編集長のたわごと

 私のような地域紙が、特ダネなんて滅多にあるものではない。ましてや月間で文化の専門の小紙である。
 私が平成22年(二〇一〇)4月号に書いた、十和田湖に戦時中に飛行機が墜落した記事がきっかけとなって、69年ぶりに旧陸軍機が湖底から引き揚げられた。
 事はこうであった。
 十和田湖に飛行機が墜落していることは誰でもが知っている事実である。十和田湖の友人たちから、十和田湖は不景気だ。人が来るような話題づくりをしてくれよといわれた。
 その友人の一人に、水深300㍍まで潜ることができる、ビデオカメラ付き有索無人潜水艇を持っているのがいた。これを潜らせるには船をチャーターしなければならないし、結構金がかかるんだよといった。
 よし、それなら書いてスポンサーを募集しようよ、ということで、関係者から話しを聞き書いた。
 その取材した一人が、春山荘という民宿を経営している金村春治さんであった。金村さんの父親が、墜落した飛行機から、助かった一人を助けたのであった。
 その春山荘に偶然に、㈱ウインディーネットワークが、湖底の地形調査のために、泊り込んでいた。そこで私の書いた記事を見つけた。
 「オイ、十和田湖に飛行機が沈んでいるらしいぞ。調べてみろ」ということで、調査したところあった。それも、腐食が少なく原型を留めたままである。
 以後のことは、私が立ち入ることではない。青森県航空協会の執念でもって見事引き揚げに成功した。
 偶然とは運である。地形調査会社が春山荘ではなく別のところに泊まっていたなら、発見もなければ引き揚げもなかったであろう。
 私の記者生活29年の歴史の中で、結果的ではあるが、私にとってはやはり特ダネであった。
 昭和31年(一九五六)、『経済白書』は「もはや戦後ではない」と書いた。
 それは、昭和20年(一九四五)に戦争が終わり、昭和22年(一九四七)に、世界に類のない戦争を放棄した日本国憲法を施行。昭和26年(一九五一)連合国と日本が、戦争状態を終結させるサンフランシスコ条約を締結。日本の主権が回復した。昭和31年、日本は国連に加盟し、国際社会に一員として認められた。また、終戦後11年間で、日本は戦争の面影が見られないほど経済的な復興を遂げていた。そんなこともあり、『経済白書』に、前述した「もはや戦後ではない」と記述したのであろう。その後日本は、奇跡的ともいえる経済発展を遂げ、世界第2位の経済大国となった。
 昭和51年(一九七六)、戦後生まれが過半数を超えた。今では日本は過去に戦争をしたということなど、頭の隅からすっかり消え去ってしまっている。が、ここにきて、尖閣諸島や竹島問題が急浮上。中国、韓国、果ては台湾までもが、その領有権を主張してきた。これを突き詰めていくと、戦後はまだ終わっていなかったということに気づく。
 サンフランシスコ条約には、旧ソ連などの共産主義国が、同じ共産主義国となった中国が参加していないことを理由に署名しなかった。このとき、単独講和か全面講和かということが問題になった。単独講和とは、資本主義陣営に属する国々との締結。全面講和とは社会主義国も含めた締結である。当時の状況としては全面講和は不可能に近かった。しかし、旧ソ連等が署名していないということは、それを認めていないということでもある。
 戦後70年近く経った現在、尖閣諸島、竹島はいうに及ばず、北方領土、そして沖縄の普天間基地問題も、戦後はまだ終わっていなかったことを示している。

 国勢調査(平成22年)で、年齢別未婚率は、25~29歳が男性71・8㌫、女性60・3㌫。30~34歳が男性47・34㌫、女性34・5㌫となっている。30歳を過ぎても男性の半数近くが結婚をしていない。これは昭和45年(一九七〇)を基点として急上昇している。
 その理由を尋ねると、74㌫が交際相手がいないと答えている。さらにその理由を尋ねると、結婚したい相手に巡り会えないが47㌫。経済力に自信がないが41㌫であった。
 また、初婚年齢(平成22年)をみると、男性は30・5歳、女性は28・8歳と、晩婚化している。
 私が結婚したのは、昭和48年(一九七三)31歳であった。
 当時31歳というと、可なりの晩婚で、東京から一人で帰ってくると、周りのひとから見合いを勧められた。が、もう結婚相手がいたので見合いはしなかったが、30を過ぎると、周りのひとが結婚相手を探してくれた。
 ちなみに当時の未婚率は、男性30~34歳で11・7㌫、女性7・2㌫と少なかった。つまり、大方の男女は30代前半までに結婚をしており、家庭を持ち子育てをしていた。
 それが、経済高度成長と、国際競争の時代に入り、日本独特の終身雇用制度が崩れ臨時雇用の時代に入り、若年労働者の生活が不安定になってきた。
 若者結婚しない理由の4割が経済力に自信がないである。
 また、核家族の時代に入り、親、兄弟、親族の絆も薄れてきた。
 一時は1億総中流化と騒がれたこともあったが、今の日本は大変住みにくい国に変わってきている。
 20代女性の自殺も増えている。
 平成23年(二〇一一)の日本の平均寿命が世界一から陥落した。
 厚労省は、3・11の影響といっているが、果たしてそうであろうか。

 私は、見合い結婚の復活を提唱する。見合い結婚は、家族の絆、地域の絆を深め、大げさであるが、日本を救う一つの道である。

 私の人生の師である盛田稔先生が、95歳で青森山田学園の理事長に就任した。
 もちろん、山田学院の窮状を救うためである。
 95歳で現役で活躍している人は、日本中探してもそう多くはないであろう。すごいことである。
 私と盛田先生との出会いは、私が新聞を始めて3年ほど経った昭和61年(一九八六)1月、角川書店から出版された『青森県地名大辞典』の上十三地域出版祝賀会であったから、すでに26年のお付き合いである。
 私が、小さいながらも新聞社をやっているということで事務局をやらせていただいた。
 以後今日まで、盛田先生は本紙へ執筆をしていただき、また周年の祝賀会などには必ず出席し、主賓の挨拶をしていただいた。
 本紙が当初掲げた社是「地域の歴史、文化、人の掘り起こし」は、盛田先生のこうした支援で、揺るぎないものとなってきた。
 もう一つ、私が盛田先生を人生の師として仰ぎ心酔するのは、夢と目標を持ち、かつ社会的責任をもって、死ぬまで働くということである。
 私は40歳のとき80歳まで働こう。それにはサラリーマンでは駄目だと会社をやめ現在の仕事をした。そして盛田先生が90歳で現役であるのを見て、大正生まれの人が90歳で現役なら、昭和生まれの俺は100歳まで働かなければならないと、仕事年齢を100歳まで伸ばした。
 盛田先生はいつも、まだ研究することがたくさんある。あと10年は仕事をしたいといっている。

  今、文化出版から、盛田先生の自著『生涯現役~波乱万丈の95年』の出版の準備をしている。盛田先生の生き様は、まさに生涯現役である。
 私も盛田先生のように生きたい。いつもそう思っている。人生の師を持てたことは私にとって幸せである。

  福島の原発事故で、あの廻りの人たちの中には、生きているうちに二度とふるさとの土を踏むことのできない人が相当数いるであろう。
 しかし一方で、管元首相が、脱原発の発言をしたとき、原発を廃止しないでくれと陳情した地方の首長もいた。
 このほど発表された原発関連施設のある下北半島4市町村への、電力会社や関連団体からの寄付金が、むつ市で約30億6000万円、六ヵ所村で約32億円、東通村は公開はしていないが判明しただけでも約100億円である。
 しかもこれは、電源三法交付金以外の寄付金である。
 電源三法交付金は、隣々市町村まで及ぶから、十和田市の駒っこランドも、十和田市現代美術館もその金を使っている。
 ちなみに、むつ市の人口は約6万3000人、六ヵ所村は約1万1000人。東通村に至ってはわずか7000人である。それに100億円である。
 昭和49年(一九七四)、原子力船むつの反対運動であれほど盛り上がったこの地域は、今では原発反対という人がいなくなった。それどころか、前述したように原発をやめないでくれと陳情する始末である。
 まさに、県民の心を金でもって買ってしまったと同じである。
 原発は必要だというが、その原発の開発と、原発のある近隣市町村に払う迷惑料のその金を、太陽光や風力、波力など、自然エネルギーの開発・研究に使っていたなら、相当なものを開発できたのではなかろうか。
 しかし結局は、電力大手などに金が入らなくなるから、そうならなかったということであろう。
 原発行政は、日本をいびつな金社会にしてしまった。
 まちづくりは、若者、ばか者、よそ者といわれている。
 十和田市自体、よそ者である新渡戸伝、十次郎、七郎の新渡戸家三代によってつくられたまちである。
 十和田市はここに来てまた、よそ者による新しいまちづくりが始まろうとしている。それは文化によるまちづくりである。
 十和田市現代美術館がオープンして4年。昨年は、『日本の美術館ベスト100ガイド』の表紙を飾り、また「行って良かった日本の美術館&博物館」では、ベスト20位に入った。
 この十和田市現代美術館をプロデュースしたのが、六本木ヒルズ森美術館館長の南條史生さんである。
 そして今年から十和田市現代美術館が指定管理者制度に移行。その指定管理者になったのが、南條さんが代表を務めるナンジョウアンドアソシエイツ㈱と十和田市内の会社との合弁会社である。その責任者として、館長に坂戸勝さんが、副館長に藤浩志さんが就任した。
 館長は非専従であるが、坂戸さんは現在、ベルリンにある日独政府によるベルリン日独センターの副事務総長であり、06年にドイツ連邦共和国功労十字章小綬賞を受賞している国際人である。
 坂戸さんはドイツと十和田を行き来しながらの館長職であるが、海外の作家の展示をするとき、他の機関と連携しながら、たとえば韓国と十和田と同時開催するなど、海外に向けた美術館にしたいとスケールが大きい。
 また常任である副館長の藤浩志さんは、都市計画コンサルタントを経て、自ら作品を発表する傍ら、全国100を越える地域のアートプロジェクトに携わった、文化によるまちづくりのプロフェッショナルである。
 この二人が十和田市をどう変えて行くか、3年後が楽しみである。

yamamotoosamu.jpg 私はこの30年間、仕事柄様々な人たちと出会ってきた。その出会いは、私にとって宝である。

 しかし、こんな愉快な、面白い出会いは初めてである。

 3月のある日、夜7時ころであろうか。十和田市で唯一のライブハウス、ハミングバードⅡのマスター工藤信雄さんから、面白い人たちが来ているから来ないかと、携帯に電話があった。

 私はその夜、ある祝賀会があり飲んでいた。祝賀会も一段落したので、さっそくハミングバードⅡに行った。

 店に入ったとたん、見覚えのある人が、ギターを弾き歌っていた。

 だけどその歌手は、会うのが初めてである。写真やCDのジャケットなどでもみたことがない。

 しかし、なぜか見覚えがあるのである。

buru-suman.jpg 思い出した!あっ、アレだ!! 私の大好きな漫画家山本おさむさんの漫画のモデルの『Hey!!ブルースマン』だ!!

 演奏が終わって、そうでしょうといったら、そうだということになって意気投合した。

matunobeyasusu2.jpg 続いてマスターから、この人は日本テレビの「世界一受けたい授業」でお馴染みの松延康さんだと紹介された。

 松延さんは、ナント北里大学獣医学部の卒業生で、大学3年、同修士課程2年、博士過程2年、併せて7年十和田市にいたというのだ。

 ところが松延さん、オレBUNKAS新聞社を知っているよというのだ。

 えっ、何で??

 大学いたころ、看板屋でアルバイトをしていて、BUNKA新聞社の看板を立てる行ったというのだ。

 ここでまた、松延さんと意気投合、さっそく来年の市民大学に来ていただくことを約束した。

matunobeyasusu.jpg 次の日、三沢航空科学館で、松延さんの「親子で本気の理科実験」があるというので見るに行った。

 松延さんの講座が始まると、子どもはもちろん大人までもが目をキラキラ輝かして松延さんの話を聞いていた。さすが世界一受けたい授業である。この講座に参加した子どもたちはいっぺんに理科が好きになったに違いない。

 nakamuramitio.jpgそして、もう一人、ここにすごい人が来ていた。組み木絵作家の中村道雄さんである。

 組み木絵とは、木の木目や色をそのまま使い、絵具を一切使わないで、そのものずばり木を組み合わせて絵を制作するのである。中村さんの組み木絵は世界で大変高く評価されている。

 その中村さんが何故ここにということになる。

 実は、ブルースマンの西濱哲男さんと、組み木絵作家の中村道雄さん、ハミングバードⅡの工藤信雄さんは、20代の頃、アルバイト先で一緒になり、夢を語り合った仲である。

 そして、松延康さんは、北里大学在学中から工藤さんの知り合いであった。

 そこへ私が飛び込んだというわけである。

 まさに、出会いは異なもの味なも、私にとっては素晴らしい出会いであった。 

 

 私事であるが、2月10日で満70歳になった。
 40歳になったとき、あることに気がついた。我が家で、私は4代目であるが、80歳前に亡くなったひとがいないのである。それもみな亡くなる直前まで働いていた。それじゃ俺も80歳まで働かなければならないと、仕事年齢を80歳に定めた。それにはサラリーマンでは駄目だと会社を辞め、1年後に現在の仕事を見つけた。
 平成16年(二〇〇四)に、市民大学講師に三浦雄一郎さんに来ていただいた。三浦雄一郎さんは、70歳のときエベレストに登頂した。その翌々年に、東京都老人総合研究所が、三浦さんの体力テストをしたところ、体力は20代の男性と同じだというのである。
 私は、人間って鍛えると40歳は若返ることが出来るんだと、そのとき仕事年齢を90歳まで引き上げた。
 ところがである。私の人生の師である、元青森大学学長の盛田稔先生は、90歳を過ぎてなお現役である。
 大正生まれの盛田稔先生が、90歳を過ぎて現役なら、昭和生まれの俺は100歳まで仕事をしなければならないと、仕事年齢を100歳まで引き上げた。
 そして今、私は70歳を迎え、現在の仕事をして30年経った。
 中学校、高校で国語3で、40歳になるまで返事の来ないラブレター以外書いたことのなかった私が、この30年間でたくさんのことを学んだ。本も5冊出版した。
 100歳まで仕事をするとなると、あと30年働かなければならない。
 今、私は、これからの自分にどんな可能性があるだろうかと、ワクワクしている。
 何故なら、40歳で今の仕事を始めたときはゼロからの出発であった。が、現在の私は、30年間学んできたその上に、あと30年も学び続けることができるからでる。 

kaoru70.jpg70歳の誕生日には、仲間たちと飲んで騒いで祝いました。ご機嫌な私です

kyu-badeami-go-.jpg『キューバでアミーゴ!』

 たかのてるこ著

 私がキューバを知ったのは、多分、1962年(S37)のキューバ危機のときであろう。私は20歳、若いころの青春時代の真っ盛りであった(現在私は、70歳の青春時代真っ盛りである)。

 当時私は、東京に出て間もなくのころで、新しいことにすべてに興味があった。

 特に、あの巨大国アメリカの懐にいながら、アメリカと一歩も引かず戦っているカストロは私の英雄であった。

 当時、ソ連がキューバにミサイル基地を建設することを知ったアメリカが、それを阻止するために海上封鎖をし、一触即発の戦争をもしかねない状況であった。

 以後、ずっと忘れていたが、次にキューバを知らされたのが、アメリカ映画『シッコ』である。そこには、世界一といわれるキューバの医療制度が描かれていた。映画に感動し、やはりキューバはすごい。それでも、私のキューバに対する認識はその程度であった。

 エッセイストたかのてるこさんを知ったのが、NHKのラジオである。そのときたかのさんは、『キューバでアミーゴ!』の話をしていた。たかのさんの話が面白く、キューバってそうなんだ。面白そうだ。そう思って本屋に行ったところ、初版が平成18年(2006)、文庫版の初版は平成22年(2010)だったが、在庫はない。さっそく注文した。

 読み始めたら面白いのなんのって。ブータンがGNHを国是としているが、キューバもまぎれもなくGNHの国である。

 さて、『キューバでアミーゴ!』を書こうと思い、医療制度世界一のキューバのGDPがどれくらいだろうと思いネットで調べてたが、出て来ない。国策で出していないのかなと思い必死になって探した。

 ようやく見つけたのが、アメリカの発表で、キューバの月の生活費が15ドルというもの。また、GDPが世界200位にも入らないというものであった。世界最貧国ということであろうか。

 しかし、キューバは国民のほとんどが高校以上を卒業し、識字率が99.8㌫。教育費、医療費がタダの国である。

 ま、それはともかくとして、たかのてるこさんが見たキューバを紹介しよう。

 まず、たかのさんがキューバに惹かれたのは、映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』であったという。

 そこには、92歳の、現役のミュージシャンや、ダンディで粋なおじいちゃんや、歌手としてしても、女としても一生現役!という感じの華やかなおばあちゃんの笑顔が、とてもチャーミングに映し出されていた。

 この映画は、お涙ちょうだいの映画ではないが、たかのさんがこの映画を観て、胸が張り裂けそうになるほど、泣けて泣けて仕方がなかったという。

 ということでキューバに行く。

 まず、街を歩いていて、誰彼となく目が合うと、「ハーイ!」と、ニコニコし皆が手を振ってくる。レストランの前を通ると、中から楽しげな生の音楽が聞こえてくる。

 そんな中、たかのさんは、陽気で若い自転車タクシーの運転手(?)アレクシスと知り合う。彼は、英語ができたからである。

 キューバでも『おしん』が放映されたらしく、『おしん』は大人気だったという。 

 レストランに入った。料理を運んでくるねいちゃんが、店にかかっている音楽にあわせ、くるくると回り踊りながら持ってくる。

 いつのまにか、アレクシスとそのおねいちゃんが踊っている。「てるこ、いっしょにサルサ踊ろうよ!」という。

 「踊ったことないないから無理だよ~!」

 「大丈夫、大丈夫!」

 と、踊れないのを不思議がる。

 こうして一緒に踊るはめに。キューバの人たちはともかく踊りが好き。酒が入ると勿論だが、酒が入らなくても何人か集まるとすぐ踊る、陽気な国民である。

 翌朝、窓の外から聞こえてくる楽しげなざわめきで目が覚めた。どこからか聞こえてくるにぎやかな音楽。

 居ても立ってもいられない気分になって、まちに出る。

 通りをあるいていると、上の方から「ハロ~!」という声がした。ん? どこから? と辺りを見まわすと、目の前の建物の2階から、手に絵筆のようなモノを持った兄ちゃんが手を振っている。そして上がってこういという。

 こうしてたかのてるこさんが、キューバでの13日間の旅をするのだが、なんとも人懐っこくて陽気な国民である。アメリカがいうように、確かに金はない。しかし、浮浪者は一人もいない。

 大橋照枝さんが『幸福立国ブータン』の中で、「GDPは、人間の幸福や福祉にとってマイナスの戦争や自殺や交通事故や離婚や環境破壊などが生じても、金銭的支払いが生じれば、どんどん加算していくので大きくなる」と書いている。

 GDP世界第2位になった中国は、目の前で子供が自動車に轢かれて苦しんでいるのに、見て見ぬふりをして通り過ぎていったという事件があった。GDP世界第3位の日本では、江戸時代の天明の飢饉じゃあるまいし、金がなくて餓死した人が相次いでいる。

 『キューバqでアミーゴ!』は、これは単なる旅行記であるが、その底には、国とは何か、政治とは何かを考えさせてくれる本である。 ぜひ一読をお薦めしたい。

 『キューバqでアミーゴ!』 幻冬社文庫 定価648円。

 

 平成23年(2011)3月11日午後2時24分、東北地方を襲った観測史上最大の規模のマグニチュード9の東日本大震災。今日でちょうど1年になる。

 私も東京からの帰り、新幹線三本木トンネルの中で、何も情報のないまま8時間新幹線の中に閉じ込められた。夜11頃、ようやくトンネルの外に出たが、停電でテレビも駄目。携帯はつながらない。電池がなくなりコンビに走ったが品切れ。震災の全容を知ったのは、翌3月12日、家に帰ってからの夜11時頃であった。

 それから1年経った現在の人的被害は、死者1万5854人、行方不明者3155人、避難者23万3935人である。戦争じゃあるまいし、こんな大被害を誰が想像したであろうか。それに加え、福島第一原発のメルトダウンである。これは明らかに人災である。日本史に刻まれる歴史的大震災であった。

 平成7年(1995)の大震災のあと、日本は大きく変わったものがあった。それは、ボランティアである。震災を復興するために、北海道から九州まで多くの人たちが神戸や淡路に駆けつけた。また、多くの義援金が寄せられた。

 そしてボランティア法、NPO法人法ができた。私も、NPO法人をつくり、また幾つかNPO法人の立ち上げに関係してきた。

 この多くの犠牲者を出した東日本大震災。その犠牲者の霊に報えるためにも何か変わらなければならない。多分変わるであろう。それは「絆」であろう。

 かつて日本は、家族の絆、地域の絆、職場の絆に満ちていた国であった。それが、経済高度成長と共に、核家族となり生活の伝統は途切れ、地域での連携が薄すれ、職場での仲間意識が薄れてしまった。

 むかしはすべていいわけではない。悪い面もあった。ただ、そのことによって人と人の絆が薄れ、悩みがあっても相談する人もなくなり、自殺者が3万人を越えるまでになった。

 私の町内会で、私が朝ごみ見出しに行くとき、見も知らぬ小学生の子どもが、道で合うと「おはようございます」と挨拶してくる。私も「おはよう、行っていらっしゃい」と挨拶する。

 気持ちがいい。私も、よし、今日1日がんばるぞという気持ちになる。

 東日本大震災のあと、大きく変わって欲しいのは、経済高度成長の中で日本人が失ってしまった「絆」の復活である。

 夫婦の絆、家族の絆、地域の絆、子供も大人も、朝合ったら「おはよう」、夕方合ったら「今晩は」、こう気軽に声を掛け合える、そんな地域の復活を目指したい。

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