編集長のたわごと

突然ですが...

[編集長のたわごと]
 突然ですが、十和田湖の復興に携わることになりました。ことの経緯はこうだ。私は6年前に『十和田湖はむかし信仰の湖だった古道を歩く』を出版した。明治36年(一九〇三)に奥入瀬渓流の道が開通されるまで人々は十和田湖のおさご場に吉兆を占うために非常に険しい山道をのぼって行った。しかしその古道は、私を案内してくれた東正士さんは88歳でもう歩けない。古道を知っているのは私しかいない。私も73歳、私が歩けなくなれば古道は永遠に失われてしまう。そう思った私は昨年7月「元気なうちに伝えておきたい十和田湖への古道」探索を行った。マイクロバス1台25人の定員に対して自分で車を出しますからといって30人参加した。以後3回延べ74人が参加。このまま別れるのは忍びないと12月に参加者に呼びかけ望年会を行った。それに十和田湖から7名が参加した。十和田湖から下山し街に飲みに来る。これは初めてのことであった。今年1月、十和田湖で行われた「ふるさと魅力再発見!座談会」の席上私はつい、十和田湖の現状を何とか打開したいと「十和田湖の未来を考える会」をつくりますと宣言してしまった。そして1月20日に第1回設立準備会を行い、3月21、わずか2ヵ月でNPO法人を設立した。幸いに息子がBUNKA新聞社を継いでくれた。73歳の私の新しい観光事業の起業である。小笠原カオルまだまだこれっからである。

 十和田市のエコパーク構想の話しが、国立公園に隣接した場所に大規模養豚場建設の話しが出たとたんに、いつのまにか聞こえなくなってしまったと思っていたら、突然に焼山地区活性化事業計画がでてきた。この焼山活性化計画は、総事業費が24億1000万円、その中心となるのが十和田市現代美術館の焼山分館で、建物の工事費が10億4000万円、アート作品購入費が6億7000万円、併せて17億1000万円である。
 十和田市現代美術館が注目されたのはアート作品そのものではなく、官庁街通りに解放されたこれまでの美術館の常識を破った全面ガラス張りの建物であった。焼山に果たして二匹目のどじょうがいるであろうか。
 そこへ突然に降って湧いたように出てきたのが新渡戸記念館の休館である。築50年以上経っているので耐震基準が著しく劣っていることがわかった。が、十和田市の原点である新渡戸記念館を3年も4年も放っておくことはできない。
 今十和田市には、この新渡戸記念館の他、中央の雑誌に「破壊寸前の十和田観光」と書かれるほどまで落ち込んだ十和田湖の問題がある。焼山を一度白紙に戻して、新渡戸記念館及び十和田湖、そしてエコパークをどうするのか。その上で焼山の活性化を位置付けなければ市民は納得しまい。

 昭和20年(一九四五)戦争が終わり70年経った。この戦争で日本人は、広島、長崎に原爆が投下された他、軍人、一般市民含め約310万人が死んだ。何代か続いた古い家に行くと仏壇に軍服姿のセピア色の若者の遺影のある家が多い。これは70年前の戦争で亡くなった人たちである。日本の侵略によって中国は約1000万人、日本統治時代の朝鮮は約400万人など多数の命が奪われた。
 その反省から、日本は再び戦争をしませんと不戦の誓いをたて日本国憲法を制定した。そのお蔭でアメリカなど他の先進国は戦争をしている中で、日本は戦後70年間戦争で他国民を一人も殺さなかったし、また殺されてもいない。
 ところが安倍晋三が出てきて「戦後レジームからの脱却」といい出した。「レジーム」という言葉は一般的に使われる言葉でないのでわからない。調べてみると、「政治体制」の意味らしい。つまり安倍さんいいたいことは、日本は戦後70年間戦争をしませんといってきたがこれからは戦争をする国にします。そのために憲法も改正しますというのである。が、そういうとあまりにも露骨だから「レジーム」なんてわけのわからない言葉で国民を騙しているのである。
 実のところその第一歩がもう始まっている。それがイスラム国による湯川さんと後藤さんの殺害である。

2015年初夢

[編集長のたわごと]
十和田湖への古道を復活します。
 十和田湖はかつて十和田湖は信仰の湖であった。元禄6年(一六九三)、今から322年前、五戸代官木村又助秀晴が南部公の命令により、十和田湖参詣の新道を開削した。明治36年(一九〇三)奥入瀬渓流の道が開削されるまで、人々はその険しい山道を1日がかりで歩き十和田湖のおさご場に参詣に行った。
 十和田湖国立公園指定80周年を前に、もう一度十和田湖の原点に戻ろう。それが十和田湖への古道の復活である。

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  写真は、元禄6年(1693)、今から320年ほど前に五戸代官木村又助秀晴が南部公の命令により開削した十和田湖新道の工事碑(子ノ口三叉路の角)

 「石華表 石燈籠を立たり...真西を見るニ雲霧散じける間に青波満々として、四面の翠鬟を浸し、向方迄も目も及ばざれども其風景中々湖水とは思われず。実に松前(北海道)たる箱舘山(函館)より南部(函館)湾を眺めるごとく、又別に一世界に登臨せしかとも思わる」
 松前を北海道と命名した江戸末期の探検家・地理学者松浦武四郎が弘化2年(一八四五、今から166年前に北海道からの帰り十和田湖へ寄ったときの紀行文『鹿角日誌』の一節である。

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 松浦た武四郎がこの紀行文を書いた場所が、銚子大滝の上の遥拝所である。県南から十和田湖へ行く道は五戸の大学沢から森ノ越、月日山、惣辺を通り銚子大滝の上にに下りる道と、旧十和田湖町から現在のどんぐりの森・山楽校のあるところから山に上り、やはり惣辺に出て銚子大滝の上に下りる道とがあった。
 銚子大滝の上に下りる五十曲(ごじゅうまがり)があまりにも険しかったことと、むかしは十和田湖は女性禁制の山でたったために女性は十和田湖の見えるこの場所で十和田湖を拝んで帰った。それが遥拝所である。
 写真は、遥拝所で記念写真を撮る十和田湖の未来を考える会主催の「十和田湖の信仰と伝説の道を歩く」会に参加したひとたち。

 五戸大学沢の「追分の石」

 五戸大学沢の旧奥州街道の二股の角に追分の石がある。追分の石とはむかしの道路標識である。
 これには、「右七戸 左十和田」と彫られている。つまり右七戸は旧奥州街道、現国道4号線である。左十和田は、十和田湖に行く道である。むかしは十和田湖へ行く道は、旧奥州街道と並べられて表記されるほど重要な道であった。
 十和田湖への道は、ここから杉ノ木、平山、柏木、笊畑、森ノ越を通り、月日山から惣辺に抜け、十和田湖に行った。
 この十和田湖へ行く道は八戸からの参詣者が多く通った。八戸からの参詣者は、八戸を出立し柏木、笊畑、森ノ越の三ヵ村のいずれかに一泊。翌朝早く十和田湖へ出立する片道一泊二日の参詣であった。

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 写真は、五戸大学沢の追分の石。これには「右七戸、左十和田」と彫られている。残念ながら五戸町の教育委員会はこの重要な標識に関心が無いようで、ご覧のように倒れたままになっている。

 「扨別当と申せば山伏か坊主にても有かと存じ候ところ左無、常の百姓等の風俗にして何異なる事無。家の傍らニ新ニ小堂を建て、是に幟等建、又幣等を上え宮様もこしらへニ致し、是ニ十和田山と額を懸けりける...扨やゝ暫く有りて門口より旅人五人程、十和田参詣の者とて尋ね来りけるニより見るに、封内花巻のものなりとて同宿しけるニ...」
 これは、松浦武四郎が十和田湖に行ったときの紀行文『鹿角日誌』の一節である。
 ここで松浦武四郎は、十和田湖への参詣者が花巻から来たと書いている。これでわかるように江戸時代も相当遠くから十和田湖への参詣者が訪れていたことがわかる。何よりも松浦武四郎が江戸幕府の命令で北海道を調査に行ったその帰りに、わざわざ十和田湖を訪れているのだから、十和田湖は江戸にも知られた霊場であったということであろう。
 松浦武四郎は北海道からの帰り、下北から野辺地、七戸、羽立、板ノ沢、そして中掫で奥入瀬川を渡り、旧十和田湖町役場前を通り、奥瀬の十和田神社で一泊した。この奥瀬の十和田神社は織田別当で、夏は十和田湖に行き、冬はここに帰っていた。そしてこの織田別当の家は十和田湖へ行く最後の宿泊所でもあった。参詣者たちは朝早く織田別当の家を出発し、険しい山道を歩き、夕方にようやく休屋に着いた。
 むかしのひとはどんな苦労して十和田湖に行ったのか。そこには十和田湖への想いがあり、ドラマがあった。

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「十和田湖の信仰と伝説の道を歩く」会に参加した皆さんと奥瀬十和田神社の内部

 

新年のご挨拶

[編集長のたわごと]
BUNKA新聞社 代 表 小笠原 耕介
           編集長 小笠原カオル

 新年明けましておめでとうございます。昨年12月2日に降った初雪がそのまま根雪となり、全国的にも大雪が降り地球が寒冷化しているのではないかと思われるほどの寒さが続いております。
 さて、今年度よりBUNKA新聞社の代表が小笠原カオルより小笠原耕介に移行しました。
 昭和58年(一九八三)11月、文化不毛の地といわれた十和田市に「地域の歴史・文化・人の掘り起こし」を社是に掲げ出発したBUNKA新聞社。私はそのとき41歳でした。平成25年(二〇一三)に読者、スポンサー、執筆者など多くの方々に支えられ創立30周年を迎えました。私は今年満73歳になります。私はあと10年や20年やって行く気力はあります。しかし時代はアナログからデジタルの時代、紙からネットの時代と変わりました。こうなるともう若い人には敵わないです。
 小笠原耕介は現在39歳。この世界に入るまで全く文章を書いたことがありませんでした。が、取材して書くという世界に新鮮さと感動を持っていると思います。記者にとって大事なことは感動を持ち続けることだと思っています。また、経営も若い感性が発揮されることと思います。
 私は今後とも編集長として新聞に携わって行きます。が、同時に私の新しい出発の年ともなります。
 BUNKA新聞社は今後とも20年、さらに30年と継続できればと思っております。読者の皆様、スポンサーの皆様、執筆者の皆様、これまで同様BUNKA新聞を応援し、支えて下さいますようお願い申し上げます。

 今年11月、19歳の若い母親が3歳の自分の子供に食事を与えず餓死させた。同じく24歳の母親は3歳の自分の子供を橋の上から川に落して殺すというショッキングな事件が相次いだ。厚労省の調べでは、平成25年度に全国207ヵ所にある児童相談所で、児童虐待の相談や通報を受けて対応した数は実に7万3000件だったという。日本はいつからこういう悲しい国になったのであろうか。
 昭和35年、安保反対運動で倒れた岸信介に代わって池田勇人が所得倍増政策を引っ提げて登場した。政治的にはそれがきっかけとなり経済の高度成長を遂げた。が、一方では核家族化が進み日本的家族制度が崩れた。独立した若い夫婦。父親は一生懸命に働いた。こうして夢が叶いようやく自分の家を持つことができた。そこは職場まで2時間も3時間もかかる遠い郊外。バブルが崩壊し、そのローンを払うためにまだ小さな子供を持つ母親も働きだし、子供と一緒にいる時間が少なくなった。そんな親の愛情をあまり受けない子供たちがやがて大人になり結婚して子供を産んだ。国は経済発展のためにと終身雇用制度を壊しいつでも首を切ることができる非正規雇用の派遣制度をつくった。そのために大きな企業は大儲けをした一方、労働者の賃金は下ると共に不安定化した。安倍晋三のいう経済成長とは大きな企業が儲かる制度のことだったのである。
 若い母親は働きたくても子供をあずける保育所がない。子育ての悩みを相談するにも家族制度が崩壊したために相談する相手もいない。安倍晋三はそんな母親たちのために保育所を作るとはいわない。相も変わらず、企業が儲かればそのうちに労働者も良くなるという。今日本の社会は富裕層と貧困層とに二極分化している。若い母親たちはその犠牲者なのかも知れない。

 私は平成元年(一九八九)に朝日新聞の購読ををやめた。私は朝日新聞が大好きであった。ベトナム戦争当時本多勝一のルポ「戦場の村」を夢中で読んだ。それが何故やめたのか。平成元年の「サンゴねつ造事件」である。私は報道に携わる者のあるまじき行為と抗議の意味を込めて購読をやめた。その後もいくつかのねつ造事件が発覚。その最たるものが「慰安婦」問題であろう。
 が、最近の週刊誌や雑誌の朝日新聞に対するバッシングは度を越しているように思っていた。それは朝日新聞のみならず、これを書いた記者が講師をしている大学や家族にまで及んでいるというのだ。
 これはちょっと行き過ぎだと思っていたところ、「週刊現代」の「世界が見た『安倍政権』と『朝日新聞問題』」と、法政大学総長田中優子氏の論文「事の本質は女性への暴力」を見てはっと気づかされた。
 朝日新聞のねつ造記事は一番悪い。が、「河野談話」に対する攻撃に見られるように、その朝日新聞へのバッシングは、過去の日本の戦争責任がすべてなかったような方向へ動き出しているかのようにもみえるのである。それに気付いたのは外国のジャーナリズムであり、日本の識者の一部である。
 河野談話は、慰安所は当時軍当局の要請により設営され、慰安婦の募集は軍の要請を受けた業者がこれに当たった。慰安所の生活は強制的な状況のもとで痛ましいものであった。そして多くの朝鮮女性がそれにあたった。朝日新聞がいうように、軍が直接強制的に連行しなかったものの、軍の関与のもとに行われた、そのお詫びと反省を語ったものである。
 この朝日新聞への異常なバッシングの先に見えてくるのが、安倍政権以下、維新の会、次世代の党、みんなの党など日本の政治の右傾化、一部ジャーナリズムの右傾化である。

 昭和天皇の『昭和天皇実録』が公表された。これによると、戦前軍部の専横に不快感を抱きながら、戦争に至る事態悪化を止められず、戦後も戦争責任を問われ続けたという。日本国民大よそ300万人。戦争に引き込まれた他国民2000万人以上といわれる犠牲者出した戦争であった。
 そして日本は、ポツダム宣言を受け入れ、もう二度と戦争はしませんと誓い、憲法第九条を柱に据えた平和憲法を制定した。いわばこれが安倍晋三いう戦後レジームである。
 「レジーム」とは制度、政権、あるいは政治体制のことである。安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」という。「戦後レジームって何ですかと」聞かれて、正確に答えられるひとは果たして何人いるであろうか。戦後レジームからの脱却を簡単にいうと、戦後の平和的体制から戦前の戦争ができる体制に戻すということである。
 そうはっきりというと国民に猛反発を食らうから「レジーム」などと聞いたことのないような横文字でオブラートに包み、しかも国会や当の自民党内でも十分に論議を尽くすことなく、閣議決定という形でなし崩し的に戦後の平和的体制を変えようとしている。
 昭和天皇は、軍の専横を抑えきれなかったという。実は軍の専横を抑えきれなかったのは天皇ばかりではない。当時のレジーム(政権)は、戦争に反対するものは国賊だとして共産党や民主主義者など戦争に反対する勢力をすべて監獄にぶち込んでしまった。それに一役かったのが当時のマスコミである。結果、国民も戦争を支持した。
 日本は現在、不十分さはあるものの民主主義の国である。この戦後レジームからの脱却を許すかどうか、実は私たち国民の肩にかかっているのである。

 「ウォー、すごいよコレ!塾長、来て、来て!!」私は叫んだ。7月21日夜8時頃、私とどんぐりの森・山楽校の川村塾長と、どんぐりの森・山楽校に行き車のライトを消したとき、目の中に飛び込んできたのは、おそらく数百匹はいるであろう星が瞬くごとく光り輝き乱舞するヘイケボタルの群れであった。私はヘイケボタルがこんなにたくさん群れているのを初めて見た。
 私たちどんぐりの森・山楽校では平成20年(二〇〇八)よりホタル観賞会を行い、ホタルといったらゲンジでしょうとばかりに、翌平成21年よりゲンジボタルを養殖し増やしてきた。昨年は、法奥小学校の子どもたちと一緒に約200匹のゲンジボタルの幼虫と餌であるカワニナを放流した。が、ゲンジボタルはなかなか増えなかった。その原因が今年になって判明した。それはカモであった。ゲンジボタルの幼虫と餌のカワニナがカモの格好の餌となっていたのである。
 30年ほど前までは十和田市はどこでもヘイケボタルがたくさんいた。三本木小学校の生徒がそのホタルを捕まえ研究し、学校がソニー財団から100万円もらったことがあった。それが田んぼが宅地になり、堰がコンクリートで固められさらに農薬と、今はほとんど見られなくなった。絶滅危惧種といってもいいくらいの減少である。
 どんぐりの森・山楽校でヘイケボタルが急速に増えたのは池である。昨年より田んぼに水を張り池にした。それが幼虫が水中で棲息するヘイケボタルにとっては好条件であったろう。ホタルは、ゲンジにしろヘイケにしろ環境に敏感である。最近では大人でさえもホタルを見たことがないという人が多い。来年の夏はぜひ多くの方々にヘイケボタルの乱舞を見て頂きたい。感動すると共に環境を守る大切さを知るであろう。

 2014年(平成26年)7月1日、私たちはこの日をしっかりと後世に伝えなければならない。世界に類のない平和憲法が安倍政権のわずか二十数人の大臣による閣議決定で踏みにじられた日であるからである。民間・軍人併せ世界で6000万人~8500万人、日本では262万人~312万人、そして広島と長崎に原爆を落とされ、尊い命を失った第二次世界大戦が終わり、もうこんなことは嫌だ、もう二度と戦争はしたくない、そういう思いが結集されたのが、戦争の永久放棄、戦力の不保持と交戦権の不行使をうたった憲法第九条であり、日本の平和憲法であった。
 その憲法があったおかげで、アメリカやヨーロッパの国々は戦争をし戦死者が出ている中で、戦後69年間日本だけは他国のひとを一人も殺さなかったし、また殺されることもなかった。安倍内閣はそれもずるい狡いやり方で平和憲法を変えようとしている。ありそうもない想定を幾つか挙げ、憲法そのものを変えるのではなく解釈を変えようというものである。安倍流の解釈で行ったら第九条の意味が無くなってしまう。
 安倍内閣は就任に当たって三本の矢を提示した。1本目の矢は、財政の力で日本経済に刺激を与えること。2本目は大規模な量的緩和を通じた、これまでにない金融緩和。そして3本目は、日本経済の長期的な成長促進を狙った徹底的な構造改革である。しかし実際にやったのは、1本目の矢は消費税8㌫に引き上げる一方、大企業の減税を目論んでいる。そして2本目、3本目の矢の裏に隠されているのが実は富国強兵である。その先駆けが憲法の解釈改憲である。
 とはいっても安倍内閣は強くはない。世論の反発が強いとみるや関連法案を先送りにしている。反対運動を強めることによって、閣議決定を覆せる可能性は残っている。

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