夢追人ニュース

sizenenerugi-2.jpg 3・11東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故のあと、国民の自然エネルギーに対する関心が高まっている。
 NPO法人どんぐりの森・山楽校(川村清市塾長)では、12月12日、十和田市民文化センターで、将来を担う子供や孫たちに自慢できる郷土の環境を...のテーマに、自然エネルギー市民フォーラム(青い森地域創造基金補助事業)を開催した。
 フォーラムは、どんぐりの森・山楽校の川村清市塾長をコーディネーターに、日本環境学会前会長の和田武さんが基調講演した他、中型風力発電機を製作している駒井ハルテック㈱の豊田玲子さん、東北再生可能エネルギー利活用大賞を受賞した岩手県一関市の照井土地改良区の阿部洋一さん、稲生川に小規模の水力発電所建設している青森県上北地域県民局の吉岡裕芳さんらが、現在の取組み状況を報告した。
 講演あとのディスカッションでは、会場からの質問に、各先生方が答える形で行なわれた。
 
sizenenerugi-1.jpg まず最初に、「再生可能エネルギー普及による地域活性化~市民・地域共同発電所づくりで農村地域を元気に!~」のテーマで基調講演をした和田武さんは、地球温暖化は深刻な状況になってきている。二〇〇七年に締結された、二〇〇八~二〇一二年までの温室効果ガス排出量を決めた京都議定書では日本は-6㌫、ドイツ及びデンマークは-21㌫であった。これを二〇一〇年の段階での実績で見ると日本はわずか-1㌫、ドイツは-21・7㌫、オランダは-18・7㌫の実績をあげている。
 また日本は、3・11の東日本大震災による福島第一原発の事故により原発の危険性が誰の目にも明らかになってきたにも関わらず、原発は産業発展に欠かせない。原発はCOを排出しない環境にやさしいエネルギーであるとして原発推進策をとってきた。
 しかし原発を推進策を出しているのは日本だけで、世界は今再生可能エネルギー(風力・太陽光・バイオマスなど)を推進しているとして、ドイツやデンマークでの取り組みを紹介した。
 ドイツは、原発の段階的廃止を打ち出し、デンマークは原発不所持である。
 ドイツやデンマークで再生可能エネルギー普及が飛躍的に進んでいる理由として、第一に電力買取制度、熱・燃料利用推進制度、環境税など積極的な普及推進政策をとっている。
 第二に地域に利益が還元されるなど市民・地域主体中心の普及方法をとっている。
 第三に、それによってCO削減、雇用の創出、エネルギーの自給率向上など再生可能エネルギーの普及促進は社会に好影響を与えている。
 また、再生可能エネルギーは、少量ずつ分散的であるが枯渇することなく無限である。特に農山村地域に多い。これに対して石炭、石油などの化石資源、ウランなどは有限でありいずれは枯渇する。
 デンマークでは、二〇二〇年までに消費電力の50㌫を風力で供給。二〇三〇年までに発電所での石炭利用を禁止。石油ボイラーを全廃。二〇三五年までに電力・暖房用はすべて再生可能エネルギーにする。二〇五〇年までに再生可能エネルギーに完全移行するという計画を立てているなど、自然エネルギーの先進地を紹介し参加者に深い感銘を与えた。
 なぜドイツ、オランダなどヨーロッパで出来て日本では出来ないのであろうか。
 日本では東京電力や東北電力など大資本が電気をつくり供給する制度をとっている。
 それに対してヨーロッパは、小規模ではあるが地域住民や民間団体、地方自治体などが電気を作っている。
 日本でも、最近太陽光発電が目だってきたが、日本の総エネルギーを賄えるだけの資源量は充分あるという。自然エネルギーを推進するかどうかは、国の政策が重要になってくる。地球温暖化と、原発の危険性を考えたとき、非常に考えさせられた和田さんの基調講演であった。
 
sizenenerugi-3.jpg 続いて、「中型風力発電によるコミュニティ風車の可能性」と題して、駒井ハルテック㈱の豊田玲子さんが報告した。
 豊田さんは、現在は大型化が顕著であるが、日本の風車資源は山の上が多いために、大型機が入りにくい場所も多い。日本の気象・地形条件に沿った中型の風車を開発した。風力発電適地は、年間平均風速が毎秒5・5~6以上なければならないなど、風力発電の条件などを報告した。
 
 続いて、「疎水百選の農業用水を利用した水力発電」と題して、東北再生可能エネルギー利活用大賞~東北経済産業局長表彰~を受賞した、照井土地改良区の千葉満さんが報告した。
 照井堰は、今から850年ほど前の平安の末期、当時、干魃や飢饉で苦しみ悩まされ続けた村々の窮地を救うために、奥州藤原秀衡の家臣照井太郎高春が、磐井川から取水して用水路を造った。それによって現在の岩手県一関市・平泉町一帯が美田に変えられた。その工事をした照井高春の姓を取って照井堰用水と命名された。
 照井発電所は、その照井堰に造られた小型の水力発電所で最大50kW、常時30kWを発電。一般家庭での約15軒分の発電をしている。その取組みと管理状況が報告された。
 
 そして最後は、現在進められている稲生川の水力発電所である。
 この稲生川水力発電所は、県の事業であるために「稲生川を活用した小水力発電施設の整備について」と題して、青森県上北地域県民局の吉岡裕芳さんが報告した。
 稲生川が2本あるのをご存知であろうか。1本は新渡戸傳が開削した稲生川。これは奥入瀬川の旧十和田湖町の中里から取水してる。もう1本は国営事業で開削した稲生川である。これは同じく両泉寺から取水しているが現在は法量発電所から出た水をそのまま稲生川に流している。
 その2本の稲生川が、国道102号線十和田市農協八郷給油所裏の佐井幅で、国営で開削した稲生川が新渡戸傳が開削した稲生川に落とす形で合流している。
 稲生川水力発電所は、2本の稲生川の落差を利用して造られる。平成26年の完成予定だが、その発電量は最大182kWと、照井発電所の4倍近くあることが報告された。
 以上、基調講演を含めて4人が発言。ディスカッションは会場から質問を受けて4人の先生がそれに答えるという形で行なったが、午後6時から始まり午後9時までの3時間、時間が過ぎても次々と質問がでるなど、自然エネルギーに対する関心の高さを伺わせたエネルギーフォーラムであった。

 東北町(旧上北町)出身の大塚甲山
 
ootukakouzan.jpg 明治期に活躍し、わずか31歳で夭折した大塚甲山。この間約1000編の詩、約1万句の俳句、約2400首の短歌を残している。
 その大塚甲山のゆかりの地をめぐる「甲山墓参の会」(白浜浩一会長)がこの夏に行なわれた。
ootukakouzan2.jpg 大塚甲山は、明治13年(一八八〇)に上北郡上野村(現東北町)で生まれている。
 その甲山が、21歳の若さで『俳句選第一篇』の選句を任されるなど明治30年代に活躍。詩では明治37年(一九〇四)に、日露戦争に対する反戦詩『今はの写しゑ』などを発表。以後1年間に145編の詩が『新小説』に掲載された。また、明治40年(一九〇七)には、短歌『燃ゆる火の胸の琴』250首を発表。その作品は坪内逍遥や森鴎外などからも認められた郷土の詩人である。
 一行は、大塚甲山の墓や生家、甲山が通っていた旧上野小学校跡、小川原湖畔にある記念碑などを訪れ、大塚甲山を偲んでいた。

今年のテーマは「満州事変と平和の思想」
 
9jouheiwabunkasai.jpg 今、絶対安定多数となった安倍政権は、戦時下の言論統制を連想させる「特定秘密保護法」を可決。さらには現代の治安維持法とも言われる「共謀罪」を画策するなど、憂慮すべき方向に進んでいる。
 「秘密保護法」が施行されると、会議や取材や調査研究活動を企画する日常的な活動でも「特定秘密の故意による漏えい」や「取得行為」を「共謀」したとして検挙や処罰の危険にさらされると、弁護士団体の一つである自由法曹団は指摘している。
 また「共謀罪」は、原発反対運動など、市民団体の各種抗議行動の立案などが組織的な威力業務妨害の共謀とされる。あるいは居酒屋でそりの合わない上司を叩きのめしてやりたいなどと冗談を言って憂さを晴らせば組織的な傷害の共謀とされる可能性があるという。
 
9jouheiwabunkasai1.jpg 戦後68年、戦前の日本を知っている人が少なくなってきている中で、平和という立場から戦前の日本を当時の資料等によって伝えてきたのが、「九条・平和文化祭」(九条を守る上十三の会主催=白浜浩一会長)である。
 第9回目を迎えた今年のテーマは「満州事変と平和の思想」であった。
 満州事変は、昭和6年(一九三一)、当時の関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。それを口実に、日本は満州を占領。以後日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進む。
 
9jouheiwabunkasai2.jpg 「満州事変は総力戦体制の始まり」と題したコーナーでは、昭和3年(一九三三)に小林多喜二が警察により虐殺された事件。昭和4年(一九二九)に無産党の山本宣冶が国会でただ一人治安維持法改悪に反対し刺殺された事件。昭和7年(一九三二)に武装した海軍の青年将校たちが、総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した事件など、戦争へ突き進むため反対勢力を次々と抹殺した事件を報じた当時の新聞。満州を「王道楽土」と宣伝した満州事変から満州帝国誕生までのポスターなどが紹介されていた。
 安倍首相が「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」として、A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝したが、非常に考えさせられる「九条・平和文化祭」であった。

青森県を掘り起こす芸術家 岩木登さん

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 十和田湖へ向かう途中、焼山の奥入瀬温泉郷に上がる道の反対側にある細い橋を渡り右へ曲がる。少し道なりに走ると森の中に小さな看板が見える。その奥に岩木登さんの写真スタジオがある。
 スタジオといっても大きく立派な建物ではなく全て手作りの小さな小屋だった。中へ入ると写真が飾ってあり自然の中で自然の景色の写真を見ると、まるで森の中にいるような錯覚を感じた。
 紹介が少し遅れたが岩木登さんは青森県出身の写真家で三本木高校卒業後、大学に行き東京で40年、コマーシャルフォトグラファーとして活動している。東京にもスタジオを持ち、仕事も順調だった岩木さんが故郷である青森に戻ってきたきっかけは、東日本大震災だった。
 震災の現状を写真として残す活動など、東北を元気にしたい仲間たちが集まり活動。その写真は今年3月に現代美術館に展示されていた。
 また写真家として青森には特別な景色があることを知らない人に伝えるために拠点を置いた。キヤノンと製作したカレンダーは全国で24万部も売れた。
 スタジオとなった小さな小屋は何もないところから建築の知識もない人が建てたとは思えない物だった。
 青森に移住してきたのは震災から1年後の2012年3月11日。それから知り合った仲間が岩木さんの行動に集まり、資材や知識や労力を一緒に建てたいと協力してくれた。壁や土台、鉄骨や木材など重機は一切使わずに手作りで建て、あまりに立派なものが出来たので写真の展示小屋として使おうとスタジオが完成した。一人の力では限界があるが一人の行動に人が集まり人と人との活動が力になることを今までの経験が教えてくれた。岩木さんの写真家としての技術や人柄にたくさんの協力者がいることも納得できた。
 青森は開発が遅れていると言えば聞こえは悪いが自然を大切にしている県だとも思う。滝なり、森なり、水なり綺麗な景色はたくさんある。それを地元の人が知らないのは残念だが自分がそれを掘り出して青森の良さを伝えたいと語った。
 たしかに豪華な建物や光で彩る夜景も視覚としては綺麗に見えるのだろうが何回見ても同じだろう。
 四季で変わる自然の景色はその一瞬が全てで気候や太陽の機嫌、水しぶきや葉の揺れなどは同じものはないのだろう。
 写真は歩いて探す。撮りたい場所に行って撮るのではなく撮りたい景色を自分の足で探して撮るんだと教えてくれた。
 また八甲田の鬼門峡に始めて足を踏み入れ写真を撮るなど活動している。
 青森にある素晴らしい景色を知りたい方は是非、足を運んで行ってみてはどうだろうか。山小屋フォトギャラリーは来春より本格的にオープンする。
 岩木さんへの問い合わせは、℡090‐3317‐7918迄。

  若いときはヒッピーとなり世界23ヵ国を放浪
 
hatanakahiroyuki.jpg ご当地グルメでまちおこしの祭典、第8回B‐1グランプリ豊川大会でシルバーグランプリを受賞した十和田バラ焼きゼミナール(以下バラゼミ)。そのバラゼミの中心となってシルバーグランプリに導いたのが舌校長の畑中宏之さんである。
 「B‐1グランプリには、第5回の平成22年(二〇一〇)の厚木大会から出展しているんですが、このとき第8位の入賞でした。
 厚木大会は、初出展だったんで無我夢中だったんですが、第6回大会からは目標を立てたんです。それは、バラゼミのそもそもの目的は食によるまち興しですから、十和田をどうPRするかということです。
 以降、姫路での第6回大会では第8位。北九州での第7回大会では第10位でした。
 実は、優勝すると次回からはオブザーバー参加しか出来ない。この3大会でバラ焼きゼミナールが全国に大分知られるようになって来た。
 そこで今年は優勝を目指そうと、十和田西高校の生徒25名、メンバー25名の50名体制で挑みました」と語る。
 結果、優勝できなかったものの見事第2位に輝き十和田の名を全国に売った。と同時に、優勝に向けての再挑戦の道を残した。
 十和田バラ焼きゼミナールのそもそものきっかけは、平成22年(二〇一〇)の東北新幹線全線開通を控えて、平成18年(二〇〇六)に食でまちづくりをしようと、市の主導で、商工会議所青年部や観光協会、JA、コンサルタントなどをメンバーに調査検討会議が発足した。畑中さんはこの検討会議に商工会議所青年部専務として参加した。
 そこではご当地バーガーや三本木ラーメンなどの様々な意見が出された。が、コンサルタントから、新しいものを作っては成功しない。むかしから食べられているものを探した方がいい。行政主導では3年も持たない。民間でやるべきだなどのアドバイスがあり、その中で目をつけたのが「バラ焼き」であった。
 こうして、平成20年(二〇〇八)12月に有志が出資金を出し合い「十和田バラ焼きゼミナール」が結成された。
 バラ焼きゼミナールでは、スピード感があり、行政に対してノーといえて、自由度のある組織にして行こう。そのためには基本的には補助金に頼らず、税金を納められる活動をして行こうなど活動規範を決めた。こうして平成22年に厚木大会に初出展した。
 バラゼミのすごいことは、この活動に小学生や高校生を巻き込んだことである。それらが高く評価され、テレビや新聞、雑誌などで紹介された他、外務省の在外公館などが行なう広報活動の宣伝資料として、約100ヵ国、200局近いテレビ局に提供され、十和田バラ焼きゼミナールの活動が世界に紹介されることになった。
 また、経済産業省がタイ・バンコクで開催したクールジャパン事業日本食文化の祭典「ジャパン・フード・カルチャー・フェスティバル」にも出展した。
 十和田を全国に売る活動が、そのエネルギッシュな活動によって、全世界に十和田を売ることになった。
 その他、バラゼミの後方支援組織として企業組合ラビアンローズを設立。バラ焼きに関する商品開発などを行なっている。
 畑中宏之。昭和38年(一九六三)8月、十和田市に生まれる。三本木高校卒業後、沖縄大学に入学した。が、ここでヒッピーと知り合い、その話を聞くうちに世界に興味を持ち、それから10年近くかけてインド、中近東、アフリカなど世界23ヵ国を廻った。可愛い子に旅をさせよの諺ごとく、旅で世界を広く見たことが、畑中さんのバラゼミの活動を支えている。
 そして28歳で帰郷。青年会議所、商工会議所青年部を経て、バラ焼きゼミナールへと活動を移した。
 畑中さんは今働き盛りの50歳。このまちをどうして行くか。まだまだこれからを期待したい。
第8回B‐1グランプリで「十和田バラ焼きゼミナール」を銀賞に導いた  
hukumuratakayosi.jpg 本紙4月号(325号)で紹介した福村孝善さんがこのほど、平成25年度の青森県卓越技能者に選ばれた。
 今や東京の観光名所の一つともなっている復原した赤レンガ造りの旧東京駅舎。駅舎の南北には駅舎の象徴でもある八角形のドームがある。
 東京駅舎は、大正3年(一九一四)に建設されたが、昭和20年(一九四五)の空襲で屋根と円形ドームが焼失。それを戦後、3階建てであったものを2階建てにして復旧していた。
 その駅舎が平成15年(二〇〇三)に国の重要文化財に指定された。それを機に建設当時の完全な復原の機運が高まり、旧東京駅舎が復原されることになった。しかもそれは「復元」ではなく「復原」である。つまり、材料から工法に至るまで当時をそのまま忠実に復元するというのである。その中でも技術的に難しいのが八角ドームであった。当時の設計図は戦災で焼失。残っているのは写真だけである。それを銅板職人の一人として見事に復原した。その全国トップクラスの技術の高さが、平成25年度の青森県卓越技能者として評価された。
 福村孝善さん。昭和25年(一九五〇)7月、十和田市に生まれる。三沢商業高校卒業。卒業と同時に家業である建築板金業である父に弟子入りした。30歳のこと、銅板加工では日本一の小野工業で修業。以来、神社や仏閣、千葉県佐倉市にある川村美術館や、明治大学礼拝堂など名のある建物の建築にも携ってきた。
 しかし、福村さんは現在63歳。一緒に行った銅板職人の沢下美則さんは72歳、姥神朝次郎さんは58歳である。今は銅板葺きの建物が少なく、仕事の減少と共に後継者が育たないのが寂しい。
 
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国際ソロプチミスト十和田認証25周年記念  益金10万円づつを十和田市及び七戸町に贈る
 
koyanaghorumiko.jpg 女性事業者の国際的なボランティア団体である国際ソロプチミスト十和田(稲本佐矩子会長)の認証25周年記念チャリティディナーショーが、歌手の小柳ルミ子を迎えて、11月15日、富士屋グランドホールで行なわれた。
 これには、会場いっぱいの400人を越えるひとたちが参加。ディナーと小柳ルミ子の歌を楽しんだ。
 ショーに先立って稲本会長から、十和田市に図書購入費として20万円及び、七戸町に文化振興に使って下さいと10万円寄付した。
 国際ソロプチミスト十和田は、認証以来ディナーショーでの益金で、高校生への奨学金や、中央病院への訪問診療者などを贈っている。

「フラワーズ」「十和田奥入瀬芸術祭」など次々と新企画を生み出す

アーティステック・ディレクター

hujihirosi.jpg 十和田現代美術館の開館5周年記念展第1弾4月から始まった「フラワーズ」にしても、9月から始まった第2弾「十和田奥入瀬芸術祭」にしても、首都圏からの若い人たちで溢れた。その5周年企画をプロデュースしたのが、自らも美術家であり、十和田市現代美術館副館長で、アーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 「今回の「十和田奥入瀬芸術祭」は、焼山地区の地域再生に美術館がどのように関わるかという問題が重要です。美術の中でいうと、十和田市現代美術館は発信力があり注目されていますから、美術関係者たちが次ぎは何を持ってくるんだろうかと、非常に関心をもっている。
 それと今、いろんなところでアートプロジェクトブームで、芸術祭、トリエンナーレなど、いろんな町や地域がアートを活用するようになってきているんです。
 その中で芸術祭のあり方が問われている。
 芸術祭が、子どもたちにとって、地域のひとにとって、焼山に暮らすひとにとって、遊覧船を運営する会社にとって、十和田湖周辺で暮らすひとにとって、どういう意味があるのかなど、幾つも意味を重ねる必要があります。
 ですから一つの切り口で説明するのは難しい。
 仕掛けるうえでは、一つひとつに意味や思いを込めていて、将来的にはそれらがつながってゆき、十和田市に暮らすひとたちが創造力や活動力を身につけ、創造的な活動が広がっていくことが重要だと思うんです。そして大きくは、十和田市がクリエイティブなまちとして定着してゆけばいいと思っています」
と、熱く、とうとうと語る。
 確かに、十和田市現代美術館ができてこの5年、十和田市が変わった。一つは、首都圏など多くのひとが十和田市を訪れるようになった。二つにはまだ少ないが若い芸術家たちが十和田市に移住するようになってきた。三つには十和田市がクリエイティブなまちとして見られるようになってきているなどである。
 それらを意識的に一層強く進めて行こうとしているのがアーティスティック・ディレクターの藤浩志さんである。
 藤浩志。昭和35年(一九六〇)鹿児島県出身。京都市立芸術大学卒業。在学中は演劇に没頭。そこから空間や地域での表現に興味を持つようになった。
 同大学院修了後、青年海外協力隊として、2年間パプアニューギニア国立芸術学校の講師を務めた。
 帰国後、都市計画のコンサルタント会社勤務を経て、藤浩志企画制作室を設立。以後、地域素材を利用した活動を展開。子どもたちがいらないおもちゃを持ち寄って遊ぶ「かえっこ」は全国に拡がり、青森市ではねぶたの廃材を使って「龍」を制作するなど、30年近く全国100を越える地域でアートプロジェクトに携わってきた。
 十和田市にも、まだ現代美術館構想が出る前の平成5年(一九九三)に、調査のために来十している。
 美術家としても、国際展などに出品している。

北海道、東北各地、首都圏おろか、四国、九州からも訪れる  奥入瀬川サーモン  フィッシング 釣穫率全国ナンバー1
 
asketuri1.jpgsaketuri2.jpg 十和田市で全国に名高いのは、十和田湖・奥入瀬渓流や現代美術館、バラ焼きだけではない。
 市民もあまり知らない、その道の人にとって有名なのが、実は奥入瀬川でのサーモンフィッシング、つまり鮭釣りである。期間が11月26日~12月15日(平成25年)までと50日ぐらいしかないが、この間に北海道から東北各地、首都圏、四国、九州まで全国から毎年600~800人の鮭釣りファンが訪れる。
 日本で鮭を釣られる川は、奥入瀬川他、北海道、山形、新潟、茨城、石川などの全国10河川にも満たない。
 奥入瀬川の鮭釣りは、平成18年(二〇〇六)より始まった。そして、他県からお客が来るのに、奥入瀬川が汚れていてはみっともない、奥入瀬川をきれいにして迎えようと、翌平成19年(二〇〇七)より「クリーングリーン奥入瀬」運動が始まった。
sakeduri3.jpg 奥入瀬川で鮭釣りできるエリアは、相坂の御幸橋下流の簗から、後藤川が合流する下流までの約4㌔。おいらせ町の簗で水揚げした鮭もある程度放流しているため釣りにはずれがない。釣穫率は全国ナンバーワンである。
それが人気の秘密になっている。但し1日50人限定。釣り人の約6割が県外である。
sakeduri4.jpgsakeduri6.jpg 問い合わせは、奥入瀬川流域資源活用協議会、℡0176‐21‐3625迄。

 北里大学同窓会文化講演会
 
mayuzumimadoka.jpg 11月28日、十和田市民文化センターで、北里大学同窓会主催の文化講演会が開催された。講師は俳人の黛まどかさん。
 黛さんは「言葉の力 俳句の力」と題して講演。黛さんは北里大学の校歌『生命の北辰』を作詞したこともあって、まずその歌詞に込めた意味を説明。
 平成22年(二〇一〇)より1年間文化庁文化交流使節としてフランスに俳句の指導に行っていた黛さん。フランスの95㌫の小学校の教科書に俳句や短歌が載っている。ジョン・レノンは、俳句は僕が知っている詩の形式の中で一番美しいものだと書いている。アメリカの記者は、日本は詩の大国だ。こんな国はどこにもないと書いているなど、外国から見た日本文化について語った。
 その例として、3・11で被災したひとたちが、ガレキの中で「身一つとなりて薫風ありしかな」と詠んでいた。
 これは、思いもよらない大津波に遭い、家と半生で積み上げた形あるものをことごとく流出してしまった。茫然自失の日々から覚めたとき、かけがえのない家族がいて、今年も生まれたばかりの薫風が吹いていましたという想いを詠んだものである。日本人はこんなときでも詩を書いている。
 日本人は、人間と自然に境をもうけていない。日本の文化は引き算の文化、余白の文化であるなど、日本人の詩と文化について語り深い感銘を与えた。
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