夢追人ニュース

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 十和田市で毎年4月下旬、桜の季節に行われる「桜流鏑馬(さくらやぶさめ)」が一般財団法人地域活性化センターの地域イベント表彰‐第20回ふるさとイベント大賞のトップ賞である内閣総理大臣賞を受賞した。
 青森県ではこれまで、第3回イベント大賞で五所川原市の立佞武多が第2位にあたる優秀賞を、第15回で田舎館村の田んぼアートがトップ賞である総務大臣賞を、第19回では弘前市のお山参詣が第3位にあたる優秀賞を受賞している。
 流鏑馬はもともとは武士の実戦弓術として平安時代から行われていたものを源頼朝が復活させ武士のたしなみとして幕府の行事に組み込んだといわれている。それが青森県では櫛引八幡宮など、歴史の古い神社の神事として現代に伝わっているものである。
 それを、神事からスポーツとして発展させようと平成14年(二〇〇二)に流鏑馬競技連盟が発足。十和田市では生きた馬でまちづくりしようと平成13年(二〇〇一)に馬事振興協会が発足し、生きた馬100頭による第1回「駒まつり」が開催された。このとき十和田乗馬倶楽部会長中野渡利彦さん等によって初めてスポーツ流鏑馬が一般に披露された。
 そして平成15年(二〇〇三)の第3回「駒まつり」で第1回流鏑馬大会を開催。
 その翌平成16年(二〇〇四)に第1回目の桜流鏑馬が行われた。駒まつりは秋に行われたのに対して、桜流鏑馬はその名の通り女性らしく桜の季節、4月下旬に行われてきた。
 注目は、女性が華やかな衣装を身にまとい、疾走する馬に、弓を持ち手放しで跨り、180㍍の鉄砲馬場を、約60㍍間隔に置かれた三つの的に騎射するのである。その馬の速度は180㍍を速いひとで9秒台、遅いひとでも10秒台で走り抜けなければならない。その10秒間に矢を取って構えて射る。これを3射しなければならないのである。女性ならではの華麗で豪快、かつ勇猛果敢な人馬一体となったスポーツである。
 平成16年の第1回桜流鏑馬を紹介する記事で本紙は「将来は十和田市を代表するイベントに」(平成16年5月号=第245号)と書いた。それから12年、馬でのまちづくりの一つの頂点を極めた桜流鏑馬。まさに全国に発信する馬のまち十和田市を代表するイベントに育った。

写真は、全速力で疾走する馬に跨り的に矢を射る流騎士だけによる
華麗で豪快豪快かつ勇猛果敢な桜流鏑馬


内閣総理大臣賞を受賞!!
ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」
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散らない桜は未来を射貫く
馬と共に駆け抜ける女流騎手
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(プロフィール)昭和46年2月3日生まれ(45歳)
十和田市出身。七戸高校を卒業後、東京の建築関係の専門学校に進学。卒業後はフリーターとして働き、22歳の結婚を機に地元に帰郷した。実家の手伝いをしながら27歳の頃に正社員として入社し、運命の馬と出会う。
 女人禁制・男だらけの伝統技の流鏑馬の美しさと魅力に感動。盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、流鏑馬を競技化したスポーツ流鏑馬に女性として初めて大会に参加し、初挑戦・初優勝の快挙を成し遂げた。
 32歳で乗馬のインストラクターを取得し、馬のまち、十和田市を盛り上げようと駒フェスタや桜流鏑馬などの大会を企画し、体験できる観光型事業として海外へも発信している。このたび第20回ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」が内閣総理大臣賞を受賞し、年々増加している女流騎手の第一人者として現在も活躍中だ。

仕事人・上村鮎子
 今回は第20回ふるさとイベント大賞・内閣総理大臣賞を受賞した「桜流鏑馬」その第一人者として活躍している農業法人㈲十和田乗馬倶楽部の代表取締役兼ウエスタン乗馬インストラクターの上村鮎子さんを訪ねた。
 177㎝の身長からか堂々とした雰囲気で、何でも思ったことを正直に話してくれるような男気ある女性という印象の上村さんは流鏑馬の世界に飛び込んだきっかけとこれからの目標を話してくれた。
桜流鏑馬の誕生
 流鏑馬は800年から1000年の歴史ある神聖な伝統競技で女人禁制だった。最初は男性が守ってきた儀式的な馬術競技で女性がやるものではないと思った。しかし、現在は乗馬人口の女性の割合が増えてきたこと、スポーツ競技として楽しめるようになったこともあり、女性への普及を考える。どうせやるなら本物を覚えたいと盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、初参加の大会で初出場・初優勝の快挙も成し遂げた。
 桜流鏑馬はただ馬に乗って矢を射るのではなく伝統ある流鏑馬の作法や姿勢を大切に考え、そこに女性ならではの華やかさを加える事で観る人にも楽しみを与えたいという気持ちと、当時愛情をかけて乗っていた馬が弱ってきて最後に花道を作ってあげたいとの想いもあり、全国で唯一の女性だけのスポーツ流鏑馬「桜流鏑馬」が誕生したという。
 春の桜舞う季節の女流騎手の祭典、桜流鏑馬だけではなく、秋の枯れ葉彩る駒フェスタは季節と景観を感じながら観るだけでも楽しめる。コースは200m、実際は射る区間110mを馬に乗て両手を離し、9秒以上10秒未満で駆け抜けながら3回射貫かなくてはならないため、かなり高度な技術も必要だと教えてくれた。
継続と連携は力なり
 もちろん最初から何でも上手くいったわけではなく苦労も多かった。自分は詰めが甘く周りの人に助けてもらい連携が上手くできた事もある。若い頃はすぐ結果を求めていたが、今は流鏑馬を通して我慢する事と物事を坦々と進める事を覚えた。また、女性が見栄えするような衣装や色使いなどにも気を配ったり、馬のまち十和田市のイベントとして恥じないような内容を作っていかなくてはと企画し、今年で第13回目となる。それの活動が去年の十和田市の地域資源として認定されたことや今年の内閣総理大臣賞につながったと思うと語った。
滞在体験型観光事業の実現へ
 現役は続けられる限りやっていきたいが、いつでも裏方に回れるように準備もしていきたいと語る上村さんが次に目指すものは外国人の体験型観光事業だという。十和田市の活性化のため外貨を稼ぐ意味でも、世界に通じる十和田市の新しい文化として根付くためにも情報を発信したり、魅力あるイベントとして女流騎手の拡大などをしていきたいと語る。結果として外国人を誘致し滞在した事によって宿泊・飲食などの利益や他の観光事業との連携も準備できればと目標を志しているようだ。十和田市活性化のためにも、これからも桜流鏑馬と上村さんの活躍を期待したいと感じた。
 10月3日・4日に開催されたB‐1グランプリin十和田。過去最少規模のまちでの開催となり不安の中、最高のおもてなしをしようと市民ボランティア(バランティア)が集まり出展団体と来場者を迎えた。
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↑出展団体以外にも十和田市の魅力を発信しようとアオモリコレクションと十和田づくしフェアが開かれた

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↑今大会はホスト団体ながらも来場者からはバラゼミに票を入れたいとの声があったほどブースにはたくさんの人が立ち並んだ。

 初日3日は朝から降る雨の中で始まった。開会の花火と同時に太陽が顔を出すも来場者は過去大会に比べて出足が遅いように感じた。逆にはっきりと人気のある団体が目立つような列に並ぶ姿もあったが、待ち時間が1時間を超えるようなブースは残念ながら見受けられなかった。二日目となる4日は太陽も顔を出し、スタートから列が並ぶブースも見られた。しかし、風は冷たく雲で太陽が隠れると急に寒くなるような天候に来場者は並ぶのも辛そうに思えた。
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↑全力で呼び込みをするボランティアメンバー
↓車椅子の来場者にもおもてなしをする姿もあった
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↑会場を回り「ごみありませんか!?」と呼びかけ続けるゴミいただき隊の中学生
↓振り付けを覚えてアピールする高校生ら

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 それでも会場が賑わっているような雰囲気を作りだせたのは地域に想いを持って魅力を発信しようと開催までを決めたバラゼミのメンバー、開催までを準備した実行委員会、十和田大会に出展してくれる全国から魅力を発信しようと集まった市民団体の出展者たち、ゴミ集めや呼び込みなど声を懸け続けた十和田西高生やバラ焼きキッズを始めとする市内の子どもたち、会場整備や警備などを手伝った市民ボランティアの人々、その想いを感じ取った来場者の方々、どれが欠けても十和田大会が成功する事はなかっただろう。
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↑「熱血!!勝浦タンタンメン船団」が第10回B‐1グランプリin十和田でゴールドグランプリを受賞した。

 結果は二日間で来場者は33万を超え、第10回大会で見事ゴールドグランプリを受賞したのは「勝浦タンタンメン船団」だった。共に喜ぶ出展者の同志たち、最後はこの大会を最高のものにしたいと頑張ってきた畑中舌校長が磯野典正船団長と喜びと感動を分かち合う姿が印象的だった。過去最小規模のまちで最大限のおもてなし、最悪の天候に最高の大会が終わったのだと感じた。第11回大会は再来年に開催。新たな地域の魅力発信の大会となるように期待したい。
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↑抱き合って喜び(愛)を分かち合う磯野典正船団長と畑中舌校長

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↑感動のフィナーレ!会場が一体となって想いを込めて歌い、最後を笑顔と涙で締め括った!
▽1位/熱血!!勝浦タンタンメン船団(千葉県勝浦市)
▽2位/対馬とんちゃん部隊(長崎県対馬市)
▽3位/津ぎょうざ小学校(三重県津市)
▽4位/今治焼豚玉子飯世界普及委員会(愛媛県今治市)
▽5位/田川ホルモン喰楽歩(福岡県田川市)
▽6位/あかし玉子焼ひろめ隊(兵庫県明石市)
▽7位/黒石つゆやきそばHAPPY麺恋"ジャー(青森県黒石市)
▽8位/出雲ぜんざい学会(島根県出雲市)
▽9位/三崎まぐろラーメンズ(神奈川県三浦市)
▽10位/Do it!松阪鶏焼き肉隊(三重県松阪市)

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↑青森県の最後の砦!?黒石つゆやきそばHAPPY麺恋゛ジャーが5年ぶりの入賞(第7位)に喜んだ!

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ゆるキャラを超えた十和田市の生キャラ!?
 B‐1グランプリ十和田開催まであと[23日]
  まちおこしの想いを実現する偉業の仕事人!!
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十和田バラ焼きゼミナール
舌校長 畑中 宏之
プロフィール 昭和38年8月21日生まれ(52歳)
三本木高校を卒業後、沖縄大学に進学。途中自主退学をし放浪の旅に出る。28歳で帰郷し、家業である美容室山野を継ぐ。地域の人を知ろうと十和田青年会議所(JC)と商工会議所青年部(YEG)に入会。そこで社会奉仕のためのボランティア活動やまちおこし運動について学んだ。まちおこしツールの一つの手段として平成22年からB‐1グランプリ(厚木大会)に初出展する。さまざまな十和田市の魅力を全国へ発信しながら、去年の郡山大会で見事にゴールドグランプリを受賞した。そして今年の十和田市開催に最も貢献した立役者だと誰もが認めるであろう人だ。

 今回は毎日が24時間では足りないくらい多忙な日々を送っているであろう美容室山野のマネージャーでもあり、十和田バラ焼きゼミナールの舌校長・畑中宏之氏を訪ねた。ヒゲ面に薔薇をあしらった黒のタキシードで十和田市のゆるキャラではなく「生キャラ」として全国に魅力を発信し続けている。畑中氏は高校時代に生徒会長に立候補しても危険だと判断され先生に止められる(笑)その後、大学へ進学しても中退し、世界を見るため放浪の旅に出る(驚)など、人とは違った感性を感じさせる破天荒な一面を昔から持っていた。
 28歳の時に帰郷し家業を継ぐ。地域と人を知るために十和田青年会議所と十和田商工会青年部の2つに入会。そこで学んだものは「まちづくり」と「ひとづくり」の大切さ、社会奉仕活動とは何のためなのか、地域活性化のために自分たちが出来る事とは、仲間と未来を熱く語り、十和田市のために何かを実行したいとの想いは強くなる。それが今年開催されるB‐1グランプリin十和田につながったことは言うまでもない。
 平成22年にたった15名から始まったまちおこしのための小さな取り組みは現在では全国、世界からも注目を受ける大きな活動となって十和田市の魅力を発信し続けている。今では見慣れ聞きなれた畑中氏のキャラも、当時は奇抜な格好や言葉に地元市民からはバカにされることがあった。それでも「十和田市のため」にと揺るぎない信念の主張は変わる事なく、高校生や小学生を巻き込んでの取り組みや被災地の復興支援の活動などが全国メディアにも取り上げられる。5年という苦悩の年月を駆けてゴールドグランプリを受賞した喜びと感動は一生忘れる事が出来ないと語る。
 畑中氏はバラ焼きを売る事が目的でもなく十和田市で開催することも目的ではない、それをきっかけに大人から子どもまで「まちの人の意識を変える」きっかけになればいいと思うと語ってくれた。B‐1開催地の大きな経済効果は過去に実証されているが大切なのはその後にどうやってまちを発展させていくかで、次の世代には同じことではなく馬でも苔でもいいから何か十和田市の魅力を発信するための挑戦をして欲しいと語る。バラ焼きを通して知る事の出来た十和田市の歴史のある自然や建物、自慢できる地産品、地域愛溢れる子どもたち、まちの魅力を発信していくことで魅力のあるまちになってきたと感じた。
 9月10日時点でB‐1グランプリin十和田開催まであと23日となる。畑中氏はワクワクとドキドキと不安と緊張が止まらない。いまは全国から来てくれる人たちに「十和田スタイルのおもてなし」を全力でやりたいと語る。人口約6万人の小さなまちに何倍もの来場者が訪れる十和田市過去最大のまちおこしの祭典に期待と興奮を覚える。また、十和田開催に向けての企画の一つとして、まちおこしのために競争ではなく共闘している同志らが九州大分から「363日生花(薔薇)リレー」を出発したことを教えてくれた。十和田開催を成功させたい全国のみんなの熱い想いを繋げて10月2日に青森県十和田市に到着する予定だ。
 郡山大会へ参加した人なら分かるが、会場までの道のりにあるお店の人たちが店頭に出て何万人という来場者一人一人に「ようこそ郡山へ!」と笑顔で声を掛けてくれていた。畑中氏は十和田市開催ではおもてなす側として恥ずかしがらずに「ボンジュール!ようこそ十和田へ!」と声を掛けてもらえれば嬉しいと語った。まちのために子どもたちのために、この魅力ある十和田市民の一人として自信を持って声を掛けようと思う。

 来年は十和田湖国立公園指定80周年 今、十和田湖の観光がる
 観る観光から体験する観光へ・通りすがる観光から滞在する観光へ
 十和田市、十和田湖、小坂町(秋田県)の有志が集まり結成

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  青森県の象徴でもある十和田湖。今、十和田湖のメーンストリートはホテルや土産店の廃屋が立ち並び、中央の雑誌に「破壊寸前の十和田湖観光」と書かれるほど大変な状況になっている。全国28ヵ所ある国立公園の中でこんなひどいのは十和田湖だけである。
 然も来年は国立公園指定80周年を迎える。世界に誇る美しい湖十和田湖はこのままでいいのか。これを民間の力で何とかしようと、「十和田湖は一つ」をスローガンに、観る観光から体験する観光へ、通りすがる観光から滞在する観光へと、従来の観光の形を変えようと、十和田市、十和田湖、秋田県小坂町の有志が立ち上がり設立したのがNPO十和田湖未来(小笠原カオル理事長)である。
 果たして、「NPO十和田湖未来」が目指しているように十和田湖の観光の形を変えることができるのであろうか。
 まず、十和田湖はもともとは観光地ではなかった。観光地となったのは、昭和30年代の経済の高度成長期からであり、もう少し遡れば国立公園指定となった昭和11年(一九三六)からということなる。
 それでは十和田湖は何であったのか。子ノ口の三叉路の角に元禄の碑がある。これは今から322年前の元禄6年(一六九三)に南部の殿様が五戸の代官に命じて十和田湖への参詣道を造った道路の工事碑である。そう、十和田湖は江戸時代の昔から開けた信仰の湖であった。
 また、和井内貞行が大変な苦労の末十和田湖にひめますの養殖に成功した。その話が映画になり、小学校の教科書に載り十和田湖は全国に知られるようになった。
 NPO十和田湖未来は、十和田湖の原点に戻り、十和田湖を湖や奥入瀬渓流といった狭い範囲でとらえるのではなく、明治36年(一九〇三)に奥入瀬渓流の道が拓ける前の古道を復活するなど、十和田湖を中心とした観光資源をすべて活用する新しい観光開発である。十和田湖の新たな観光復興である。それが左図の観光メニューである。
 出来るかできないか。大間町「あおぞら組」組長の島康子さんがいっているように「理屈こねる前に、まんず動け」という。


 市民の皆さんに問う!
 話し合いもなく何故そんなに急ぐのか!!将来に悔恨をさないか

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本木開拓の史料を集めた新渡戸記念館が廃館にされようとしている。それも突然にだ。
 その経緯を聞くと、今年2月17日に、十和田市の新渡戸記念館の指定管理者である太素顕彰会(石川正憲会長)から、新渡戸記念館は耐震上コンクリート強度が基準に満たないので4月1日より休館すると伝えられた。
 しかしこれには二つの点で疑問が残る。一つは耐震強度の検査を行った業者は、設計図を見ないで検査をしたという点。二つには十和田市にも大きな被害をもたらした十勝沖地震(昭和43年)及び、三陸はるか沖地震(平成6年)でもヒビ一つ入っていないのである。
 3月26日に行われた太素顕彰会の役員会は新渡戸家を外して行われ、新渡戸家に対し将来像も示さないまま一方的に突然に新渡戸記念館を休館し取り壊すことになったと伝えた。
 5月28日になって初めて非公開で市長と新渡戸家との話し合いが行われた。が、非公開のために具体的に何が話し合われたかわからない。これについて新渡戸家は悔しさを滲ませながらも黙して語らず、沈黙している。
 新渡戸記念館は、大正14年(一九二五)に新渡戸稲造博士より、三本木地域の文化の向上のためにと約7千冊の蔵書が贈られ、新渡戸家が持っていた三本木開拓の史料と併せ私設博物館兼図書館「新渡戸文庫」として設立されたことから始まる。そして昭和40年(一九六五)に十和田市立新渡戸記念館として設立され、今年でちょうど築50年になる。
 市側は、新渡戸記念館に対して、個人の持ち物に税金を使うことはできないとする。新渡戸家は寄贈しないとはいっていないが新しい記念館を建てるとかその将来像をはっきりと示してほしいという。この件について、市が一方的に伝えただけで市側と新渡戸家との具体的な話し合いは一切行われてない。
 十和田市は新渡戸傳の稲生川開削によって開かれ、その息子新渡戸稲造博士の父である新渡戸十次郎の札幌に先駆けた都市計画によって街が築かれた。碁盤の目条の街区はそれに基づいている。
 平成25年(二〇一三)に、その三本木開拓施設群が、(公社)土木学会の「選奨土木遺産」に登録され、平成26年(二〇一四)には、稲生川が国際かんがい排水委員会の「かんがい施設遺産」に登録された。三本木開拓がこのように、国内は勿論であるが国際的にも重要な土木遺産として評価されている。
 新渡戸傳による三本木開拓がなければ現在の十和田市はなかった。新渡戸記念館にはその十和田市の成り立ちの史料がたくさん保管されている。が、十和田市はそれを新渡戸家のものだから守らないという。十和田市としては、新渡戸記念館を今後どうするかという計画は今のところ全くない。新渡戸記念館を廃止することは十和田市の重要な歴史の一部を失うことである。そして新渡戸記念館は市民の財産でもある。
 市民の皆さんに問う!
 このまま深く論議をすることもなく新渡戸記念館を簡単に廃館していいものだろうか。将来像を示さないまま何故そんなに解体を急ぐのか。十和田市が将来に悔恨を残さないだろうか。

 *写真は、十勝沖地震、三陸はるか沖地震でもヒビ一つ入らなかった市が廃館の方針を示した新渡戸記念館」





 十和田市出身㈱東京組中野渡利八郎会長語る

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 十和田市出身で、東京・世田谷で住宅建築会社を経営、東京の一等地で年間300棟以上を建設する㈱東京組の創業者・同会長の中野渡利八郎さんの「地域づくり講演会」(十和田市主催)が3月10日、十和田市民文化センターで行われた。
 中野渡さんは住宅大手メーカーのミサワホームに長年勤めていた。独立するきっかけは、最も悪い上司に恵まれたことであった。この上司のもとにいたら自分の人生がだめになる。そう思い会社を辞め、退職金で会社を設立した。この悪い上司に出会わなかったなら、私は会社を辞めなかったろうし、現在もなかったと思います。
 そのとき同級生が世田谷で不動産業をやり大成功していた。その同級生が俺の下請けにならないかといって私は建売業者をやることになった。それが東京組の始まりであった。その不動産屋は、街をきれいにすることを考えている不動産屋だった。街をきれいにすれば土地の価値も上がる。これはいいなと思った。
 東京組とつけたのは、フランスはパリ、アメリカはニューヨークというように街の名前の方が有名である。日本は世界から見れば東京です。などと、人との出会い、街づくりの考え方などを話し参加者に感銘を与えた。

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 毎年70万匹のひめますを放流している十和田湖。十和田湖での遊びの醍醐味の一つはこのひめます釣りである。
 ひめますは、日本では北海道の阿寒湖、チミケップ湖を原産とし、支笏湖や十和田湖、中禅寺湖、芦ノ湖、西湖、本栖湖、青木湖など釣られる場所が限られており、釣り人にとっては幻の魚として憧れの魚でもある。しかも十和田湖での釣りは、きれいな湖水に春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉と美しい自然が満喫できる。
 その十和田湖でのひめますの釣り好きが集まるグループが「十和田湖釣りクラブ」(中野渡政男会長・会員40名)である。クラブ員はそれぞれ自前のモーターボートを所持しなければならないという釣りファンにとってはちょっと贅沢な遊びの釣りクラブである。釣りクラブでは、会員交流の釣り大会や船置場の清掃や除雪などのボランティア活動も行っている。
 解禁日は、春は4月1日~6月20日までの80日間、夏は7月11日~7月20までの10日間、秋は10月1日~12月31日までと限られている。
 また、近年は湖岸での釣り客も増え昨年は1000人を超えるなど、十和田湖でのひめます釣りはただ今増殖中である。
 夏のある日、十和田湖釣りクラブの会員の一人である鳥谷部保さんの釣り船に同船した。

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夜明けとともに船の準備をする釣りクラブの会員

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 まず針に餌をつける
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そして湖に糸を垂らす

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 ひめますが食いつくと竿の先に付けてある鈴がなる。引き上げると形の良いひめますが二匹釣れてきた。釣りの醍醐味の瞬間である。

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 どう、結構大きいでしょうと鳥谷部さん。釣りマニアを自称する鳥谷部さん。退職したら十和田湖に移住したいという太公望である。

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  この日の鳥谷部さんの釣果

社会福祉法人福祉の里第2回生涯学習講座
「健康で生きるための免疫力」を語る

 創立20周年を迎えた社会福祉法人福祉の里(山本孝司理事長)の、その記念事業としての第2回生涯学習講座が、このほど世界的な免疫学者安保徹新潟大学名誉教授を迎えて十和田市民文化センターで行われた。
安保さんは青森県出身で、平成8年(一九九六)に「白血球の自律神経支配のメカニズム」を発見した他、『体温免疫力』(ナツメ社刊)、『「まじめ」をやめれば病気にならない』(PHP新書)、『病気知らずになる免疫力の高め方』(中経出版刊)など、免疫に関するたくさんの著書がある。
 安倍さんは「健康で生きるための免疫力」と題し、日本人のようにまじめで責任感の強い民族は、職場で悩みを抱えたとき全部一人で解決しようと思って、悩みに悩んで身体を壊すひとが多い。身体の無理も心の悩みも原因は違って見えるけれども、起きてくる体調はよく似ている。それは自律神経のうちの交感神経が刺激されることによって起こるわけです。
 私たちは日中活動して、夜は睡眠をとって疲れを癒して生きているわけです。この活動を支えるときの体調を無意識につくってくれているのが自律神経のうちの交感神経なわけです。交感神経が働くと脈が早くなるし、血圧が上がり、血糖が上がる。それで血液に酸素と栄養を送って働いたりスポーツができるわけです。
 ところが働いてばかりいると疲れますから、夕方あたりから自律神経のうちのもう一方の副交感神経が働きだして、脈を少なくし、血圧、血糖を下げるという形で休息、睡眠に入ってバランスをとっているわけです。
 この自律神経のメリハリのいいひとは、日中バリバリ仕事ができる。夜は十分眠り足りて翌日に疲れを残さず60歳になっても70歳になってもいつまでも健康で生きられるわけです。
 自律神経の次に覚えていただきたいのは白血球の働きですと、細菌などの外敵から身体を守るマクロファージ、リンパ球、顆粒球などの仕組みを、若干青森なまりの抜けきらないユーモアを交えた親しみのある言葉で話しをした。
 「免疫力」についは、健康についての最も基本的なことなので、ぜひ安保さんの著書を読むことをお勧めしたい。

 十和田市出身のバレエダンサー野呂修平さん
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 77歳まで舞台に立ち、80歳を過ぎてなおバレエ指導者として後進を育てている、十和田市出身の野呂修平(本名間瀬繁雄・旧姓本間繁雄)さん。このほど氏の一生記『波乱万丈の人生 バレエ野呂修平80年の軌跡』を出版した。
 野呂さんの人生は、本のタイトルのごとくまさに波乱万丈であった。昭和8年(一九三三)東京で生まれた野呂さん。日本はアメリカに戦争。仕事が無くなった野呂さん一家は、昭和17年(一九四二)新天地をもとめ満蒙開拓団として満州に渡った。一時は一家はなんとか食える生活になった。が、昭和20年(一九四五)日本が戦争に負けた。そして帰還までの死と隣り合わせた逃避行。その中で多くの日本人が亡くなった。が、野呂一家は奇跡的に誰一人欠けることなく無事日本に帰還した。しかし帰ってはみたものの東京は焼け野が原、住む家もなければ仕事もない。 先に帰国していた長男が青森県三本木町(現十和田市)に開拓団として入植していることがわかった。一家は長男を頼り、再び開拓団として三本木に移住した。

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 ここで小学校、中学校、高校と過ごした野呂さん。東京で生まれ、満州に行き最後は三本木に落ち着いたが、野呂さんにとっては三本木は事実上のふるさととなった。
 三本木高校ではたくさんの友人が出来た。中でも音楽の長谷川芳美先生との出会いが、その後の野呂さんの人生を決定づけた。長谷川先生は、クラシック音楽の基礎を教えてくれた。
 高校を卒業し、父が決めてきた就職先を断って上京。東京で勤めた会社の社長が日本のバレエの先駆者の一人である服部・島田バレエ団の島田廣氏と友人であった。バレエは野呂さんが三本木高校時代に培ってきたクラシック音楽、スポーツなどすべてが入っていた。自分の行く道はこれだと迷うことなくバレエの道に進んだ野呂さん。野呂さんの持ち前の根性と努力でもって、田舎で育ったにもかかわらず日本のバレエダンサーの一人に数えられるにまで成長した。
 野呂さんに再び転機が訪れた。日本のバレエのやはり先駆者の一人である間瀬玉子の後継者に指名されたのである。こうして野呂さんは間瀬さんのいる埼玉県熊谷市に移住した。
 読み物としても面白い人生の軌跡。これが『波乱万丈の人生 バレエ野呂修平80年の軌跡』(文化出版刊)である。

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