬5頭を購入。こうして中野渡さんは同協会の会長として、全国障害者交流乗馬大会を開催。十和田市でも第3回(平成7年)及び第7回(平成11年)全国障害者交流大会を開催している。
 しかしここで一つの疑問がわいてきた。選手が腰を悪くするのである。馬による様々なスポーツの盛んなフランスに行ってみると、馬に立って乗っていた。日本で馬に立って乗るのは流鏑馬しかない。こうして中野渡さんは、平成13年(二〇〇一)の第1回駒まつり(現駒フェスタ)で十和田市で初めて流鏑馬を披露。第3回駒まつりから流鏑馬大会を開催した。
 一方、中野渡さんの後を継いだ娘の上村鮎子さんは、正式な日本の伝統的流鏑馬を覚えたいと盛岡八幡宮の南部流流鏑馬に弟子入りをした。が、氏子から流鏑馬は神事であるから女性がやるのは何事かとクレームがついた。同じく小笠原流の弓馬術(流鏑馬)からも女性はやってならんとクレームがついた。
 それなら伝統とは関係なく新しい女性だけの流鏑馬をやろうと平成16年(二〇〇四)に第1回桜流鏑馬を行った。父が桜流鏑馬を創出し、娘がそれを昇華させた。それから12年、見事ふるさとイベント大賞のトップあるで総理大臣賞を受賞したのである。
 中野渡さんは、
「今後流鏑馬人口が増えるでしょう。流鏑馬競技連盟では和種馬を使うと規定している。その流鏑馬で使う和種馬を育てる。これが私のこれからの仕事です」と語る。

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 父は桜流鏑馬を創出し娘がそれを昇華させた。中野渡利彦さんと娘の上村鮎子さん(桜流鏑馬受賞祝賀会於)

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大宮エリー
大宮エリーさんは昭和50年(一九七五)大坂生まれ。東京大学薬学部を卒業後、広告代理店勤務を経て、日常を綴ったエッセイ集を出版。脚本家・映画監督としても活躍し、ラジオのパーソナリティーやテレビ番組の司会などもこなすアーティストだ。
 「シンシアリー・ユアーズ‐親愛なるあなたの大宮エリーより」と題し、手紙を書くように絵を描き、言葉では表現できない何かを受け取って欲しいとの想いをもって作品を展示した。大きなキャンパスに大胆で鮮やかな色使い、元気とも悲しいとも受け取れるような作品が多数飾られ大宮さんはこれが美術館での初めての個展となる。

アーティストトーク
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 オープンを記念したアーティストトークでは話しを聞こうとたくさんの来場者が訪れた。年齢層は広く、中でも女性が多く、外国人も見られ、市外からの来場者も多かった。
 大宮さんは親しみある口調で過去の作品がどこで生まれたのか、そのきっかけや旅先での出来事などを来場者に面白可笑しく伝えた。何気ない事でも驚いたことでもスピリチュアル(霊的な)が感性が閃くと描いてしまう。いつもはテーマは決めずに完成した作品を見てからテーマを考えることを教えてくれた。
 また、絵を描くのではなく手紙を書いているつもりで作品に取り組む。自然が大好きで自然からもらったエネルギーで描いた自分の絵からもエネルギーを感じて欲しいと語った。

ライブペインティング

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 カフェスペースでライブを聞きながら観客の前で大宮さんが作品を描くというライブペインティングも開催。実際にアーティストの制作現場を見ようと約100名の観客が訪れた。
 音楽を奏でるのはハープ奏者・吉野友加さんとギター奏者・影山敏彦氏によって結成されたデュオユニット「tico moon」前列にはアクリル絵具が飛ばないようにビニールが用意されるほど近い距離で始まった。大宮さんのトークから始まり、「私はイメージがわかないと描けないのでその時はライブを聞きにきたと思って下さいね」と本気にもとれる冗談を言って座り込みながら観客と一緒にドリンクを飲んで演奏を聞いていた。tico moonが奏でるハープとアコースティックギターの優しい音色に身を委ねながら自分の世界に入っていっているようだった。十和田市で感じた十和田市で生まれる大宮エリーさんの作品は黄緑色から始まった。ローラーで大胆に色をキャンパスに塗りながらイメージを描いていく。誰かに止められないと描き過ぎてしまうのが悪い癖だという大宮さんは周りに確認しながら作品を完成させた。観客は滅多に見る事ができないアーティストの製作現場を観て違った何かを感じる事が出来たのかもしれない。
 企画展は9月25日まで十和田市現代美術館と4ヵ所の商店街美術館に展示されている。十和田市現代美術館の企画展の入場料は600円、常設展とのセットで1000円となる。街なかアートはパスポートを300円で購入すると観覧できる。お問い合わせは、℡0176‐20‐1127迄。


北里大学獣医学部創立50周年記念式典 特別講演

 北里大学獣医学部(髙井伸二学部長)が創立50周年を迎え、4月23日、十和田市民文化センターに於いてその記念式典及び記念特別公演が行われた。
 記念式典は、学校法人北里研究所藤井清隆理事長が式辞、来賓として小山田久十和田市長、蔵内勇夫日本獣医師会会長が祝辞、小林弘祐北里大学学長が挨拶し終了した。
 そして待望の北里大学特別栄誉教授で、2015年ノーベル生理学・医学賞受賞を受賞した大村智氏の特別講演が行われた。これには第2会場を設け、中高生を含め市民約1300名が招待された。その概要を紹介しよう。

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 大村氏は、「微生物の働きをヒトと動物の健康のために」と題して、一九六五年に私が北里研究所に入ったときに抗生物質の手ほどきを受けた秦藤樹先生(元北里大学学長)、北里研究所の大先輩である椿精一先生(元北里大学畜産学部学部長)など非常に深い縁を感じながら今日この場に立っております。
 今日は中学、高校の生徒さんがたくさんいらっしゃる。私は中学、高校生に話をすることは滅多にないので、その辺を意識しながら話を進めて行きたいと思います。私の話は私の子供のころの話、高校の先生をやったころの話、研究者に入って行く、研究者になってからどういう研究をしたか、その成果が世の中にどんなに役にたっているのか、そして若い諸君にメッセージのようなものをお話しできればと思っています。

 子供のころの話
 と前置きして、父は村の顔役で村のためにあっちこっちを走り回っていました。母親は小学校の先生で、絵を描きなさいとかお習字をやりなさいとかはよくいわれましたが、勉強しなさいとかは一言もいわれたことはありません。祖母は、一番大事なことは他人の為になることだよ。自分のことを考える前に他人のことを考えなさいと繰り返しくりかえしいわれて育ちました。
 私の家は農業でした。中学生のころは私が農業を継ぐものと思っていましたから、父が私に馬の扱い方とか田んぼのこしらえ方とか徹底して農業を仕込むわけです。中学校を卒業するころには村の青年と全く同じくらいの仕事ができるようになっていました。
 振り返ってみると、私はあのころ理科の勉強をしていたんだと思うんです。農業は理科、農業はサイエンス、科学です。このころもう一つ良かったと思うことは、忙しくなると朝暗いうちに起こされ、田んぼや畑に着くころにようやく朝日が上がり仕事ができるようになる。こうして仕事をしていると近所の子どもたちがカバンを持って学校に行く時間になる。忙しいときはこういうこともやりました。これは体力的にも気力の面でも非常に良かったと思っております。
 これは後で知ったことですが動物行動学者のコンラッド・ローレンツが、「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと大人になって人間的に不幸だ」こういうことを言っています。そういう意味では私は幸せだったと思っております。

 高校、大学時代
 私は高校、大学とサッカーをやりスキーをやり徹底して自分を鍛え、高校ではスキーで山梨県で優勝しました。大学は山梨大学で、スキーから帰って来ると急いで化学の教室に行く。良かったのはいつでも実験できた。化学というのは実験が主なんです。
 大学時代は国体にも2回参加しました。このように優勝のカップや楯がたくさんあります。スキーでは大鰐にも行きました。そのとき覚えた歌が、岩木山がどうのこうのという『シーハイルの歌』です。
 新潟県に横山天皇と呼ばれていた、横山隆作先生がおりました。この先生のところに国体で優勝する、インターハイで優勝するなどスキーの一流の選手たちが集まってくる。そこに私は山梨を代表して参加しました。
 スキーで学んだこと
 横山先生のところに集まった選手の中から何人もオリンピックに行っています。その中に松橋高司選手もいました。何回も日本で優勝し、オリンピックにも行きました。私の憧れの選手だったんです。
 この中で学んだことは、大学で机に向かって勉強だけしているより遥かに大きかったと思っています。それは何か。
 クロスカントリースキーですからものすごく辛いんです。しかし辛いときが勝負なんです。その後私は研究で辛いことがたくさんありました。そのときスキーのことを思って、今が勝負なんだ、今が勝負なんだと思って勉強をし、仕事をしてきました。
 もう一つは高いレベルの中にいるということは自分もそのレベルにいるということなんです。ですから自分をできるだけ高いレベルのところに身を置くことが大事なんです。そいうことを私はスポーツ通じて勉強しました。私は5年間、山梨県でクロスカントリーでトップになっています。それも高いレベルの人たちとやっているうちに自分も高いレベルに達していた。
 これは学問でも同じです。高いレベルの人たちとつき合い、高いレベルの人たちの中に身を置いて勉強することが大事であるということをスキーで学びました。

 働く高校生から学ぶ
 私は山梨大学を卒業して東京都の墨田工業高校の定時制の先生になりました。
 中小企業のいっぱいあるところでした。学生は昼間は働いて夜になると学校に来て勉強するわけです。あるとき試験のとき見て回っていますと、答案を書く手にまだ油がついている。その手で試験問題を解いている。
 これを見て私は、私は何をやっていたんだろう。サッカーをやりスキーをやり勉強をしていなかった。よし、勉強をしなおそうと、私は高校の先生を5年やる間に、修士課程を受けるために1年はドイツ語の勉強をしまして、2年目は今の筑波大学、むかしの東京教育大学に研修生として入りました。次の年に東京理科大学の修士課程の合格しました。普通は2年で修了するんですけれども私は5年かかりました。
 しかし私は、働く高校生たちと出会っていなかったら研究者になっていなかったかも知れません。
 東京理科大学にいるとき私の恩師が、東京工業試験場に日本に一台ないすごい機会が入っている。工業試験場にそれを使えるように話をしてあるからと、私は行きましたら、昼は工業試験場で使っているから夜なら使えるといわれました。
 私は、昼は東京理科大学で勉強して、夕方になると高等学校に行き講義して、終わると東京工業試験場に行き徹夜で研究しました。

 北里研究所に入る
 それで私は大学の修士課程を修了して、高校の先生より研究者になる方がいいかなと思いました。何故かというと、話が下手だ。人前で自分の考え方を十分に話が出来ない。研究者ならコツコツと研究していればいいだろうと思ったわけです。
 それは大間違いで、研究成果を上げれば上げるほど人前で話をしなければならなくなったんですが、そのときはそう思いました。
 山梨大学の文部教官助手になったとき、葡萄酒をつくる学科があり、葡萄酒の研究をしました。その葡萄酒を作る過程で培養液に入れておいた砂糖が一晩でアルコールになっていた。微生物が一晩のうちに砂糖をアルコールに変えてしまうわけです。酵母、微生物の力ですね。感動しました。私は化学をやっていましたから、どうかんがえても化学では一晩でアルコールにすることができない。今でもできないと思います。それを微生物は砂糖を一晩でアルコールに変えてしまう。
 そこで私は、微生物の力と、私が今までやってきた化学の力を合わせた研究をしてみたいなと思っていたところ、非常に運が良く北里研究所に入ることができました。

 私の研究方法
 北里研究所に入り抗生物質の研究をしました。これは微生物の力を借りてものをつくる。構造を分析するのが化学の力です。その両方ができたことが良かったと思います。
 現在私がやっていることをお話しますと、地球上のあらゆる環境からサンプルを取ってきて、シャーレ―に蒔いて生えてくるコロニーを純粋に分離し、それを保存する。それを取り出して培養する。その培養液を取ってきて、その中に目指す物資が入っているかどうかを調べる。ここが大事。私がたくさんの治療薬を見つけることができたのはここに集中的に力を入れたからです。誰もやらない新しい方法でやって、その中に目指す物質があるかどうかを改革してきたわけです...。

 と、大村氏はこの後、研究の専門的な話に入って行くが、ここでは割愛させていただく。
 話の前半は以上のように私たちが学ぶべき人生訓的な内容であった。参加した中高生の中には志を新たにした生徒もいたのではなかろうかと推察する。
 大村氏は、
 「微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまで類のない480種を超える新規化合物を発見。それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
 また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱。実現し、基礎から応用まで幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。
 研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園の運営など」をも行ってきた。(「フリー百科辞典『ウィキペティア』」より)
 こうして大村氏は国内、国際の数々の賞を受賞し、2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。


十和田市の文化、経済に大きく影響
50年間に約1万5000人の学生が巣立つ

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 昭和41年(一九六六)、人口わずか4万5000人余、純農村地帯である田舎の小都市十和田市に、県南初4年制の大学が突如として現れた。定員は獣医学科30人、畜産学科70人。同年4月23日開学式と入学式が挙行された。それから50年、北里大学獣医学部の十和田市に与えた文化的、経済的な貢献は計り知れない。
 何故、十和田市に北里大学獣医学部が誘致されたのであろうか。一言でいうなら馬産地であったからである。

 馬が野に満る三本木平
 寛政5年(一七九三)にこの地を通った木村謙次が、「三本木村此辺南北三里二十七町東西ハ山ヨリ海マテ七八里皆廣原ナリ(中略)夏ニ至レハ易商多ク集リ馬ヲ野飼ス牧馬原野ニ満ルト云」と書いている。
 また三本木平を開拓した新渡戸傳が『三本木平開業之記』の中で、「駄馬市之事」を真っ先に掲げている。
 そして明治18年(一八八五)、後に日本最大の軍馬補充部となる陸軍軍馬出張所が開設された。

 北里大学獣医学部誘致秘話
 昭和21年(一九四六)、戦後の混乱の中でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、治療血清や各種ワクチンの製造に良質の馬が必要であるとして、血清やワクチンの研究で実績のあった北里研究所にその製造を要請した。
 その情報をいち早くキャッチしたのが、厚生政務次官で馬喰代議士と呼ばれていた小笠原八十美である。八十美は良馬なら三本木だと地元議会と共に誘致運動を展開、昭和22年(一九四七)に、鈴木三郎、椿精一両博士を迎え、北里研究所三本木支所を設立した。
 昭和31年(一九五六)歴史的役割を終えたとして北里研究所三本木支所は廃止。昭和39年(一九六四)に閉鎖された。
 一方、北里研究所は、研究所50周年の記念事業として昭和37年(一九六二)に北里大学衛生学部を、昭和39年(一九五四)に薬学部を開学した。
 次は畜産学部だと、十和田市議会の中に北里大学誘致特別委員会が設置され、誘致運動を展開した。十和田市に北里研究所三本木支所があったという有利さもあって昭和41年(一九六六)、この地方の夢と期待を担い、県南初の4年制の北里大学畜産学部の開学となったのである。

 約1万5000人が巣立つ
 それから50年、この半世紀に獣医学部5911人、動物資源学科4625人、生物環境学科3139人。大学院/獣医学科916人、動物資源学科279人、生物環境学科128人。博士課程/獣医学科73人、動物資源学科26名の学生たちが、大学卒業生と大学院、博士課程はダブルところもあるが、十和田キャンパスから約1万5000人の学生たちが巣立ち全国に散らばっていった。
 学生たちは、相模原キャンパスに1年いるから、一般学生で3年、大学院修士課程で5年、さらに博士課程2年と青春の一番大事な時期を十和田市で過ごしている。

 経済効果はおおよそ60億円
 現在、十和田キャンパスでの在籍者1435人、教員86人、職員51人、併せ1572人、その経済効果は、おおよそ60億円と推計されている。
 また、学生たちは十和田市の様々なイベントに参加。現職の先生は地域づくり構想委員会に参加。卒業した学生は市役所や地元企業に就職、あるいは獣医師を開業。そして北里大学卒業の市長も誕生した。退職した先生方も近年は十和田市に残り地域活動をしている。
 もし北里大学がなかったならと考えると、その存在だけで文化学園都市として十和田市のイメージを高めている。

 次の50年
 日本は少子高齢化、人口減少の時代に突入した。
 髙井伸二学部長は、
 「次の50年は非常に厳しいと思っています。犬がピーク時の1200万頭から1000万頭に減ってきています。
 しかし一方、ノーベル賞を受賞した大村先生が発見・開発したイベルメクチンによって犬の寿命が2倍以上伸びました。動物と人間の関係も愛玩動物から伴侶動物へと変わってきています。北里大学の卒業生は食品衛生の分野からの需要は非常に多い。北里大学は動物の健康のみならず人間の健康をも守る。すでに次の時代のことをも考えています」と語る。

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写真は北里大学獣医学部と髙井伸二学部長。そして創立当時の北里大学
十和田市郷土館 ~6月26日迄

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 昭和52年(一九七七)今から39年前に公開され大ヒット。日本映画として配給収入の新記録(当時)をマークした映画『八甲田山』。これは明治35年(一九〇二)に青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材にした映画である。
 これは、気象学者でもあった新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を原作とした映画であるが、その新田次郎に資料を提供したのが旧十和田湖町の「八甲田遭難事件」の調査に生涯をかけた小笠原弧酒(本名=広治)であった。

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 出演は、高倉健、北大路欣也、加山雄三、栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子、三国連太郎など、当時のそうそうたる顔ぶれである。
 映画は、極限状態での組織と人間のあり方を問いかけ、北大路の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。
 しかしこの映画によって青森県は人が凍るほど寒いところだ。人の住むようなところではないというイメージを植え付けたのも確かである。
 この写真は、青森県出身の写真家藤巻健二さんが当時スチール写真を担当。その写真の中から115点が展示されている。今から40年近く前である。俳優たちの若かりしころの写真が見られる。
 映画には地元の人たちがエキストラとして出演した他、弘前歩兵第31連隊を雪深い道を案内した滝沢さわ役を秋吉久美子が演じたが、その後ろ姿を演じた三浦(旧姓=斗沢)道子さんの写真他、雪中行軍の当時の写真も展示している。
 凍りついたメーキャップは、ロウを溶かして垂れ流したという。

 会場/十和田市郷土館。会期/6月26日(日)迄。入場無料、問い合わせは、℡0176‐72‐2313迄。
 鷹山宇一記念美術館 ~6月26日迄

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 若いころは、お笑いタレント、歌手、プロボクサーなどで活躍し、個性的な俳優としても人気があり、自ら美術館、工芸館を持っている「片岡鶴太郎展 四季彩花」が、七戸鷹山宇一記念美術館(鷹山ひばり館長)で始まった。
 片岡鶴太郎は、19歳のとき声帯模写片岡鶴八に弟子入り。その後お笑いタレント、歌手、プロボクサーなど多方面で活躍。昭和62年NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』に出演したことをきっかけに俳優の道に入り、個性的な俳優として評価され、現在『とと姉ちゃん』で、ととねえちゃん一家をかばう、青柳商店の筆頭番頭隈井栄太郎役で出演している。
 また絵は、平成元年(一九八九)にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画や陶芸など美術方面に興味を持ち、バラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で岡本太郎と共演したとき、岡本にその才能を評価されたことから自信を持ったとされている。
 平成7年(一九九五)に初の個展を開催。以後毎年新しい作品で個展を開催。平成27年(二〇一五)には書の芥川賞といわれる第10回手島右卿賞を受賞。現在は、群馬県草津町と福島県福島市に美術館。石川県加賀市、佐賀県伊万里市に工藝館を持つなど芸術分野での活躍も目覚ましい。
 展示は、本展のメインテーマ「四季彩花」9点他、春16点、夏21点、秋9点、冬14点、椿9点、ガラス花器12点が展示されている。
 会期は6月26日(日)迄。問い合わせは、℡0176‐62‐5858迄。

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北里大学獣医学部創立50周年記念式典特で講演

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 北里大学獣医学部(髙井伸二学部長)が創立50周年を迎え、4月23日、十和田市民文化センターに於いてその記念式典及び記念特別公演が行われた。
 記念式典は、学校法人北里研究所藤井清隆理事長が式辞、来賓として小山田久十和田市長、蔵内勇夫日本獣医師会会長が祝辞、小林弘祐北里大学学長が挨拶し終了した。
 そして待望の北里大学特別栄誉教授で、2015年ノーベル生理学・医学賞受賞を受賞した大村智氏の特別講演が行われた。これには第2会場を設け、中高生を含め市民約1300名が招待された。その概要を紹介しよう。

 大村氏は、「微生物の働きをヒトと動物の健康のために」と題して、一九六五年に私が北里研究所に入ったときに抗生物質の手ほどきを受けた秦藤樹先生(元北里大学学長)、北里研究所の大先輩である椿精一先生(元北里大学畜産学部学部長)など非常に深い縁を感じながら今日この場に立っております。
 今日は中学、高校の生徒さんがたくさんいらっしゃる。私は中学、高校生に話をすることは滅多にないので、その辺を意識しながら話を進めて行きたいと思います。私の話は私の子供のころの話、高校の先生をやったころの話、研究者に入って行く、研究者になってからどういう研究をしたか、その成果が世の中にどんなに役にたっているのか、そして若い諸君にメッセージのようなものをお話しできればと思っています。

 子供のころの話

 と前置きして、父は村の顔役で村のためにあっちこっちを走り回っていました。母親は小学校の先生で、絵を描きなさいとかお習字をやりなさいとかはよくいわれましたが、勉強しなさいとかは一言もいわれたことはありません。祖母は、一番大事なことは他人の為になることだよ。自分のことを考える前に他人のことを考えなさいと繰り返しくりかえしいわれて育ちました。
 私の家は農業でした。中学生のころは私が農業を継ぐものと思っていましたから、父が私に馬の扱い方とか田んぼのこしらえ方とか徹底して農業を仕込むわけです。中学校を卒業するころには村の青年と全く同じくらいの仕事ができるようになっていました。
 振り返ってみると、私はあのころ理科の勉強をしていたんだと思うんです。農業は理科、農業はサイエンス、科学です。このころもう一つ良かったと思うことは、忙しくなると朝暗いうちに起こされ、田んぼや畑に着くころにようやく朝日が上がり仕事ができるようになる。こうして仕事をしていると近所の子どもたちがカバンを持って学校に行く時間になる。忙しいときはこういうこともやりました。これは体力的にも気力の面でも非常に良かったと思っております。
 これは後で知ったことですが動物行動学者のコンラッド・ローレンツが、「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと大人になって人間的に不幸だ」こういうことを言っています。そういう意味では私は幸せだったと思っております。

 高校、大学時代

 私は高校、大学とサッカーをやりスキーをやり徹底して自分を鍛え、高校ではスキーで山梨県で優勝しました。大学は山梨大学で、スキーから帰って来ると急いで化学の教室に行く。良かったのはいつでも実験できた。化学というのは実験が主なんです。
 大学時代は国体にも2回参加しました。このように優勝のカップや楯がたくさんあります。スキーでは大鰐にも行きました。そのとき覚えた歌が、岩木山がどうのこうのという『シーハイルの歌』です。
 新潟県に横山天皇と呼ばれていた、横山隆作先生がおりました。この先生のところに国体で優勝する、インターハイで優勝するなどスキーの一流の選手たちが集まってくる。そこに私は山梨を代表して参加しました。

 スキーで学んだこと

 横山先生のところに集まった選手の中から何人もオリンピックに行っています。その中に松橋高司選手もいました。何回も日本で優勝し、オリンピックにも行きました。私の憧れの選手だったんです。
 この中で学んだことは、大学で机に向かって勉強だけしているより遥かに大きかったと思っています。それは何か。
 クロスカントリースキーですからものすごく辛いんです。しかし辛いときが勝負なんです。その後私は研究で辛いことがたくさんありました。そのときスキーのことを思って、今が勝負なんだ、今が勝負なんだと思って勉強をし、仕事をしてきました。
 もう一つは高いレベルの中にいるということは自分もそのレベルにいるということなんです。ですから自分をできるだけ高いレベルのところに身を置くことが大事なんです。そいうことを私はスポーツ通じて勉強しました。私は5年間、山梨県でクロスカントリーでトップになっています。それも高いレベルの人たちとやっているうちに自分も高いレベルに達していた。
 これは学問でも同じです。高いレベルの人たちとつき合い、高いレベルの人たちの中に身を置いて勉強することが大事であるということをスキーで学びました。

 働く高校生から学ぶ

 私は山梨大学を卒業して東京都の墨田工業高校の定時制の先生になりました。
 中小企業のいっぱいあるところでした。学生は昼間は働いて夜になると学校に来て勉強するわけです。あるとき試験のとき見て回っていますと、答案を書く手にまだ油がついている。その手で試験問題を解いている。
 これを見て私は、私は何をやっていたんだろう。サッカーをやりスキーをやり勉強をしていなかった。よし、勉強をしなおそうと、私は高校の先生を5年やる間に、修士課程を受けるために1年はドイツ語の勉強をしまして、2年目は今の筑波大学、むかしの東京教育大学に研修生として入りました。次の年に東京理科大学の修士課程の合格しました。普通は2年で修了するんですけれども私は5年かかりました。
 しかし私は、働く高校生たちと出会っていなかったら研究者になっていなかったかも知れません。
 東京理科大学にいるとき私の恩師が、東京工業試験場に日本に一台ないすごい機会が入っている。工業試験場にそれを使えるように話をしてあるからと、私は行きましたら、昼は工業試験場で使っているから夜なら使えるといわれました。
 私は、昼は東京理科大学で勉強して、夕方になると高等学校に行き講義して、終わると東京工業試験場に行き徹夜で研究しました。

 北里研究所に入る

 それで私は大学の修士課程を修了して、高校の先生より研究者になる方がいいかなと思いました。何故かというと、話が下手だ。人前で自分の考え方を十分に話が出来ない。研究者ならコツコツと研究していればいいだろうと思ったわけです。
 それは大間違いで、研究成果を上げれば上げるほど人前で話をしなければならなくなったんですが、そのときはそう思いました。
 山梨大学の文部教官助手になったとき、葡萄酒をつくる学科があり、葡萄酒の研究をしました。その葡萄酒を作る過程で培養液に入れておいた砂糖が一晩でアルコールになっていた。微生物が一晩のうちに砂糖をアルコールに変えてしまうわけです。酵母、微生物の力ですね。感動しました。私は化学をやっていましたから、どうかんがえても化学では一晩でアルコールにすることができない。今でもできないと思います。それを微生物は砂糖を一晩でアルコールに変えてしまう。
 そこで私は、微生物の力と、私が今までやってきた化学の力を合わせた研究をしてみたいなと思っていたところ、非常に運が良く北里研究所に入ることができました。

 私の研究方法

 北里研究所に入り抗生物質の研究をしました。これは微生物の力を借りてものをつくる。構造を分析するのが化学の力です。その両方ができたことが良かったと思います。
 現在私がやっていることをお話しますと、地球上のあらゆる環境からサンプルを取ってきて、シャーレ―に蒔いて生えてくるコロニーを純粋に分離し、それを保存する。それを取り出して培養する。その培養液を取ってきて、その中に目指す物資が入っているかどうかを調べる。ここが大事。私がたくさんの治療薬を見つけることができたのはここに集中的に力を入れたからです。誰もやらない新しい方法でやって、その中に目指す物質があるかどうかを改革してきたわけです...。

 と、大村氏はこの後、研究の専門的な話に入って行くが、ここでは割愛させていただく。
 話の前半は以上のように私たちが学ぶべき人生訓的な内容であった。参加した中高生の中には志を新たにした生徒もいたのではなかろうかと推察する。
 大村氏は、
 「微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまで類のない480種を超える新規化合物を発見。それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
 また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱。実現し、基礎から応用まで幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。
 研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園の運営など」をも行ってきた。(「フリー百科辞典『ウィキペティア』」より)
 こうして大村氏は国内、国際の数々の賞を受賞し、2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。




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 ウガンダやコンゴでの元少年兵たちの社会復帰や岩手県大槌町の復興刺し子プロジェクトなどを行っている、認定NPOテラ・ルネッサンスの創始者鬼丸昌也さんの講演会が3月5日、十和田市民文化センターであり、参加者から感動した、勇気をもらったなどの多くの感想が聞かれた。
 これは社会福祉法人福祉会(山本孝司理事長)が一般公開講座として行ったもの。
 鬼丸さんは「ひとり一人に未来を作る力がある」と題して、ウガンダは1980年代後半から内戦が始まり、反政府軍「神の抵抗軍」(LRA)が約6万6千人もの子どもたちを誘拐し兵士に仕立ててきた。その結果平均年齢13歳という子ども兵だけの軍隊も作られた。
 またコンゴ民主共和国では1998年から大きな紛争が続き以後10年間での犠牲者は540万人といわれている。コンゴの紛争でも500万人以上の子どもたちが兵士として徴兵された。5歳で子ども兵になった子どももいた。
 なぜ、ウガンダやコンゴで紛争が絶えないか。それは先進国の責任である。コンゴには携帯電話や電子機器に使う希少金属であるコルタンが世界の埋蔵量の約8割がある他、金、銀、ダイヤモンドなどの天然資源が豊富である。これら高く売れる資源をめぐっての内紛である。
 鬼丸さんの認定NPOテラ・ルネッサンスは、これらの国に行って、元少年兵たちに文字を教え仕事を教え、元少年兵が自立できる活動を行ってきている。
 結果、ウガンダでは月収128円しかなかったものが支援で仕事を身に着け働くようになってから月収が7008円に増えた。これは現地の公務員並みの月収である。
 また国内では、3・11の東日本大震災で町長他死者803人、行方不明者474人が犠牲になった岩手県大槌町。震災以降、何もやることがないといっていた大槌町おばちゃんたちに「刺し子をやろう」といって、大槌刺し子プロジェクトを立ち上げ、おばあちゃんたちは働きだし元気になった。今は復興の一つの手本ともなっている。
 ウガンダやコンゴの元少年兵たちも、そして大槌町のおばあちゃんたちも、働くことによって未来をみつけている。つまり誰でも「ひとり一人に未来を作る力がある」。誰でもやれると結んだ。



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