実践的アンチエイジング講座

3、どう死ぬか

[実践的アンチエイジング講座]
この世に生を受けて、人間は必ず死ぬ。それは、40歳、50歳で死ぬか、80歳、90歳まで生きられるか、あるいは100歳を越えてまで生きられるか。いずれにしても最後は死ぬのである。
 そのとき、どう死ぬか。私は、その人の人生の締めくくり方によって、その人の一生が幸せであったかどうかが決まると思っている。
 若いとき幸せであっても、晩年は必ずしも幸せでなかったという人をたくさん知っている。
 あくまでも願望ではあるが、私は、できれば死の直前まで働き、あるいは活動し、できるだけ家族や社会に迷惑をかけないように死にたいと思っている。
 老後という言葉がある。一般的には定年後、つまり退職して年金暮らしになった以後の人生を指して使われる場合が多い。
 老後について、私はこう思っている。
 たとえ、80歳になろうが90歳になろうが、働くなり、様々な社会的活動、あるいは研究をしているうちは、つまり社会の一員として働き、活動しているうちは現役である。
 まさに生涯現役。何歳であろうが、現役であるうちは老後ではない。
 私の祖父は満83歳で亡くなった。60歳代で目が白内障になり、薄ぼんやりとしか見えなくなったので、主な仕事は留守番であった。しかし、毎日ラジオを聴いていたので、世の中のことは我家の誰よりも知っていた。
 留守番という仕事ではあったが、ちゃんと用を成していた。
 その祖父が亡くなったのは5月の、ちょうど田植の時期であった。私たちはみな田んぼに行き、祖父は留守番をしていた。お昼近くになったころ、村の人が、「お前方の爺様が倒れた」と知らせに来てくれた。
 それは大変だと慌てて家に戻った。祖父は布団に寝かせられていたが、私たちを見るなり、
 「今、田植の忙しいときに何で帰って来たんだ。早く行って田植しろ」と、逆に怒られてしまった。祖父は、農家にとって田植がどんなに大事か知っていた。
 そして1週間後、田植が終わるのを待っていたかのように、眠るように死んだ。
 私はそのとき、人間は意思の力で死を伸ばすことができるんだなと思った。
 祖父は、病気をすることもなく、死の直前まで留守番という、我家にとっては大事な仕事をしていた。つまり現役であった。
 この祖父の老後は、倒れてから死ぬまでのわずか1週間である。
 私の母は82歳で亡くなった。入院するまで、父の食事をつくるなど家事をこなし、家で食べるだけではあるが野菜を作っていた。病院には週1回ぐらい通っていたが、主婦としては現役であった。
 その母を救急車で病院に運んだのが3月19日である。そのとき医師から、肺機能低下、間室肺炎、喘息、呼吸機能低下、薬の副作用など、たくさんの病名をもらった。それでも父の食事支度はしていた。
 そして3月26日に入院。4月18日に亡くなった。母の老後は23日である。
 私の高校時代の恩師三浦啓一先生は、84歳まで十和田准看護学院の学院長をしていた。つまり84歳までは現役であった。病気がみつかり通院していた。病気も大分良くなり、10月16日、検査のために病院に行った。医師からちょっとおかしいから入院して下さいといわれた。本人はどこも痛くも痒くもない。そして5日目、突然に、医師も予測がつかないほど全く突然に、苦しみもせず、命が風に吹かれて消えるかのように亡くなった。三浦先生の老後は7ヵ月と21日であった。
 平成16年(二〇〇四)2月28日、東京・きもの美術館で、南部裂織保存会会長の管野暎子さんが、「南部裂織保存会30年の歩み」と題して講演をした。
 それから3日後の、3月3日の東奥日報の朝刊に、管野さんが東京で講演「裂き織の魅力を熱く語る」という記事が写真入りで載っていた。
 そして、同じ日の夕刊に、3月2日午後10時12分、肝硬変のために管野さんが亡くなったという死亡記事が載っていた。
 私はびっくりした。わずか2日前に東京で講演していた人が何故と思った。
 話しを聞くと、管野さんは自分の病気のことも、多分そう長く生きられないだろうということも知っていた。だけど、南部裂織を普及するためにこれだけはやって置かなければならないということを心に決めていた。その最後の仕事の一つが、全国の裂織ファンに、裂織の歴史と文化を伝えることであった。やらなければならないという意志の力で命を保っていたわけである。その仕事を終えた途端、緊張の糸が切れたかのように命の灯が消えてしまった。壮絶な死であった。
 管野さんの享年は67歳と若かったが、命の炎を燃えつくした一生であった。
 私が若い頃、東京の荒馬座という劇団にいた。その劇団を一緒につくった文ちゃんという仲間がいた。荒馬座に青春を捧げ、一生独身を通した。
 劇団を定年で退職してから、地域でボランティア活動を行っていた。その文ちゃんのアパートのポストに、新聞が3日分ぐらいたまっていた。おかしいと思って部屋に入ってみると、もう冷たくなっていた。いわゆる孤独死である。私と同い年で享年69歳であった。
 今年(二〇一一)3月10日に、劇団の仲間らが中心となって、文ちゃんを偲ぶ会が行われた。偲ぶ会に友人や知人など170名が集まり、文ちゃんを語り、また数十年ぶり会うむかしの仲間たちと旧交を温めた。文ちゃんは、逝くのがちょっと早かったけれど、幸せな
人生だったんだなと思った。
 ここで紹介した人たちはまさに生涯現役であり、死の直前まで人生を全うした人たちである。
 私の人生の師である、元青森大学学長の盛田稔先生は、大正6年(一九一七)3月生まれで、満94歳。あと10年は研究をしたいといっている。盛田先生と人生の締めくくり方について、よく話しをする。盛田先生は、机に向かって仕事をしていて、ご飯ですよと呼ばれる。アラ返事がないわね。眠っているのかしら、と行ってみると、机にうつ伏せて死んでいた。そんな死に方をしたいと、死についての夢を語る。
 死にもロマンがある。盛田先生のように生きたいと、私はいつも思っている。
 私が40歳になったとき、どう死ぬかを考えた。私の人生は80歳まであと40年ある。ちょうど人生の折り返し点である。その40年を死ぬまで働きたい。死ぬまで働けき続けられる仕事を見つけよう。そう思ってサラリーマンをやめた。そして1年後に現在の仕事を見つけた。
 もちろん長い人生の中で、病気だけでなく、事故や怪我、災害に遭い死ぬ場合もある。それはその人の運である。
 私は、どう死ぬかということは、つまるところどう生きるかということ、その人の生き様であると思っている。
 死ぬまで社会の一員として働き、活動し、あるいは研究をし、死ぬまで病気もせず、家族にも社会にも迷惑をかけず、人生を全うする。
 しかし、ここで紹介した5人のうち、4人は多分死因に病名がつくであろう。できれば私は、私の祖父のように、ぴんぴんころり、自然死(老衰)したいと思っている。

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文:小笠原カオル
文:小笠原カオル

監修

監修:川村賢司
監修:川村賢司

プロフィール
昭和15年(1940)青森県野辺地町出身。東京医科大学卒業、元北里大学薬学部准教授、医学博士。退職後は、㈱東京科学技術研究所長などを務める。著書に『もっともらしい健康の常識』など多数。

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