夢追人ニュース

  若いときはヒッピーとなり世界23ヵ国を放浪
 
hatanakahiroyuki.jpg ご当地グルメでまちおこしの祭典、第8回B‐1グランプリ豊川大会でシルバーグランプリを受賞した十和田バラ焼きゼミナール(以下バラゼミ)。そのバラゼミの中心となってシルバーグランプリに導いたのが舌校長の畑中宏之さんである。
 「B‐1グランプリには、第5回の平成22年(二〇一〇)の厚木大会から出展しているんですが、このとき第8位の入賞でした。
 厚木大会は、初出展だったんで無我夢中だったんですが、第6回大会からは目標を立てたんです。それは、バラゼミのそもそもの目的は食によるまち興しですから、十和田をどうPRするかということです。
 以降、姫路での第6回大会では第8位。北九州での第7回大会では第10位でした。
 実は、優勝すると次回からはオブザーバー参加しか出来ない。この3大会でバラ焼きゼミナールが全国に大分知られるようになって来た。
 そこで今年は優勝を目指そうと、十和田西高校の生徒25名、メンバー25名の50名体制で挑みました」と語る。
 結果、優勝できなかったものの見事第2位に輝き十和田の名を全国に売った。と同時に、優勝に向けての再挑戦の道を残した。
 十和田バラ焼きゼミナールのそもそものきっかけは、平成22年(二〇一〇)の東北新幹線全線開通を控えて、平成18年(二〇〇六)に食でまちづくりをしようと、市の主導で、商工会議所青年部や観光協会、JA、コンサルタントなどをメンバーに調査検討会議が発足した。畑中さんはこの検討会議に商工会議所青年部専務として参加した。
 そこではご当地バーガーや三本木ラーメンなどの様々な意見が出された。が、コンサルタントから、新しいものを作っては成功しない。むかしから食べられているものを探した方がいい。行政主導では3年も持たない。民間でやるべきだなどのアドバイスがあり、その中で目をつけたのが「バラ焼き」であった。
 こうして、平成20年(二〇〇八)12月に有志が出資金を出し合い「十和田バラ焼きゼミナール」が結成された。
 バラ焼きゼミナールでは、スピード感があり、行政に対してノーといえて、自由度のある組織にして行こう。そのためには基本的には補助金に頼らず、税金を納められる活動をして行こうなど活動規範を決めた。こうして平成22年に厚木大会に初出展した。
 バラゼミのすごいことは、この活動に小学生や高校生を巻き込んだことである。それらが高く評価され、テレビや新聞、雑誌などで紹介された他、外務省の在外公館などが行なう広報活動の宣伝資料として、約100ヵ国、200局近いテレビ局に提供され、十和田バラ焼きゼミナールの活動が世界に紹介されることになった。
 また、経済産業省がタイ・バンコクで開催したクールジャパン事業日本食文化の祭典「ジャパン・フード・カルチャー・フェスティバル」にも出展した。
 十和田を全国に売る活動が、そのエネルギッシュな活動によって、全世界に十和田を売ることになった。
 その他、バラゼミの後方支援組織として企業組合ラビアンローズを設立。バラ焼きに関する商品開発などを行なっている。
 畑中宏之。昭和38年(一九六三)8月、十和田市に生まれる。三本木高校卒業後、沖縄大学に入学した。が、ここでヒッピーと知り合い、その話を聞くうちに世界に興味を持ち、それから10年近くかけてインド、中近東、アフリカなど世界23ヵ国を廻った。可愛い子に旅をさせよの諺ごとく、旅で世界を広く見たことが、畑中さんのバラゼミの活動を支えている。
 そして28歳で帰郷。青年会議所、商工会議所青年部を経て、バラ焼きゼミナールへと活動を移した。
 畑中さんは今働き盛りの50歳。このまちをどうして行くか。まだまだこれからを期待したい。
第8回B‐1グランプリで「十和田バラ焼きゼミナール」を銀賞に導いた  
hukumuratakayosi.jpg 本紙4月号(325号)で紹介した福村孝善さんがこのほど、平成25年度の青森県卓越技能者に選ばれた。
 今や東京の観光名所の一つともなっている復原した赤レンガ造りの旧東京駅舎。駅舎の南北には駅舎の象徴でもある八角形のドームがある。
 東京駅舎は、大正3年(一九一四)に建設されたが、昭和20年(一九四五)の空襲で屋根と円形ドームが焼失。それを戦後、3階建てであったものを2階建てにして復旧していた。
 その駅舎が平成15年(二〇〇三)に国の重要文化財に指定された。それを機に建設当時の完全な復原の機運が高まり、旧東京駅舎が復原されることになった。しかもそれは「復元」ではなく「復原」である。つまり、材料から工法に至るまで当時をそのまま忠実に復元するというのである。その中でも技術的に難しいのが八角ドームであった。当時の設計図は戦災で焼失。残っているのは写真だけである。それを銅板職人の一人として見事に復原した。その全国トップクラスの技術の高さが、平成25年度の青森県卓越技能者として評価された。
 福村孝善さん。昭和25年(一九五〇)7月、十和田市に生まれる。三沢商業高校卒業。卒業と同時に家業である建築板金業である父に弟子入りした。30歳のこと、銅板加工では日本一の小野工業で修業。以来、神社や仏閣、千葉県佐倉市にある川村美術館や、明治大学礼拝堂など名のある建物の建築にも携ってきた。
 しかし、福村さんは現在63歳。一緒に行った銅板職人の沢下美則さんは72歳、姥神朝次郎さんは58歳である。今は銅板葺きの建物が少なく、仕事の減少と共に後継者が育たないのが寂しい。
 
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国際ソロプチミスト十和田認証25周年記念  益金10万円づつを十和田市及び七戸町に贈る
 
koyanaghorumiko.jpg 女性事業者の国際的なボランティア団体である国際ソロプチミスト十和田(稲本佐矩子会長)の認証25周年記念チャリティディナーショーが、歌手の小柳ルミ子を迎えて、11月15日、富士屋グランドホールで行なわれた。
 これには、会場いっぱいの400人を越えるひとたちが参加。ディナーと小柳ルミ子の歌を楽しんだ。
 ショーに先立って稲本会長から、十和田市に図書購入費として20万円及び、七戸町に文化振興に使って下さいと10万円寄付した。
 国際ソロプチミスト十和田は、認証以来ディナーショーでの益金で、高校生への奨学金や、中央病院への訪問診療者などを贈っている。

「フラワーズ」「十和田奥入瀬芸術祭」など次々と新企画を生み出す

アーティステック・ディレクター

hujihirosi.jpg 十和田現代美術館の開館5周年記念展第1弾4月から始まった「フラワーズ」にしても、9月から始まった第2弾「十和田奥入瀬芸術祭」にしても、首都圏からの若い人たちで溢れた。その5周年企画をプロデュースしたのが、自らも美術家であり、十和田市現代美術館副館長で、アーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 「今回の「十和田奥入瀬芸術祭」は、焼山地区の地域再生に美術館がどのように関わるかという問題が重要です。美術の中でいうと、十和田市現代美術館は発信力があり注目されていますから、美術関係者たちが次ぎは何を持ってくるんだろうかと、非常に関心をもっている。
 それと今、いろんなところでアートプロジェクトブームで、芸術祭、トリエンナーレなど、いろんな町や地域がアートを活用するようになってきているんです。
 その中で芸術祭のあり方が問われている。
 芸術祭が、子どもたちにとって、地域のひとにとって、焼山に暮らすひとにとって、遊覧船を運営する会社にとって、十和田湖周辺で暮らすひとにとって、どういう意味があるのかなど、幾つも意味を重ねる必要があります。
 ですから一つの切り口で説明するのは難しい。
 仕掛けるうえでは、一つひとつに意味や思いを込めていて、将来的にはそれらがつながってゆき、十和田市に暮らすひとたちが創造力や活動力を身につけ、創造的な活動が広がっていくことが重要だと思うんです。そして大きくは、十和田市がクリエイティブなまちとして定着してゆけばいいと思っています」
と、熱く、とうとうと語る。
 確かに、十和田市現代美術館ができてこの5年、十和田市が変わった。一つは、首都圏など多くのひとが十和田市を訪れるようになった。二つにはまだ少ないが若い芸術家たちが十和田市に移住するようになってきた。三つには十和田市がクリエイティブなまちとして見られるようになってきているなどである。
 それらを意識的に一層強く進めて行こうとしているのがアーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 藤浩志。昭和35年(一九六〇)鹿児島県出身。京都市立芸術大学卒業。在学中は演劇に没頭。そこから空間や地域での表現に興味を持つようになった。
 同大学院修了後、青年海外協力隊として、2年間パプアニューギニア国立芸術学校の講師を務めた。
 帰国後、都市計画のコンサルタント会社勤務を経て、藤浩志企画制作室を設立。以後、地域素材を利用した活動を展開。子どもたちがいらないおもちゃを持ち寄って遊ぶ「かえっこ」は全国に拡がり、青森市ではねぶたの廃材を使って「龍」を制作するなど、30年近く全国100を越える地域でアートプロジェクトに携わってきた。
 十和田市にも、まだ現代美術館構想が出る前の平成5年(一九九三)に、調査のために来十している。
 美術家としても、国際展などに出品している。

北海道、東北各地、首都圏おろか、四国、九州からも訪れる  奥入瀬川サーモン  フィッシング 釣穫率全国ナンバー1
 
asketuri1.jpgsaketuri2.jpg 十和田市で全国に名高いのは、十和田湖・奥入瀬渓流や現代美術館、バラ焼きだけではない。
 市民もあまり知らない、その道の人にとって有名なのが、実は奥入瀬川でのサーモンフィッシング、つまり鮭釣りである。期間が11月26日~12月15日(平成25年)までと50日ぐらいしかないが、この間に北海道から東北各地、首都圏、四国、九州まで全国から毎年600~800人の鮭釣りファンが訪れる。
 日本で鮭を釣られる川は、奥入瀬川他、北海道、山形、新潟、茨城、石川などの全国10河川にも満たない。
 奥入瀬川の鮭釣りは、平成18年(二〇〇六)より始まった。そして、他県からお客が来るのに、奥入瀬川が汚れていてはみっともない、奥入瀬川をきれいにして迎えようと、翌平成19年(二〇〇七)より「クリーングリーン奥入瀬」運動が始まった。
sakeduri3.jpg 奥入瀬川で鮭釣りできるエリアは、相坂の御幸橋下流の簗から、後藤川が合流する下流までの約4㌔。おいらせ町の簗で水揚げした鮭もある程度放流しているため釣りにはずれがない。釣穫率は全国ナンバーワンである。
それが人気の秘密になっている。但し1日50人限定。釣り人の約6割が県外である。
sakeduri4.jpgsakeduri6.jpg 問い合わせは、奥入瀬川流域資源活用協議会、℡0176‐21‐3625迄。

 北里大学同窓会文化講演会
 
mayuzumimadoka.jpg 11月28日、十和田市民文化センターで、北里大学同窓会主催の文化講演会が開催された。講師は俳人の黛まどかさん。
 黛さんは「言葉の力 俳句の力」と題して講演。黛さんは北里大学の校歌『生命の北辰』を作詞したこともあって、まずその歌詞に込めた意味を説明。
 平成22年(二〇一〇)より1年間文化庁文化交流使節としてフランスに俳句の指導に行っていた黛さん。フランスの95㌫の小学校の教科書に俳句や短歌が載っている。ジョン・レノンは、俳句は僕が知っている詩の形式の中で一番美しいものだと書いている。アメリカの記者は、日本は詩の大国だ。こんな国はどこにもないと書いているなど、外国から見た日本文化について語った。
 その例として、3・11で被災したひとたちが、ガレキの中で「身一つとなりて薫風ありしかな」と詠んでいた。
 これは、思いもよらない大津波に遭い、家と半生で積み上げた形あるものをことごとく流出してしまった。茫然自失の日々から覚めたとき、かけがえのない家族がいて、今年も生まれたばかりの薫風が吹いていましたという想いを詠んだものである。日本人はこんなときでも詩を書いている。
 日本人は、人間と自然に境をもうけていない。日本の文化は引き算の文化、余白の文化であるなど、日本人の詩と文化について語り深い感銘を与えた。
「フラワーズ」「十和田奥入瀬芸術祭」など次々と新企画を生み出す 
 
hujihirosi.jpg 十和田現代美術館の開館5周年記念展第1弾4月から始まった「フラワーズ」にしても、9月から始まった第2弾「十和田奥入瀬芸術祭」にしても、首都圏からの若い人たちで溢れた。その5周年企画をプロデュースしたのが、自らも美術家であり、十和田市現代美術館副館長で、アーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 「今回の「十和田奥入瀬芸術祭」は、焼山地区の地域再生に美術館がどのように関わるかという問題が重要です。美術の中でいうと、十和田市現代美術館は発信力があり注目されていますから、美術関係者たちが次ぎは何を持ってくるんだろうかと、非常に関心をもっている。
 それと今、いろんなところでアートプロジェクトブームで、芸術祭、トリエンナーレなど、いろんな町や地域がアートを活用するようになってきているんです。
 その中で芸術祭のあり方が問われている。
 芸術祭が、子どもたちにとって、地域のひとにとって、焼山に暮らすひとにとって、遊覧船を運営する会社にとって、十和田湖周辺で暮らすひとにとって、どういう意味があるのかなど、幾つも意味を重ねる必要があります。
 ですから一つの切り口で説明するのは難しい。
 仕掛けるうえでは、一つひとつに意味や思いを込めていて、将来的にはそれらがつながってゆき、十和田市に暮らすひとたちが創造力や活動力を身につけ、創造的な活動が広がっていくことが重要だと思うんです。そして大きくは、十和田市がクリエイティブなまちとして定着してゆけばいいと思っています」
と、熱く、とうとうと語る。
 確かに、十和田市現代美術館ができてこの5年、十和田市が変わった。一つは、首都圏など多くのひとが十和田市を訪れるようになった。二つにはまだ少ないが若い芸術家たちが十和田市に移住するようになってきた。三つには十和田市がクリエイティブなまちとして見られるようになってきているなどである。
 それらを意識的に一層強く進めて行こうとしているのがアーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 藤浩志。昭和35年(一九六〇)鹿児島県出身。京都市立芸術大学卒業。在学中は演劇に没頭。そこから空間や地域での表現に興味を持つようになった。
 同大学院修了後、青年海外協力隊として、2年間パプアニューギニア国立芸術学校の講師を務めた。
 帰国後、都市計画のコンサルタント会社勤務を経て、藤浩志企画制作室を設立。以後、地域素材を利用した活動を展開。子どもたちがいらないおもちゃを持ち寄って遊ぶ「かえっこ」は全国に拡がり、青森市ではねぶたの廃材を使って「龍」を制作するなど、30年近く全国100を越える地域でアートプロジェクトに携わってきた。
 十和田市にも、まだ現代美術館構想が出る前の平成5年(一九九三)に、調査のために来十している。
 美術家としても、国際展などに出品している。
十和田バラ焼きゼミナール
 9月に十和田市で開催された北東北B‐1グランプリの熱気も冷めぬままに11月9日(土)・10日(日)に愛知県豊川市で第8回目の「B‐1グランプリ」が開催された。過去最大数のまちおこし64団体が参加し二日間で約58万1千人が来場した。
 
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 翌日バスで10時間ほど揺られながら十和田市の「まちおこし市民団体」である「バラ焼きゼミナール」15名と今回もPRやサポートをしてくれた十和田西高の生徒たちが無事、凱旋してきた。
 結果は30375gを獲得し見事シルバーグランプリを受賞した。優勝は福島県の浪江焼麺太国(なみえやきそばたいこく)が31242gを獲得しゴールドグランプリに輝いた。
 barazemi2.jpg 十和田西高を代表して挨拶した山崎 航生くん(3年)
 ほんとに疲れたけど忘れられない思い出になった。一緒に行ったメンバー、支えてくれたみなさんに感謝しています。と語ってくれた。
 1年間の頑張りをみんなで称えると共に、また一から始める決意を込めて挨拶後に「クビ切り会」という名の卒業式が行われた。
 子ども達一人一人の挨拶は、とても高校生とは思えなほど立派な言葉だった。頑張って声を出しカラカラ声の子、思い出して涙ぐむ子。今回のB‐1での経験を通して、しっかりと成長して帰ってきたと感じた。
barazemi3.jpg 大会1日目は会場の端っこで条件はあまり良くはなかったが、それでも行列規制がかかる程お客様が並んでくれた。十和田産の玉ねぎと牛バラ肉を甘辛いタレで炒めていく、ご飯に抜群の相性のご当地グルメが「十和田バラ焼き」だ。規制をかけても待ってる人が出るほど人気は高かったと実感できた。
 バラ焼きのバラと薔薇をかけてベルサイユをイメージ。来てくれたお客様には笑顔で「ボンジュール!」で出迎え、「ラビアンローズ!(薔薇色の人生を)」で見送るパフォーマンスが高評価を得た。また箸入れ袋にも工夫を加え、開くと十和田のPRが書かれていて、見てくれたお客様のほんの一部でも十和田に興味をもって来てくれれば嬉しいと語る。
 大会2日目には強風と雨で大変だったと語る畑中宏之舌校長。お客様が持ち帰りで頼むようになってくると投票(箸)につながらなくなる。こうなると票が伸びるのは汁物か串物になる。呼び声も雨と風で消されてしまう。
 二年前にも経験したというハプニングが今回の順位につながったのかもしれない。
 バラゼミ、西高生が一致団結して出来るだけ持ち帰りは止めてもらい、食べていただけるように声を掛け続けた。結果、二日間で約1万1千食を提供しながらも「おもてなし+おもしろさ」を実践し、十和田の魅力をアピールしてきたことは素晴らしい事だと感じた。
 畑中舌校長は来年も優勝を目標に頑張ることは当たり前。大切なのはこの活動を通して十和田の活性化にもつながるように今日からの363日を過ごしていきたいと熱く語った。


十和田市倫理法人会経営者ナイトセミナー

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 「企業に倫理を、職場に心を、家庭に愛を」をスローガンに、経営者が自己を高めるために学ぶ十和田市倫理法人会(白石鉄右ェ門会長)。そのナイトセミナーが9月19日、富士屋グランドホールで行なわれた。
 講師は、クラフトグループの会長で、命をつなぐ木魂の会会長の又川俊三さん。
 又川さんは、「心の経営」と題して約70名の参加者を前に、営業は売込ではない。表敬訪問である。まず人間関係をつくることが大事である。そういう意味では1年目は種まきである。
 事業は教育がすべての業務に優先する。経営は技と心である。人間は一生のうちに出会うべき人には必ず出会える。そして出会いが人生を変えるとして、鍵山秀三郎や稲盛和夫氏らとの出会いなど、経営や人生について感動的に語った。
 また又川さんは、ヴァイオリンの修復家である中澤宗幸さんが、3・11の東日本大震災の被災者のために何かできないかと、震災で流された流木でヴァイオリンを2丁製作。それを亡くなられた方への鎮魂と、震災を風化させないためにも、千人のヴァイオリニストに演奏してもらい、それをつなぐヴァイオリン・プロジェクト「千の音色でつなぐ絆」運動を始めた。
 その運動の中心となるのが「命をつなぐ木魂の会」であり、又川さんはその会長である。ぜひこの十和田でも音楽会をやってほしいと結んだ。

十和田市出身「みんなの寺」の天野和公さん
『ミャンマーで尼になりました』出版
16コマ漫画で綴るミャンマーでの修業の日々
  
amanowakou1.jpg 子どものころからお墓を見たり、お坊さんのお経を聞くのが好きだったという天野和公さん。東北大学を卒業後、人の死に関わる仕事がしたいと仙台の葬儀会社に就職した。
 そこで知り合った若いお坊さんから、「坊守(寺嫁‐つまり奥さん)になってくれませんか」といわれ、二つ返事で「いいですよ」と結婚。
 そして二人で、檀家ゼロから「みんなの寺」というお寺を開山。三本木高校ではマン研に入っていたという和公さん。ホームページにマンガで「みんなの寺絵日記」を掲載。それが評判を呼び平成20年(二〇〇八)に『みんなの寺絵日記‐夫婦でお寺をはじめたよ‐の巻』(サンガ刊)を出版。以後、平成23年(二〇一一)に『みんなの寺のつくり方‐檀家ゼロからでもお寺ができた!』(雷鳥社刊)、平成24年(二〇一二)『ブッダの娘たちへ‐幸せを呼びさます「気づきの」の仏教』(春秋社刊)を出版してきた。和公さんにとって今回の『ミャンマーで尼になりました』は4冊目の本である。
amanowakou.jpg この本は、「プロローグ」で自身の「余は如何にして仏道を志すに至りし乎」で、和公さんが何故お墓を見、お経を聞くのが好きになったでは、祖母が信仰深いひとであった。5歳ぐらいのとき地獄の絵本を見た。それ以来死というものを意識するようになったという。
以下、「そうだ、ミャンマーへ行こう!」、「生涯の師、現る」、「七転八倒の瞑想修業」、「すぐわかる駆け足ブッダ伝&なるほど仏事ばなし」と続く。
 漫画であるから読みやすく、一般にはわからないお坊さんの修業の場面もあって面白い。ぜひ一読を。
 『ミャンマーで尼になりました』(イースト・プレス刊)定価1000円+税。

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