夢追人ニュース

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 十和田湖はかつて、大よそ400年ほど前に霊山として開かれ、青森県や秋田県などから多くの参拝客が訪れた信仰の湖であった。
 そして次に十和田湖を有名したのは和井内貞行によるひめますの養殖である。
 しかし現在は、信仰地であった「おさご場」は閉ざされ、十和田湖の特産品といわれながらホテルでもひめます料理が出されることがなく、和井内貞行については青森県側はパンフレットさえおいていないのは残念である。 
 和井内貞行は、安政5年(一八五八)現在の秋田県鹿角市毛馬内に生まれた。成人すると小坂鉱山寮の吏員を経て藤田組の社員となる。明治17年(一八八四)貞行27歳のとき十和田湖に鯉600匹を放流した。それは、重労働にもかかわらず干物と漬物だけという粗末な食事で働く鉱山労働者に新鮮な魚を食わせたいという思いからであった。これが和井内貞行の十和田湖への魚の放流の原点である。
 明治26年(一八九三)宇樽部の三浦泉八らと連名で湖水の使用許可をもらう。そのときの魚は主には鯉であった。が、鉱山は営業不振のために閉山。労働者に魚を食わせたいという漁業の目的が閉ざされる。
 しかし貞行の十和田湖への魚の養殖の思いが益々強くなってゆく。貞行は40歳のとき会社を辞め養殖に専念する。明治33年(一九〇〇)貞行43歳のとき青森県水産試験場からサクラマスの卵を買い孵化させ5000匹を放流。同じく日光養魚場からビワマスの卵を買い3万5000匹を放流。何回も失敗を重ね貞行は多額の借金を抱える。
 失意の貞行。東北漁業組合本部を訪ねたときである。ここで信州の商人から、北海道支笏湖にアイヌ語でカパチェッポと呼ばれる回帰性のマスの話しを聞く。
 これだ!!と思った貞行。妻カツは着物や櫛、愛用の懐中時計などを質に入れ卵を買う資金をつくった。明治36年(一九〇三)カパチェッポの卵を買い孵化させ3万匹を放流した。 
 そして明治38年(一九〇五)秋、風ひとつない湖面がさざ波たった。ヒメマスだ!!ヒメマスが産卵のために帰ってきたのだ。このとき貞行が発した言葉が「われ幻の魚を見たり」だといわれている。この貞行のひめますの養殖は、昭和17年(一九四二)に子ども向けの話として出版されたのを皮切りに、昭和25年(一九五〇)には『われ幻の魚を見たり』として映画化され、昭和33年(一九五八)ころから「十和田のヒメマス」として小学校の教科書に載り、十和田湖を有名にした。
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 十和田湖は青森県と秋田県にまたがっているわけだが、関西以西に行くと十和田湖は秋田県にあると思っている人が多い。和井内貞行は秋田県の人であり、その話もほとんどは秋田県であることから、和井内貞行のしが大きく影響しているものと思われる。
 十和田湖増殖漁業協同組合(小林義美代表理事組合長)は昭和61年(一九八六)よりこの事業を引き継ぎひめますの孵化と放流を行っており、現在の放流数は毎年70万匹である。
 その漁獲量はが、平成25年(二〇一三)でみると、ひめます9845㌔、ワカサギ895㌔、サクラマス318㌔、コイ285㌔、フナ398㌔となっている。かつて十和田湖の名産であったエビは平成4年(一九九二)の518㌔を最後に現在は皆無である。
 十和田湖での遊漁者数、釣り券を買って釣りをする釣り人は平成25年でヒメマス2222人、コイ38人であった。
 十和田湖増殖漁協の組合員数は35名(青森県20名、秋田県15名)だが、漁業だけでは食って行けず民宿などをやりながら生計を立てているひとが多い。
 漁協としてもひめますの養殖をするだけでなく、ひめますを売り込むためにブランド化を進めようと特許庁に地域団体商標を申請。昨年「十和田湖ひめます」として登録された。
 十和田湖の原点のひとつであるそのひめますは、前述のように十和田湖の主要なホテルでは出されておらず、わずかに民宿と一部の食堂や、 お土産店での串焼きとしてしか食べることができない。
 ひめますには感動的なドラマがある。「十和田湖ひめます」として地域商標登録もされた。このひめますを十和田湖の特産品としてどうアピールし売り込むかが今後の課題である。

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 写真上/魚が棲まわないといわれた十和田湖に失敗を重ね、苦労の末ひめますの養殖に成功した和井内貞行翁。その逸話は「ヒメマスが帰ってきた!」として小学校の教科書に載り、『われ幻の魚を見たり』として映画にもなった(写真は小坂町)
 写真中/和井内貞行の意思を受け継ぎ十和田湖にひめますの放流を続けている十和田湖増殖漁業協同組合の小林義美組合長
 写真下/十和田湖に生息する魚類(十和田湖観光交流センターぷらっと展示より





街の風景が変わる!使いやすさよりデザインを重視した設計

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 老朽化した十和田市中央公民館や社会福祉会館、老人福祉センターなどを集約した形で、中心商店街のど真ん中に作られた十和田市民交流プラザが10月14日にオープンした。
 その設計は、歌舞伎座やブザンソン芸術文化センター(フランス)などを設計。日本建築学会賞やフランス芸術文化勲章オフィシエなど数々の賞を受賞している、世界的に著名な建築家隈研吾氏によるもの。
 中心商店街への公共施設の建設は、郊外型大型ショッピングセンターの出現でデパートや小売商店が破綻し、衰退した商店街ににぎわいを取り戻そうというもの。また、これによって街の風景も変わってくるであろう。
 市民交流プラザは、建物の真ん中にみちの広場(エントランスホール)があり、これを中心に多目的研修室3室、和室3室、子育て支援ゾーンのプレイルーム及び親子ふれあいスペース、料理ができるキッチンスタジオ、作品の発表ができる展示室、サークル等の事務所ともなるスモールオフィスが並び、これに社会福祉協議会と老人クラブ連合会の事務局及び市の管理事務所である総合案内所が入る。建物への入口は市民が気軽に入れるようにと三方から5ヵ所ある。その他陶芸用の窯が機械室の中にある。
 しかし、その部屋の形や並びが不定形になっており、内装や外壁に県産の間伐材を使うなど、使いやすさよりデザインを重視した設計(下の図面を参照)となっており、初めて入館者したひとが迷った(?)という笑い話もあるほどである。
 設計者の隈氏は、
 「修学旅行に来たときの奥入瀬渓流の木漏れ日をイメージして設計した」と語った。
 この市民交流プラザは、現代美術館のようにお客を呼ぶ施設ではなく、市民のサークル活動や作品の展示、あるいは各種団体の会議などで使われる。
 閉鎖する前の中央公民館は年間延べ約9万人、社会福祉開館は約3000人、老人福祉センターは約5000人の利用者があった。その利用者がそのまま市民交流プラザを利用するのであれば中心商店街に約9万8000人と10万人近くが出入りすることになり、文字通り中心商店街の賑わいの創出につながるであろう。
 ちなみに部屋ごとの収容人数は、多目的研修室Ⅰ24人、多目的研修室Ⅱ50人~60人、多目的研修室Ⅲ20人、展示室(展示他会議等でも使用可)20~30人、キッチンスタジオ24人、和室Ⅰ21畳、和室Ⅱ14畳、和室Ⅲ14畳、エントランスホール50人、プレールーム30人、親子ふれあいスペース12組、スモールオフィス17区画となっている。そして駐車台数70台、駐輪台数45台となっており、施設の利用者は無料である。
 しかし、エントランスホールで50人、多目的研修室のⅡ、Ⅲを併せて使っても最大80人で、社会福祉協議会では100人以上の集まりは南公民館などを使わざるを得ないといっている。また、子育て支援ゾーンのプレイルーム及び親子ふれあいスペースはフラットではなく、それ以外での利用は難しい。
 世界的にも著名な隈研吾氏の設計で対外的には話題性があるが、今後これをどう活用するかは市民の肩にかかっているといえよう。
 総工費9億3500万円。

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 問い合わせは、市民交流プラザ℡0176‐58‐5670迄。

 アクセス数234、961件
 アクセス数ベスト20/1位東京、2位青森、3位大阪、4位神奈川、5位埼玉、6位千葉、7位北海道、8位愛知、9位宮城、10位岩手、11位福岡、12位兵庫、13位京都、14位秋田、15位静岡、16位、茨城、17位山形、18位広島、19位福島、20位栃木

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 平成24年(二〇一二)1月に発刊した「ネット新聞夢追人」。平成26年(二〇一四)12月31日現在でアクセス数23万4961件に達した。平成26年度の月平均のアクセス数は約7400件であった。
 しかも、アクセス数で一番多いのは東京である。以下、第20位までの県別アクセス数を紹介すると、第2位青森、第3位大阪、第4位神奈川、第5位埼玉、第6位千葉、第7位北海道、第8位愛知、第9位宮城、第10位岩手、第11位福岡、第12位兵庫、第13位京都、第14位秋田、第15位静岡、第16位茨城、第17位山形、第18位広島、第19位福島、第20位栃木となっている。まさに十和田発、全国新聞となった「ネット新聞夢追人」である。
 これを地域別でみると、いわゆる首都圏である、東京、埼玉、神奈川、千葉の4都県で約42㌫に対して、青森を含めた東北6県で約34㌫と首都圏が多い。
 もちろんアクセスは日本だけではない。数はそう多くないものの海外からのアクセスもある。海外からのアクセスのトップはアメリカで、以下オーストラリア、台湾、香港、ドイツ、中国、フランス、イギリス、韓国、カナダと続く。
 ネット新聞を発刊して満3年。地域に密着した取材で、十和田の魅力を全国に発信できたものと自負する。

 次の目標は映像の発信とネット広告及びネット商店街の設置
 全国の読者に読まれている「ネット新聞夢追人」。今後も地域に密着した文化情報を発信すると共に、次の目標はユーチューブを使った映像の発信と広告及びネット商店街の設置である。
 ユーチューブは文字を読む必要もなく映像でもってその臨場感を伝えることができる。
 そしてスマートフォンの時代の到来である。平成26年(二〇一四)のスマートフォンの普及率は若い世代を中心に36・9㌫。多くの人たちはスマートフォンから情報を得る時代となった。文字情報と共に映像情報を発信することによって若い世代にも読まれるネット新聞にしていきたい。
 そして二つ目はネット広告及びネット商店街の設置である。
 ネット広告は現在では新聞を上回りテレビに継ぐ第2位の広告媒体となっている。広告もネット時代に突入している。
 またネットを通して商品を購入するひとも多くなってきている。ネット商店街といってもネット新聞で商品を売るわけではない。ネット広告と併せ、単独ではネット上で出せない人たちの共同の商店街。つまり安い料金で誰でもが利用できる地域の共同市場のようなネット商店街を目指す。

 「十和田湖への古道を歩く」今年はネット新聞で募集
 来年は十和田湖国立公園指定80周年を迎える。本紙が昨年重点取材している十和田湖の復興。その要として「十和田湖の未来を考える会」が設立され、そしてその事業の一つとして十和田湖への古道が復活される予定である。
 その「古道を歩く」参加者をネット新聞で募集。今年はネット新聞が事業と融合し活用されるその第一歩の年としたい。


 藤原歌劇団団員テノール歌手の山内政幸さん

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 十和田市出身のオペラ歌手で藤原歌劇団正団員の山内政幸さんが、このほど十和田市民文化センターでオペラ『シンデレラ』の公演を行い、市民から大きな拍手をもらった。山内さんにとってオペラ歌手になって初めてのふるさと十和田市でのいわば本格的オペラの凱旋公演となった。
 山内政幸さんは昭和49年(一九七四)5月十和田市に生まれた。三本木中、八戸工大二高、昭和音大短期大学、昭和音大声楽科を卒業。同時に日本オペラ振興会オペラ歌手育成部マスターコース終了後、藤原歌劇団に入団。一昨年晴れて団員に昇格した。
 藤原歌劇団は、日本のオペラの先駆者である藤原義江が昭和9年(一九三四)に日比谷公会堂にプッチーニの『ラ・ボエーム』を上演したのが最初とされ、最初は藤原歌劇団として活動していたが、昭和56年(一九八一)に日本オペラ協会と合併統合し、日本オペラ振興会となり「藤原歌劇団」の名称は、西洋オペラの公演事業名として残している80年の歴史を持つ。その団員約200名、準団員500名という日本最大のオペラ集団である。
 山内さんは藤原歌劇団での公演の他、若手の歌手たちと「Divo e Diva」を結成、公演活動を行っている。今回はその公演であったが、山内さんはサンドリヨン(シンデレラ)を見初める王子役として出演。オペラの醍醐味を魅せてくれた。
 また、オペラというと音楽はオーケストラで演奏されるが普通だが、地方では予算やオーケストラボックスがない(十和田市民文化センターはある)などの理由でなかなかできない。がエレクトーン2台でオーケストラが演奏されたのにはちょっと驚きであった。
 話はちょっと横道にそれるが、山内さんは大晦日も押し迫った12月27日、地元冨士屋グランドホールで、熱烈なオペラファンであった裕子さんと晴れて結婚。ここでは余興で自ら日本歌曲を歌うなどして、文字道理主役をつとめた。

シンセサイザー2台でオーケストラ

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終了後高村さんの叙勲を祝う

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 十和田市名水対策協議会(竹島勝昭会長)ではこのほど十和田市民文化センターで三本木高校卒業・元立正大学学長で元日本地下水学会会長の高村弘毅さんを講師に昨年に続き2回目の名水保全学習会を行った。
 実は地下水が豊富と思われていた十和田市でもかつてその湧水を利用してニジマスの養殖をしていた場所が湧水が出なくなって閉鎖するなど地下水に変化が起きている。その地下水の変化に危機感を持った名水保全会は専門家を呼んで学習会を行った。
 高村さんは「三本木原台地の地下水環境の蘇生に向けて~奥入瀬川の余剰水による地下水資源としての復権~」と題して講演。
 三本木原台地の上にある十和田市。三本木原台地の地下水の一番大きな供給源は奥入瀬川であるが、奥入瀬川は30㍍も低いところを流れている。そのために新渡戸伝が稲生川を開削するまで水田ができなかった。稲生川が開削され地下水も豊富になった。が、近年稲生川の三面をコンクリートで巻き漏水が無くなった一方、減反により水田からの地下浸透が少なくなり、奥入瀬川の水は余上水となり無駄に太平洋に流出している。
 このような水環境の悪化が全国的なものであり国ではようやく「水循環基本法」を公布したとして、秋田県六郷扇状地の灌漑水路や香川県秦野市の例を挙げ、三本木原台地の場合はどうしたらいいのかを語った。
 高村弘毅さんは、昭和12年(一九三七)旧倉石村で生まれる。三本木高校卒業後上京。朝は牛乳配達、昼は会社に勤めながら、立正大学の夜学に通った。そして大学院は助手及び学生寮の舎監をしながら研究を続け、昭和41年(一九六六)に博士号を取得。以後、同大教授、平成16年(二〇〇四)に同大学長にのぼりつめた苦労人である。専門は、水文学、地下水学で、元日本地下水学会会長である。そして今年瑞宝中綬章を受章した。
 講演終了後、市内のレストランで関係者60人ほどが集まり高村さんの受章を祝った。

しかし乗客は最高時の820,000人(平成3年)から124,000(平成26年)と大激減

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 昨年倒産した十和田湖観光汽船のあとを継いで十和田湖遊覧船企業組合が発足。十和田湖遊覧船は今年8月より再び2社体制となり、十和田観光電鉄(株)は休屋から中湖を巡る湖上遊覧。企業組合は休屋、子ノ口間の定期運航遊覧と5隻が運航している。
 しかしその経営は厳しく最高時の82万人(平成3年)から、今年度はわずかその15㌫強にあたる12万4000人と大激減している。そのために昨年までの定期航路は500人の定員にお客が数人というときもあり、空気を運んでいると揶揄されることもあったほどである。それが観光汽船が倒産した原因でもあった。
 何故このように大激減したか。一つは十和田湖への入込数の激減。もう一つは旅行形態が団体旅行から個人旅行へ変わってきたことに全く対応してこなかったことなどによるものである。
 しかし湖上遊覧の魅力が変わったわけではない。特に今年の秋は、燃えるように紅く染まった紅葉の中に松の緑が点在し、どんな芸術家も表現できないほどの自然美に圧倒され、別世界に来たかのような美しさであった。
 それではどうすればいいのか。まず団体客時代の大型船から脱却し、きめ細やかなサービスができる100人程度の小型船に切り替えること。ランチクルーズなど湖上で楽しめる様々なクルーズ船などが考えられる。金がかかることでありすぐには対応できないであろう。が、いずれにしても現在のままでは観光客を満足させることはできず細る一方である。

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趣味に乗馬を楽しむ簗田睦子さん
84歳で全国乗馬倶楽部振興会の5級ライセンスを取得

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 会員資格「男性概ね60歳以上、女性概ね50歳以上」という乗馬クラブがある。十和田健康乗馬クラブ(佐藤清会長)がそれである。
 現在会員は女性8名、男性12名の併せて20名。うち80歳代1名、70歳代10名、60歳代5名、60歳未満4名と、おそらく全国最高齢者の乗馬クラブである。
 その最高齢者乗馬クラブの最高齢者が今年10月に全国乗馬倶楽部振興会の5級ライセンスを取得した梁田睦子さん、御年84歳である。
 「私ね、お花、お茶、日本舞踊、裂織などたくさんの趣味を持っていて、それなりの資格を取っています。次に何をやろうかと考えていたとき、十和田に桜流鏑馬を見に行ったんです。女性が全速力で走る馬に乗って矢を射るでしょう。感激しました。あ、今年は午年だ。馬もいいな、こんなおばあちゃんでもできるかしらと思って十和田乗馬倶楽部に電話したところ、会長がどうぞといってくれて、5月ころから練習しました。馬に乗ったときはただただ嬉しくってね。それが新聞に載ったところ友達から電話がかかって来て、みんなが集まってお祝いのパーティーを開いてくれたんです」と語る。
 簗田睦子さん、昭和5年(一九二七)2月、旧天間林村出身。夫は学校の先生をしていたこともあり専業主婦であった。が、午年の今年馬に出会った。十和田乗馬倶楽部に練習に通い、10月に乗馬5級のライセンスを取得。今は4級に迫る勢いだ。
 超高齢化社会の日本。高齢になっても趣味と生きる目標をもち、病気知らずで活動する。梁田さんは超高齢化社会の高齢者の生きる一つの手本だ。
 十和田健康乗馬クラブは、平成22年(二〇一〇)に発足。隔月で奥入瀬渓流や八甲田山麓蒼星の森、奥入瀬川河川敷、小川原湖湖畔、三沢淋代海岸、十和田市周辺など大自然の中をトレッキング。終わった後は、その日のトレッキングの映像を見ながらの懇親会はまた楽しい。会員の平均年齢は70歳強だが、誰も自分は高齢者だなんて思っていない。

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 写真上/十和田乗馬倶楽部の中野渡会長と余裕をもって談笑しながら乗馬する簗田睦子さん(12月)。写真下十和田健康乗馬クラブの仲間と奥入瀬川河川敷をトレッキングる簗田さんこのときはちょっと緊張ぎみであった(7月)


 むかしの農民の生文化「繋ぐ術」東北の民俗衣と現代美術
津軽と南部の文化の違いも

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 十和田市現代美術館(藤浩志館長)今年度最後の企画展「繋ぐ術『田中忠三郎が伝える精神』‐東北の民俗衣コレクションと現代美術」が始まった。
 田中忠三郎(一九三三~二〇一三)は戦中の日銀総裁、戦後すぐの大蔵大臣を務めた民俗学者であった渋沢敬三に傾注。自ら民具や衣服の調査・収集をし、その私有コレクションが2万点以上という在野の民俗学者であった。
 展示は、現代美術館が企画するだけあって単に田中忠三郎が収集した衣服を展示するのみではなく、村山留里子や平田哲朗等現代美術家の作品とコラボレーションさせた展示となっている。
 田中忠三郎着物コレクションは、十和田市や七戸町、旧上北町など県南地域で収集したタツケ(今でいうズボン。モモヒキともいった)やミジカ(半纏のような上着)、刺し子をしたマガナイ(ヌノマガナイともいった)、津軽地方のソデナシ、コギン刺しなど150点余りが展示されている。
 その中でも石川五右衛門が着たような丹前状の夜着ドンジャは圧巻である。
 田中忠三郎着物コレクションは、南部といわれていた県南で収集された物が多いが、それは米がとれず貧乏であったことから戦後すぐまで年寄りはタツケやミジカなどを着ていたからである。
 また、麻布を補強するために木綿糸で刺すとき、津軽のこぎん刺しは、経糸の目を奇数目で拾って模様を作ったのに対して、県南の菱刺しは偶数目で拾って刺すなど、津軽と県南の文化の違いをも見ることができる。

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 会期は15年2月15日迄。問い合わせは、℡0176‐20‐1127迄。
  
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 2014年、10月18日・19日の二日間に全国59のまちおこし団体が集結した「B‐1グランプリin郡山大会」が開催された。二日間の来場者数はなんと、45万3千人を記録した。郡山駅を降りると人の群れが混雑していて会場まで歩くと40分かかる道のりにも人の列が途切れることなく続いていた。

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 ふるさとが大好きな59団体が集まって地元をPRする「まちおこし」のための大会は、いくつかの会場に分かれ来場者をもてなした。安く美味しく面白く、各団体の工夫やパフォーマンスは見ているだけでも飽きない。

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 そんな中でも十和田バラ焼きゼミナールがさらに輝きを放っていたように見えたのは、十和田西校の生徒の頑張りや、バラゼミの想いが強く込められていたからだと知っていたから感じたのかもしれない。途切れることなく並ぶ来場者に必死で笑顔で声を掛け続けるエネルギーは素晴らしく、並んでくれた来場者も受け取ったことだろう。

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 各団体の熱戦が繰り広げる中、二日間の大会は幕を閉じた。投票に使用される箸の重さで優勝を決めるこの大会では前回、惜しくもシルバーグランプリ受賞となったバラゼミも集計の発表に息を潜める。
 10位から順に発表されていく中、バラゼミの名前は上がらない。最後にゴールドグランプリの発表を残して司会者の声が鳴り響く。
 「第9回、B‐1グランプリin郡山大会、優勝は...箸の重さ、23960g。十和田バラ焼きゼミナールの皆さんです!」との発表に一瞬の静寂の後に大きな歓喜の声が上がった!

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 十和田西校生の涙が苦労を物語る。感無量で言葉が出ない木村学長から指名を受け、畑中舌校長がこれまでの苦難苦闘の道のりと、今まで支えてくれた人たちへの感謝の気持ち、これからの抱負を涙を流しながら敵ではなく、共に街を盛り上げようと戦った同志たちへ熱く語った。
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 三沢市寺山修司記念館の「寺山修司市民大学総合講座」が始まった。
 寺山修司総合市民大学は、寺山修司の資料を三沢市に誘致し寺山修司記念館建設のきっかけをつくった寺山修司五月会(山本優会長)が主催している。
 第1回目は、佐々木英明寺山修司記念館館長による「寺山修司記念館の17年と今後の展望」であった。
 佐々木館長は、寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」の舞台に立ち、映画に出演した一人である。
 佐々木館長は、青森市で「だびよん劇場」が中心になって行っていた寺山修司祭と、寺山の資料が三沢市に寄贈された経緯や、寺山修司記念館の建設のとき、国から補助金をもらうにあたって文学館で申請したところ個人の文学館には補助金を出すことができないといわれ、観光資源として申請したところ通ったという記念館建設の裏話や、寺山と一緒にやっていたころはやがて消えるひとだと思っていた。が、亡くなって10年過ぎたころ、筑摩書房が出した「寺山文庫」をきっかけとして注目されるようになった。東京時代の寺山には私生活がなかった。すべて仕事であったなど、寺山修司と一緒にやってきたひとでなければわからない逸話などを語ってくれた。
 今後の寺山修司市民総合大学については本紙「催物案内」を参照下さい。
 写真は、寺山修司記念館の17年と今後の展望」と題して語った佐々木英明寺山記念館館長


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