夢追人ニュース

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「私ね、10年以上も前から十和田市現代美術館構想委員として、基本計画や設計者の選定、アート作品の検討などで美術館に関わっていたんで、十和田市現代美術館は非常に身近に感じているんです」と語る小池一子さん。
 小池さんは当時武蔵野美術大学教授として、専門家委員会・基本計画素案について検討(平成16年=二〇〇四)、(仮称)アートセンター設計者選定プロポーザル審査委員会・十和田市現代美術館の設計者選定(平成17年=二〇〇五)、アート作品検討委員会・設置するアート作品についての検討(平成17年初開催)と、基本構想から建物の設計者選定、展示するアート作品の選定まで、すべて関わっていた。
 「十和田市は近代にできたまちでしょう。だから十和田市には現代美術館がふさわしいんです。十和田市現代美術館にはその時々に世界で一番輝いている作品が展示されています。これは設計者の西沢立衛さんの提案だったんですが、一つの作品に対して一つの家、日本では十和田市現代美術館だけの発想です。権威の象徴のような20世紀の美術館とは全く違います。アートは心と精神を奮い立たせます。美術館からの経済面での波及効果も出てきます」
 十和田市現代美術館ができて8年。美術館オープン以来県内外からすでに130万人が訪れているだけでなく、市民そのものに変化がおきている。
 かつて文化の砂漠といわれた十和田市。昭和61年(一九八六)市民文化センターできてから様々な文化活動が盛んになってきた。平成20年(二〇〇八)十和田市現代美術館ができてから十和田市は全国から注目される文化のまちとなった。さらに平成25年(二〇一三)から始まった元気な十和田市づくり市民活動支援事業にこれまで124の事業が採択されている。つまり市民が自らの手でまちづくりしようと、124の市民団体(事業)が立ちあがったのである。これは、小池さんのいう「アートは心と精神を奮い立たせる」その顕れではないであろうか。いずれにしても十和田市現代美術館ができてから十和田市は大きく変わったことは確かである。
 「今後ですか、10周年に向けて、美術館を飛び出し環境とアートを結びつけた奥入瀬芸術祭を今検討中です」と語る。
 十和田市現代美術館はひとを変え、まちを変える。その基礎を創った一人である小池一子さん。今度は指揮者としてその第一線に立つ。
 小池一子、一九三六年東京都出身。父は教育学者の矢川徳光、姉は早くから天才少女と呼ばれた作家・詩人・翻訳家の矢川澄子。早稲田大学卒業。グラフィックデザイナー・絵本作家の堀内誠一のもとで編集、広告の企画、執筆を始める。フリーになったあと、西武百貨店のコピーライティング、編集企画などをグラフィックデザイナーの田中一光と共に手がける。特に小池さんを有名にしたのは堤清二社長のもとで無印良品の立ち上げである。昭和63年(一九八八)武蔵野美術大学造形学部教授に就任。編著書に『三宅一生の発想と展開』、『アイリーン・グレイ 建築家・デザイナー』など多数。毎日デザイン賞(一九八五)、日本文化芸術振興賞(一九九五)などを受賞。



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 「十和田湖は一つ」これは昨年、低迷する十和田湖観光の復興を目的に立ち上げた「NPO十和田湖未来」のスローガンのひとつである。これまで青森県側から神田川を越えて秋田県側に行くことはあまりなかった。しかし、観光客にとって十和田湖に青森県も秋田県もないのである。
 秋田県側の西湖岸には、十和田湖が「日本新八景」に第1位で選定されたのを記念して昭和6年(一九二七)建てられた紫明亭展望台、ひめます孵化場、そして昭和15年(一九四〇)に行われる予定であった東京オリンピックの外国人観光客のために昭和13年(一九三八)に建てられた十和田ホテル、十和田湖からわずか30分の小坂町には明治の芝居小屋「康楽館」、小坂鉱山事務所など歴史的建造物がたくさん残されている。これらはすべて十和田湖圏 である。
 この「十和田湖の新しい魅力を探る」では青森県側から行く秋田県側の十和田湖の魅力を紹介する。まず最初は明治の芝居小屋「康楽館」から紹介しよう。
 案内は、話術巧みな高橋竹見館長


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 「康楽館」は明治43年(1910)に小坂鉱山が鉱山で働く人たちの厚生施設として建築された。今年で106年ということになる。その外観は、白く華麗な下見板張りで、館内の天井は八角形の枠組みの中央にチューリップ型の電燈があるなど洋風建築である。が、館内は桟敷や花道、その花道にはせり上がるすっぽん(切穴)があるなど、江戸時代の伝統的な芝居小屋と、和洋折衷の芝居小屋である。


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 この「康楽館」を救ったのが俳優で庶民芸能研究家の小沢昭一である。建物の老朽化とカラーテレビの普及で昭和45年(1980)に一般興業は中止され取り壊しが決まっていた。そんなときに訪れた小沢昭一は「こんな貴重なものを何故取り壊すんだ。取り壊したら後々まで国賊国賊になるぞ」といった。当時の町長は議会の反対を押し切って、自分の財産を担保にいれる覚悟をしてを保存したという。



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 観客はむかしながらの桟敷の中で観る

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舞台大きな周りになっており、舞台展開はこれを黒子2人で廻す


明治の輝きを今に伝える小坂鉱山事務所

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私財を投じ新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」を再現

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 地元のひとたちから「幻の穴堰」と呼ばれていた新渡戸十次郎未完の穴堰。これは新渡戸 が安政6年(一八五九)に稲生川を開削して三本木平に上水したその7年後の慶應2年(一八六六)に、新渡戸十次郎が2本目稲生川を通そうとして950㍍掘ったところで逝去。そのために未完に終わった穴堰のことである。
 この穴堰は、当時ばんづるやなかづる、てんばづるなどを使って掘った工事跡、灯りとりに使った油煙の跡などが、今掘ったかのようにくっきりとそのまま残されており、江戸末期の測量技術の高さと、穴堰の掘削技術が見られる貴重な土木遺産、歴史文化遺産である。それが中野英喜さんによって150年の眠りから覚め一般公開されることになった。
「この幻の穴堰は、不毛の三本木平にどのようにして奥入瀬川から水を上げたのか。つるはしの一振りひとふりが十和田市をつくり上げた。それを体感できる場所でもあるわけです。特に子どもたちには、ふるさとの歴史を知り、ふるさとに誇りを持つ市民になっていただきたい。そう思いこの幻の穴堰を再現しました。なにより安全を重視しました」と語る。
「幻の穴堰」の再現。それは行政がやることでしょうという声も多いが、実はこの幻の穴堰の再現はまだ未完だが管理棟の建設や環境整備含め最終的には約5000万円かかる見込。それをすべて、ふるさとのためにと私財を投げ打って再現したのが中野英喜さんである。この幻の穴堰は30年前にテレビで紹介されたり、市議会でも再現できないものかと取り上げられたこともあったが、中野さんにとっては30年来の夢の実現であった。
 中野英喜。昭和13年(一九三八)1月、十和田市に生まれる。中学3年生のとき東京都文京区立第一中学校に転校。都立文京高校、慶應大学法学部政治学科卒業。アメリカ・オハイオ州立大学留学。帰国後東北大学商法研究室を経てエジプト・アレキサンドリア大学国際交流セミナーに参加するなど、一九六〇年代は若き国際人であった。
「本当は弁護士か大学教授になりたかったんです」と語る中野さん。昭和37年(一九六二)24歳のとき、父が病気になり帰郷。長男であったことから父のやっていた㈱中野コンクリートブロックの社長に就任。事業の道に入った。
 昭和40年(一九五五)、中野コンクリートブロックをたたみ八戸に進出、結婚式場東奥会館を設立した。高度経済成長時代に入り、それまでそれぞれの家でやっていた結婚式がホテルや結婚式場で行われ始めていた時期である。いち早く時代の波に乗りこれが大当たりした。昭和43年(一九六八)、十勝沖地震をきっかけに青森市に進出。このとき現青森空港のある大谷地区の山を取得した。昭和54年(一九七九)新空港の建設地が決定。その建設予定地に中野さんが持っていた山が入り空港の一部として買収され、当時はみちのく銀行の筆頭株主となり話題になった。昭和55年(一九七〇)東奥カントリークラブをオープン。平成27年(二〇一五)十和田市の優雅な社交場十和田倶楽部をオープン。そしてこのほど、新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」を再現。
「今、穴堰の地に立ち眼下を見下ろすとそこには見事な田園風景が遥か遠くまで広がっています。これこそが十次郎が子孫に残したいと描いたものではなかろうか。子孫たちが、豊かに集う未来を確信して」と語る。
 写真は、渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」オープニングセレモニーで挨拶する中野英喜さん


新渡戸十次郎未完の「幻の穴堰」オープン

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 地元の人たちから通称「幻の穴堰」と呼ばれていた新渡戸十次郎未完の穴堰が、私財を投じた実業家中野英喜さんによって150年の眠りから覚めた。

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 この「幻の穴堰」は、新渡戸傳 が安政6年(一八五九)に稲生川を開削して三本木平に上水したが、三本木平は火山灰土 で漏水がひどく思うように上水できなかった。
 そこで新渡戸十次郎がその7年後の慶応2年(一八六六)にもう一本稲生川を通そうとしたが、十次郎の死去により950㍍掘ったところで未完に終わってしまった。最初の稲生川は十和田市の中里から上水しているが、この穴堰は約3・5㌔先の百目木から上水しようとしたものであった。

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 さらに驚くのは、当時ばんづるやてんばづる、なかづるなど使って掘ったその工事跡がさも昨日掘ったかのようにほとんど崩れておらず、当時の測量や工事の技術を見ることができる。そして管理棟の500㍍の範囲内に、「幻の穴堰」他、稲生川鞍手山出口、国営稲生川鞍手山出口、岩手から来た穴堰の技術者集団の記念碑「山の神」の碑があるなど、三本木開拓の八割方を説明できる。
 またこの穴堰には5種類のこうもりがおり、こうもりの生息地であることがわかった。

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 150年前の工事跡。上右はなかづるで砂岩を削ったときの跡。上左はてんばづるの跡。なかづるとてんばづるの摩擦跡が、150年経った今でもさも昨日工事したかのように光って見える。この砂岩は360万年~260万年前の浅い海に堆積した砂が隆起し固まったものである。
 クランク状の穴堰。左右から掘って中間でれたところを調整したところである。

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穴堰の中には5種類のコウモリが棲んでいる。

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第4横穴の出口と眼下に見える奥入瀬川。約37㍍の標高差がある

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管理事務所及びその内部



十和田市出身・医師が選んだスーパードクターにもランキング。日本脳ドック学会次期会長に予定されている

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 日本人の三大死因である悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患のいずれもが青森県はワースト3以内に入っている。それが不名誉な日本一短命県につながっている。
 青森県は声高々に短命県返上を叫んでいるにも関わらず一向に改善の兆しが見えない。
 野菜などの食材の日本有数の生産地である青森県。そんな新鮮でおいしい食材を使った料理を食べていればワーストどころかベスト上位になるはずである。が、青森県は、野菜の摂取量が少ないだけでなく、何故かインスタントラーメンの消費量が断トツ日本一である。えっ!インスタントラーメン消費量日本一と、平均寿命ワースト1との関係あるの?ということになる。
 青森県ではむかしから「あたり」といわれている脳卒中、脳梗塞などの脳血管障害での死亡率が非常に多い。その大きな要因の一つは塩分の取りすぎである。
 小笠原先生は、
「塩分を取りすぎると高血圧になり、そのことによって血管が傷み、心血管疾患(心肥大や心不全などの心臓病)、脳血管疾患(脳梗塞などの脳卒中)などが起こりやすくなります。青森県は寒いという地域性もあるかと思いますが、伝統的に塩辛いものしょっぱいものが好きなんですね。ですから、インスタントラーメンをはじめあらゆる加工食品は、青森県など東北に出すものは、それ以外の地域に出すものより塩分濃度を少し高くしているんです。要するにしょっぱくしないと売れないんです」と語る。
 それに加え、喫煙率と多量飲酒者率もワースト1。肥満率44位。スポーツする人の割合ワースト1、健康診断受診率39位である。
 そこから見えてくるのは、青森県人は健康に対する意識が極めて低いということではなかろうか。
 それを必死で裏で支えている一人が脳神経外科の研究者である小笠原邦昭教授である。
「意識を変えるというのはなかなか難しいです。私は学校給食で塩分が少ない方が美味しいと子どもの味覚を変える。そのことによって、それら成人病の7割は防げると思っています」と語る。
 小笠原邦昭さん。昭和34年(一九五九)5月、旧十和田町沢田に生まれる。沢田中学校、八戸高校、弘前大学医学部卒業。その後日本の脳神経外科学の先駆者の一人である東北大学の鈴木二郎教授のもとで14年間研究。平成10年(一九九八)38歳のとき岩手医科大学に赴任。平成20年(二〇〇八)同大教授となり現在に至っている。
 これまで東北脳血管障害懇対会医学奨励金(3回)、日本脳卒中の外科学会賞を受賞。
 また学会では、日本脳神経外科学会代議員、同学術評議員、同専門医試験委員、日本脳循環代謝学会理事、日本脳卒中学会理事、同専門医試験委員などを務め、一般財団法人日本脳ドック学会の次期会長にも予定されている。そして、医師が選んだスーパードクターにもランキングされている日本の脳神経外科学会界のエキスパートである。
「私は青森県はいわゆるあたりが多いということで脳神経外科へ進んだわけではないですが、これを解決するのは学校教育等での啓発が一番だと考えています。私にできることがあればぜひ協力していきたいと思っています」と語る。
 平成29年度の十和田市民大学講座の講師にも予定している。

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 十和田市で毎年4月下旬、桜の季節に行われる「桜流鏑馬」が一般財団法人地域活性化センターの地域イベント表彰‐第20回ふるさとイベント大賞のトップ賞である内閣総理大臣賞を受賞した。
 青森県ではこれまで、第3回イベント大賞で五所川原市の立佞武多が第2位にあたる優秀賞を、第15回で田舎館村の田んぼアートがトップ賞である総務大臣賞を、第19回では弘前市のお山参詣が第3位にあたる優秀賞を受賞している。
 流鏑馬はもともとは武士の実戦弓術として平安時代から行われていたものを源頼朝が復活させ武士のたしなみとして幕府の行事に組み込んだといわれている。それが青森県では櫛引八幡宮など、歴史の古い神社の神事として現代に伝わっているものである。
 それを、神事からスポーツとして発展させようと平成14年(二〇〇二)に流鏑馬競技連盟が発足。十和田市では生きた馬でまちづくりしようと平成13年(二〇〇一)に馬事振興協会が発足し、生きた馬100頭による第1回「駒まつり」が開催された。このとき十和田乗馬倶楽部会長中野渡利彦さん等によって初めてスポーツ流鏑馬が一般に披露された。
 そして平成15年(二〇〇三)の第3回「駒まつり」で第1回流鏑馬大会を開催。
 その翌平成16年(二〇〇四)に第1回目の桜流鏑馬が行われた。駒まつりは秋に行われたのに対して、桜流鏑馬はその名の通り女性らしく桜の季節、4月下旬に行われてきた。
 注目は、女性が華やかな衣装を身にまとい、疾走する馬に、弓を持ち手放しで跨り、180㍍の鉄砲馬場を、約60㍍間隔に置かれた三つの的に騎射するのである。その馬の速度は180㍍を速いひとで9秒台、遅いひとでも10秒台で走り抜けなければならない。その10秒間に矢を取って構えて射る。これを3射しなければならないのである。女性ならではの華麗で豪快、かつ勇猛果敢な人馬一体となったスポーツである。
 平成16年の第1回桜流鏑馬を紹介する記事で本紙は「将来は十和田市を代表するイベントに」(平成16年5月号=第245号)と書いた。それから12年、馬でのまちづくりの一つの頂点を極めた桜流鏑馬。まさに全国に発信する馬のまち十和田市を代表するイベントに育った。



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 65歳のときフィンランドでリサイタル中脳溢血で倒れ右半身がマヒした。退院してピアノに向かったが、右手が動かない。しかしピアノは弾きたい。左手だけで引くピアノの曲は一曲しかない。舘野さんはこれと思う作曲家に「左手でカムバックする。左手の曲を書いてくれ」とファックスを送った。こうして左手だけのピアニスト舘野泉が誕生した。ヘルシンキ在住のため日本で聴ける機会は少ない。お見逃しなく。
舘野 泉さん。80歳。ピアニスト、2008年旭日小綬章受章、1964年からヘルシンキ在住、世界各地で演奏会3500回以上(青少年育成十和田市民大会と共催)
 ▽日時/9月16日(金)午後6時30分~▽会場/十和田市民文化センター▽講演テーマ「舘野泉、80歳ピアニストの音楽人生」▽入場/無料▽問い合わせ/℡0176-72-2318(十和田市教育委員会)


 幻の穴堰など「三本木開拓施設群」、十和田市現代美術館、桜の名勝日本の道百選の「駒街道」、南部裂織の「匠工房」、日本で数少ない馬の博物館「駒っこランド」、世界的な建築家新国立競技場を設計した隈研吾設計の「市民交流プラザ」及び、安藤忠雄が設計した「教育プラザ」、さらに食のB‐1グルメの「十和田バラ焼き」と一泊二日コースだ。そして十和田湖へとつなげる。

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 昨年、十和田湖の観光復興を主目的としたNPO十和田湖未来が設立され、新しい観光コースの開発と、マイクロバスでそのモニターツアーを行った。その一つが「十和田市歴史と文化・食のコース」である。
 歴史は、新渡戸記念館が閉鎖されたのは残念ではあるが、新渡戸十次郎が未完に終わった「幻の穴堰」など三本木開拓施設群と、日本には数少ない馬の博物館「駒っこランド」。文化では貧しさの中から生まれた南部裂織体験の「匠工房」。そして十和田市現代美術館。世界的な建築家で新国立競技場を設計した隈研吾設計の市民交流プラザ。同じく安藤忠雄が設計した教育プラザ。食ではB‐1グルメの「十和田バラ焼き」がある。
 三本木開拓施設群は今後の課題であるが、駒っこランドは10年間で100万人入苑。十和田市現代美術館は7年7ヵ月で120万6000人(平成27年12月16日現在)入館している。そして現代美術館も西沢立衛という世界的な建築家の設計に負うところが大きいが、隈研吾設計の市民交流プラザも、安藤忠雄設計の教育プラザも観光面からも注目される建築物である。
 昨年行ったNPO十和田湖未来の「十和田市歴史と文化・食のコース」のモニターツアーでは、三本木開拓施設群「幻の穴堰」、駒っこランド、昼食はバラ焼きを食べて、午後は「匠工房」に行ったが、1日でこれしか回れなかった。しかも観光客には観るだけでなく体験できる充実したコースであった。十和田市はもはや一泊二日のコースとして十分に観光化できる。
 NPO十和田湖未来では「十和田市観光都市宣言」をし、今年はそれを実践に移す予定であるという。

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写真上から、駒街道、駒っこ牧場、十和田市現代美術館、教育プラザ、市民交流プラザ



県境つないだ十和田湖マラソン
十和田湖の魅力を全国に発信する自然と人が駆ける道
 7月10日に十和田商工会議所青年部が中心となり、十和田湖を活性化させようと地域と連携し、十和田湖の湖畔を走る第一回十和田湖マラソンが開催された。
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 秋田県と青森県の県境を十和田湖畔に沿って21㎞を駆けるこのマラソン大会は北海道から長崎まで、15歳から78歳までの463名の選手が参加した。受付・集合場所は休屋にある「十和田湖観光交流センターぷらっと」前、そこから遊覧船に乗って十和田湖の景色を楽しみながらスタート地点である秋田県大川岱に移動し、ゴールである子ノ口を目指す。前日までの60%の雨予報は大会成功を願い耐えるかのように時折小雨が降るも太陽の下、開会式が始まり、実行委員長の佐藤百年氏は「走りながら十和田湖の景色や魅力を楽しんで是非、全国へ発信して欲しい。そして何度でも足を運んで欲しい」と挨拶。今大会最年少の米田親一郎君が選手宣誓の挨拶をした。
↓第1回十和田湖マラソン実行委員長を務める佐藤百年さん
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↓選手宣誓を誓う参加者最年少の米田親一郎くん(15)
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↓合図と同時に一斉に勢いよくスタートする選手ら
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 スタート前に合図を待ち、意気込む参加者に訪ねると「ここは標高差のあるコースでのぼりや下り、カーブも多いこのコースは全国でも珍しいです。走る側にはかなり難易度が高い厳しいコースでとても待ち遠しかった!」と笑顔で喜びながら教えてくれた。スタートの合図で100m走かと思うくらいのスピードで先頭集団が走り抜ける。ボランティアスタッフ285名が大会運営を支え、小坂中学校、十和田湖中学校、十和田第一中学校の生徒らも給水ポイントで選手らを励ましながら大会を盛り上げる。十和田湖マラソンは険しいコースと時々降る雨、蒸せる暑さ、自然の厳しさとエネルギーを感じながらの疾走となった。
 1位のゴールテープを切ったのは秋田県鹿角市の尾崎紀幸さん。タイムは1時間15分46秒だった。ゴール後はしばらく動けないほどの疲労、最初の一言は「よいでね~(秋田弁で容易ではない)」と苦しかったコースを振り返る。10秒後に2位の小坂橋大史さんがゴール。出身は旧十和田湖町で現在は仕事で県外にいるがマラソンを機に帰郷してチャレンジしたという。お互いに健闘を称えあう姿は次々とゴールするランナー全てに窺えた。
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↑笑顔でガッツポーズ!互いを称えあう男子1位尾崎紀幸さん(右)、2位小板橋大史さん(左)と
女子1位川村美学さん(写真下)
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↓ゴールで選手を笑顔とお水で迎える十和田第一中学校の生徒ら
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 女性の部第1位は川村美学さんでタイムは1時間29分04秒。南部町にあるはらだクリニックに勤務。一緒に出る予定だった院長が肉離れのため断念したため孤軍奮闘。また名川中学校の陸上部のコーチもしているという。距離もコースも厳しかったと振り返る。
 次々とゴールする選手らは疲労困憊で足取りもフラフラ、汗と雨でずぶ濡れになりながらも目は輝いているように笑顔が絶えなかった。順位ではなく目標を達成した充実感が会場を埋め尽くす。
↓閉会式会場では十和田バラ焼きとひめます汁の無料提供があった。疲れて冷えた参加者の心と身体を温めた
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 ゴールした選手らは子ノ口から休屋にフェリーで移動し閉会式を待つ。会場では十和田バラ焼きとひめます汁が無料提供された。ボリュームある「バラ焼き+おにぎり」に「ひめます汁」のさっぱりした味の相性は抜群で、疲れで身体の冷えた選手らを力付ける。表彰式では小山田市長が標高差183mある厳しいコース、これを成功させたのは参加者や大会運営の協力者だと感謝の意を述べた。そして、今年を第1回とするならば第2回の開催も期待したいと挨拶した。年齢性別ごとに表彰式が行われ受賞者には実行委員長佐藤百年氏から記念品が贈られ大会は大成功のまま幕を閉じた。
【男子】高校生以上39歳以下①尾崎紀幸②小板橋③目移/40歳以上49歳以下①金澤貴②三谷③羽賀/50歳以上59歳以下①畠山一則②石岡③鶴ケ崎/60歳以上①永井恒②桧山③小西
【女子】高校生以上39歳以下①川村美学②橋本③原子/40歳以上49歳以下①敦賀奈津子②千葉③松原/50歳以上59歳以下①工藤小百合②久保③藤田/60歳以上①秋田秀子②小笠原③佐藤 ※1位選手のみフルネームで記載
今年の十和田市民大学講師に

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 昭和10年(一九三五)、第1回芥川賞の選考委員会で予選候補になったものの選ばれなかった太宰治が、選考委員の一人であった佐藤春夫に、次は自分を選んでくれるようにと長文の手紙を出した話は有名である。
 青森県から芥川賞の受賞者は『忍ぶ川』で受賞した三浦哲郎ただ一人だけである。
 その芥川賞に受賞はしなかったものの、第152回で『指の骨』が、第153回で『朝顔の日』がと2回連続で候補になったのが十和田市出身の高橋弘希さんである。
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 高橋さんの作品はどう評価されたのであろうか。断片的ではあるが、選者のコメントの一部を紹介しよう。『指の骨』で小川洋子さんは、
「『指の骨』で、例えば薬棚の描写や、巨大なタコの樹を見上げる場面を、私はうっとりしながら読んだ。思い浮かぶイメージのどこに焦点を絞るか、高橋さんは的確に判断し、簡潔な言葉でそれを救い上げている...」
 同じく奥泉光さんは、
「アジア太平洋戦争中の、ニューギニアの戦地にあった日本兵を描いた高橋弘希氏の『指の骨』は力作であり、作者の力量は十分に感じられた。...戦争を体験せぬ世代である我々は...作家の『いま』への問いかけがなければならない...」
 宮本輝さんは、
「私は高橋弘希さんの『指の骨』を推した。...とりわけ最後の数行が、私をこの主人公の心情に同化させた。文章の力だと思う。その描写力や構造には非凡なものを感じ、高橋氏の才能を認めて受賞作に押した...」
 島田雅彦さんは、
「『指の骨』は骨太な読み応えのある戦記に仕上がっている。戦争経験のない者は他者の戦争経験に学ぶしかないのだが、『戦場にいる自分』の創造の仕方は見事である」
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 『朝顔の日』では、
 選者の山田詠美さんは、
「『朝顔の日』。病室の白い壁が、さまざまな色で、時に淡く時に鮮烈に染め上げられて行くかのよう。この作者は、死と隣り合わせの静謐を美しく描く印象派...」
 などと、その創造力や文章力、描写力を高く評価している。あとはテーマであろう。芥川賞にもっとも近いところにいる作家の一人である。
 高橋弘希。父は黒石市、母は十和田市出身。昭和54年(一九七九)十和田市で生まれた。とはいっても、お母さんが十和田市出身であったことから出産のために帰郷して弘希さんを出産して半年くらい十和田市に居たということである。が、弘希さんは夏に毎年母の実家に帰り夏休み中十和田市で過ごしていたから、弘希さんにとってはやはりふるさとは十和田市である。
 その高橋弘さんが平成28年度の十和田市民大学にやってくる。



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