2011年9月アーカイブ

 おいらせ町にあるカワヨグリーン牧場で、毎秋恒例の「ふれあい牧場デー」が行なわれます。

 以下、要項は次の通り。

 ◇日時/10月9日(日)午前10時~午後3時

 ◇入場/無料

 ◇催し/ツリーイング、ひき馬乗馬、バター作り、ペットボトルロケット飛ばし、フェルト作り

  バードコール作り、羊飼いのゴルフ(パターゴルフ)、ステージイベント他。

  牧場レストラン特製バーベキュー(1200円)や、そば、カレー、おいらせ郷土料理の試食会

  もあります。

 ◇問い合わせ/℡0178-56-4111

 

kawayop.jpg                 写真は、一昨年のふれあい牧場デー

kinatu.jpg 朝食、味噌汁とチョコ。昼食、おかずとチョコ。夜、ご飯とチョコと、板チョコ16~17枚、重さにして約1㌔のチョコレートを食べている。チョコが主食といっても過言ではない。別名チョコ姫。
 子どもの頃、おばあちゃんからチョコのファミリーパックを買ってもらったのが最初で、以来自分で制限出来なくなりチョコを食べ続けている。
 倉岡生夏(なつき)。平成3年(1991)7月、七戸町で生まれた。小学校の頃、父の仕事の関係で東京に移住。東京の学校に入った。高校3年生のとき、タレントにならないかと声をかけられたのがきっかけで、最初は雑誌のモデルに起用され、タレントデビューした。
 現在、テレビでは、話題になった『JIN‐仁』(TBS)では娘役。『イツザイSハイスクール』(テレビ東京)、『方言彼女。2』(テレビ埼玉)などに出演。雑誌は、『ヤングキング』『アクション』『ヤングアニマル』などのモデル等多数。
 また、自身のブログ「青森!LOVE」で青森にまつわる話題を書いている。
 「祖父母は七戸にいるし、私自身青森県の観光大使だと思っています」と語る
sannou.jpg 東京及び関東周辺の三本木農業高校卒業生で組織する三農東京同窓会(池畑守会長)の、第39回総会及び懇親会が、9月11日、東京・九段北のアルカディア市ヶ谷で行なわれた。
 これには三農の同窓生及び来賓含め約80名が出席。
 総会は、平成23年度事業報告及び決算を承認。平成24年度の事業では、10月30日(日)、池袋サンシャインシティで行なわれる「青森県人の祭典」に全面協力するなどの事業計画及び予算を承認。
 続いて行なわれた懇親会では、物故者及び3・11東日本大震災で犠牲になった方々への黙祷捧げたあと、『三農校歌』斉唱。会長、同窓会長、学校長が挨拶。そして荒谷隆男三農校長から、三農の近況報告等が行なわれた。
 懇親会に入ってのアトラクションでは、十和田市出身の歌手近江綾が熱唱。会を盛り上げた。
 三農東京同窓会は、昭和47年(一九七二)に結成。来年は40周年を迎える。
 悩みは、若い人たちが入ってこないことで、ふるさとの家族の方、東京及び関東周辺にいる卒業生がいたらぜひ紹介して欲しいといっている。
 三農東京同窓会への問い合わせは、℡03‐5386‐5886迄。

 ハーモニカー(ブルースハープ)ってこんな表現ができるの

yaginobuo.jpg 9月24日、十和田市にあるライブハウス「ハミング・バード」で、八木のぶおライブがあった。

 全くの知識がなく、初めて聴く八木のぶお。最初の演奏から驚かされた。電子ピアノの前に座り、片手でハーモニカを演奏しながら、片手で伴奏。続いてロックを演奏。ハーモニカ一つでこんな演奏ができるのかと驚いた。中でも、岩手県民謡「南部牛追唄」は、その情景が浮かんでくるような演奏で、いっぺんに八木のぶおファンになってしまった。

 八木のぶおは、昭和27年(1952)東京都出身。中学生(14歳)のとき、ジョンレノンがハーモニカを吹いているのを見て、小遣いをためて、なんとドイツ製のハーモニカを買ったという。

 以後、独学で始め、クロマチックハーモニカを崎元譲氏に師事した。

 八木のぶおは、小室等や森山良子、井上陽水など、多くの歌手と共演している他、スタジオ・レコーディングでは、美空ひばりや松田聖子、尾崎豊、松山千春、浜田省吾など、これも多くの歌手に名を連ねている。

 *ハミング・バードは、県外からのくるほど、様々な歌手を取り上げている。

 問い合わせは、℡090-1064-7758迄

ooyamaikuo.jpg 平成21年(二〇〇九)に逝去した、元東京芸大の学長、元日本美術院理事長で、日本画壇の最高峰であった平山郁夫展が、鷹山宇一記念美術館(戸舘昭吉館長)で開催される。
 平山郁夫は、昭和5年(一九三〇)広島県出身。旧制広島修道中学時代、原爆で被災した。その経験が平和に対する強い希求となる。東京美術学校(現東京芸大)卒業後、同校助手、東京芸大教授、同学長となった。
 また、社会活動では、ユネスコ親善大使、世界平和アピール七人委員会、日中友好協会会長、文化財保護振興財団理事長、日韓友情年日本側実行委員長、東京国立博物館特任館長など、幅広く活動している。
 鷹山宇一記念美術館で平山郁夫展は、平成11年(一九九九)平成13年(二〇〇一)に続き今回は3回目である。
 今回の作品展は、「平山郁夫展~次世代への伝言~」と題して、中学生のとき、広島の原爆投下を、実際に自分の目で見た『B29から落下傘投下を目撃する』、『原爆の茸雲』、『廃墟と化した広島』から始まり、『八甲田山の残雪』、『仏教伝来エスキース』、そして『敦煌鳴沙』、『絲綢の路パミール高原を行く』、『マルコ・ポーロ東方見聞行』など、本画素描55点、大下図3点、小下図1点、合計74点が展示されている。
 それは、特に素描には平山郁夫自身の解説がついており、平山郁夫という画家の精神的な、あるいは人間的な歩みにほかならない。
 さすがに日本画壇の大御所。大変見ごたえのある作品展である。

 写真は、「『絲綢之路天空』の大下図。平山郁夫は本画を描く前に下絵を描いていた。それが下図である。
 ▽期間/9月23日~10月30日(期間中は無休)▽入館/一般850円(650円)、高校・大学生400円(320円)、小中学生200円(160円)*( )内は団体及び前売券等▽問い合わせ/℡0176‐62‐5858迄。

東北総合体育大会馬術競技

 

bajutu.jpg 8月月27日、十和田馬術協会馬術場で行なわれた、第38回東北総合体育大会馬術競技で、十和田乗馬スポーツ少年団が初優勝。10月1日から山口県で開催される、国体への出場権を獲得した。
 今回東北総体に出場したのは中沢綾香さん(三本木高校1年)と、気田奈苗さん(十和田西高校1年)の二人。
 二人とも、十和田ポニークラブ及び駒っこクラブで小学校のときから馬に乗っていた。二人とも、本格的に馬術をやりたいと十和田馬術協会(宮野進会長)に移籍し練習を重ねてきた。
 二人は、第3競技の少年団体障害飛越競技で見事優勝。中沢さんはこの他、第6競技少年馬場馬術競技でも第3位に入賞している。
 馬のまちといわれて久しい十和田市。若い人たちの将来が楽しみである。

ookawamiho.jpg卒業生加賀ひとみさんらが記念演奏

 青森県では数少ない音楽科を設置する八戸聖ウルスラ学院(中村敬子校長)。
 このほど八戸市公会堂で、八戸ウルスラ学院創立80周年記念・音楽科45周年記念演奏会が行なわれた。
 実は、この音楽科から、日本音楽コンクールで優勝し現在ソプラノ歌手として活躍する小渡恵利子、オペラ歌手として活躍するメゾソプラノの加賀ひとみらを輩出し、なんと東京芸大に13名を送っているという、音楽の名門である。
 聖ウルスラ学院音楽科は昭和41年(一九六六)に開設された。その時の音楽科への入学者は7名であった。
 聖ウルスラ学院音楽科が注目されたのは、昭和59年(一九八四)第38回全日本学生音楽コンクール全国大会声楽部門で、十和田市出身の佐藤志保が優勝した。これは、東北・北海道では初めてという快挙であった。翌年佐藤志保は東京芸大声楽科に入学した。
 続いて昭和62年(一九八七)十和田市出身の加賀ひとみが、第41回全国学生音楽コンクール声楽部門で第3位入賞。加賀ひとみは、聖ウルスラ卒業後、一時社会人として勤めたが、やはり音楽の道に進みたいと東京芸大に進んだ。
 さらに小渡恵利子が、聖ウルスラからやはり東京芸大に入り、東京芸大卒業後の平成5年(一九九三)、第62回日本音楽コンクール声楽部門で優勝するなど、聖ウルスラからこれまで13人が東京芸大に入っている。
 それらを指導してきたのは、音楽科設立当初から指導している、現在同校副校長・音楽科長である大川みほ先生(写真)である。
 大川みほさんは、昭和18年(一九四三)川内町出身。弘前大学教育学部音楽科卒業後、昭和41年、聖ウルスラ学院(当時は白菊学園高校)に、教授の推薦で、音楽科最初の先生として白菊学園に赴任した。
 初年度の入学した生徒は7人、2年目は4人、3年目に入ってようやく10人を超えた。
 そして、18年目にして全日本学生音楽コンクールの優勝者を出した。
 「私は生徒に恵まれていました」と語る大川さん。
 音楽科45周年記念演奏会は、大川みほさんの、聖ウルスラ学院での45年の歴史そのものであった。

 写真右上、音楽科の責任者として多くの卒業生を音楽界に送り出してきた大川みほ音楽科長(同副校長)
kagahitomi.jpg 十和田市出身のメゾソプラノ歌手加賀ひとみさんも聖ウルスラ学院音楽科の卒業生である。記念演奏会では迫力ある歌声で会場を圧倒した


国際ソロプチミスト十和田

 女性の事業者で組織する国際的なボランティア団体国際ソロプチミスト十和田(三星陽子会長)の、今年のチャリティディナーショーはLEGEND。
 LEGENDは、国立音大出身のイケメン、テノール3人、バリトン2人で結成されたオペラユニットである。
 オペラというと、一般にはまだまだ敷居が高い。が、『千の風になって』をヒットさせた、やはりオペラ出身の秋山雅史がオペラのイメージを一新させてくれた。
 LEGENDは、ポピュラーからクラシックまで幅広く、美しいハーモニーと、心に響く歌声を聴かせてくれる。
 ▽日時/10月20日(木)午後6時~▽会場/十和田富士屋グランドホール▽入場/1万3000円▽問い合わせ/0176‐25‐1095(太田)
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kawamuraseiiti.jpgどんぐりの森植樹祭の一環

 どんぐりの森・山楽校と市民大学の共催となった、十和田市民大学第4講座「森を楽しみ、育み、そしてその多面的機能(環境保全、エネルギー資源、野生動物との共存)を活用する」が、8月20日、十和田市民文化センターで行われた。
 講座は、
 「ブナの『実』の不思議とそれを生かした楽しみ方」と題して、山形大学農学部教授の小山浩正さん。「野生動物との共存を目指して~人とクマと森と~」と題して岩手大学農学部教授の青井俊樹さん、「森林がもたらす環境保全効果と木材バイオマスとしての利用」と題して、NPO法人バイオマス産業社会ネットワーク副理事長の岡田久典さんの3人。
 3人は、それぞれテーマに沿って話をしたが、全体としては、森林の不思議、野生動物との共存、森林の活用と、森林を多方面から見た講座となった。
 たとえば小山さんは、ブナは6~7年ごとに実をつける。それは何故か。実は、ブナにはブナヒメシンクイガという天敵おり、この蛾の幼虫がブナの花を全部食べてしまう。ブナは、花をつけなければ天敵も増えない。天敵が少なくなったころを見計らってブナが花を咲かせ、実をつける。いわばブナが自己防衛のために6~7年ごとに実をつけるというのである。
 ブナにも意志があるの??と感じさせる、自然の不思議さを知るひとコマであると同時に、自然の大事さを考えさせる講座であった。
 こうして、3人がそれぞれの立場から話し、最後に質問もたくさん出、3時間半と、市民大学始まって以来の長時間の講座であったが、帰るひとが一人も居らず、充実した講座となった。

 写真は、「森を楽しみ、育み、そしてその多面的機能(環境保全、エネルギー資源、野生動物との共存)を活用する」のテーマで語られた十和田市民大学講座。3時間半の長丁場の講座に、帰る人が一人もおらず、自然に対する関心の高さを示した講座であった。講師は、小山浩正(山形大学農学部教授)、青井俊樹(岩手大学農学部教授)、岡田久典(NPO法人バイオマス産業社会ネットワーク副理事長)の皆さんと、司会を務めるどんぐりの森・山楽校塾長の川村清市さん
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gennbiq2.jpg十和田市現代美術館

 十和田市現代美術館の今年最後の企画展「加藤久仁生展」が始まった。
 加藤久仁生は、多摩川美術大グラフィックデザイン科卒業後、平成13年(二〇〇一)に㈱ロボットに入社。同社のアニメーション作家を集めたROBOT CAGEに所属。テレビ番組等のアニメーションを制作してきた。
 その作品の一つ、『つみきのいえ』が、平成21年(二〇〇九)に、アメリカの第81回短編アニメーション部門でアカデミー賞を受賞した他、アヌシー国際アニメーション映画祭アヌシー・クリスタル賞、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞するなど、新進気鋭のアニメーション作家である。
 また、『つみきのいえ』が絵本(白泉社刊)となり、これも版を重ねている。
 加藤久仁生展は、東京など全国4ヵ所を回る巡回展で、そのトップを切ったのが十和田市現代美術館である。
 展示は、八つのコーナーに分かれており、絵本『積み木の街』のコーナーでは、『つみきのいえ』誕生のきっかけとなった、アニメーション制作の約1年前に企画した絵本『積み木の町』であった。その構想のアイディア・スケッチなどが展示されている。
 脚本のコーナーでは、加藤さんが「つみきのいえ」で脚本家と初めて共同作業をおこなった。
 脚本家の平田研也さんは、『積み木の街』のイメージ画と世界観から着想を得て制作を開始した。当初は、老夫婦の物語りであったが、最終的には妻を亡くした老人の物語りになった。
 アイデア・スケッチのコーナーでは、加藤さんが、スケッチブックやコピー用紙にアイディアイメージをびっしり描いている。
 その他、動画、背景画、絵本原画など、加藤久仁生の世界に引き込まれてしまう企画展である。
 加藤久仁生展は、若いひとのファンが多く、たくさんの若者で賑わっている。
 会期は、9月10日~平成24年(二〇一二)1月9日(月祝)迄。問い合わせは

 十和田市現代美術館℡0176‐20‐1127迄。
 写真は、オープンニングで挨拶する加藤久仁生さんと

 若いひとで溢れる加藤久仁生展

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「ゆかたの似合う女性コンテスト」グランプリ部門グランプリに宮野恵美さん

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 盆踊り、それは遠いふるさとの記憶である。

 むかしは、村々の神社やお寺、あるいは学校の校庭で、夏になると盆踊りが踊られていた。子どもも、若者も、お年寄りも、浴衣を着て、いそいそと出かけたものである。
 ふるさとを離れた人が、お盆になると、提灯と、淡い裸電球の光と共に、懐かしく思い出すふるさとの風景である。
 それが、若者がふるさとを離れ、お年寄りが多くなってくるにしたがって、踊りの輪が一つ消え、二つ消えして、いつの間にか踊られなくなってしまった。
 平成20年(二〇〇八)に、十和田市在住の歌手村上勝行が、十和田市の新しい盆踊り唄『駒っこサンバ』と、『とわだ音頭』をリリースしたのを機会に、新しい盆踊りを復活しようと始まったのが「とわだ夏おどり」(黒沢一郎実行委員長・東奥日報十和田販売店会共催)である。
 また、日本の伝統的衣服で、夏の風物詩であった浴衣を復活しようと、昨年から始まった「ゆかたの似合う女性コンテスト」は、今年はグランプリ部門、ジュニア部門、シニア部門の三部門を設けた。

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 会場で行なわれた本審査には、第一審査を突破した、各部門の10名が登壇。いずれも若い人は若いなりに、シニアはシニアなりに、ジュニアはジュニアなりに、甲乙つけがたいゆかたの似合う女性ばかり。

 厳正な審査の結果、グランプリ部門は宮野恵美さんが、シニア部門は竹中美子さんが、ジュニア部門は青森市の木本麻里ちゃんが、それぞれ優勝した。
 第4回目となった今年の「とわだ夏おどり」は、市内外から約2700名が集まり、夏の夜のひと時を踊り、楽しんだ。

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 写真右上、ゆかたの似合う女性コンテスト」グランプリ部門で、見事グランプリを射止めた宮野恵美さん(中央)、準グランプリの松坂佳名子さん(左)、折田かず子さん(右)

 写真左下、同じく、シニア部門で優勝した竹中美子さん(中央)、準優勝の三浦妙子さん(左)、哘崎浅子さん(右)

 写真右下、同じく、ジュニア部門で優勝した木本麻里ちゃん(中央・青森市・4才)、準優勝の山口マリアちゃん(左・10才)、中野渡宝子ちゃん(右・10才)

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 地域の戦争体験の掘り起こしと、民衆の平和への願いの継承に努めてきた「九条を守る上十三の会」。今年も第7回目となる「第九条・平和文化祭」を行ないます。

 今年のテーマは、日露戦争前夜の八甲田雪中行軍の悲劇と、東北町(旧上北町)出身の反戦思想家大塚甲山。

 以下、詳細は次の通り。

 ◇日時/10月1日(土)午後1時~午後7時

       10月2日(日)午前9時~午後5時

 ◇会場/十和田市民文化センター

 ◇展示部門/「雪中行軍」の関係資料、戦争中の教科書、戦争中の生活用品(具)

          絵本、戦争中の日記・手紙・写真、文芸作品、絵手紙など

 ◇トーク部門(語る・見る)/

       10月1日/午後1時~音楽演奏、朗読・群読

                      体験談「15歳時の思い出」工藤智巳、紙芝居

       10月2日/午前10時~音楽演奏、ビデオ上映

                      戦争体験談「祖父を語る」升澤昭七、紙芝居

 ◇問い合わせ/℡0176-23-4271

                 写真は昨年の「九条・平和文化祭」

 

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文 小笠原カオル・監修 川村 賢司

アンチエイジングとは何であろうか。

 最近本屋に行くと、健康に関する書棚にアンチエイジングという言葉が目につくようになってきた。手元にある『広辞苑』(1991年度版)で調べてみると、「アンチエイジング」という言葉は載っていなかった。
 ということは、結構新しい言葉であるということであろう。

 私がアンチエイジングという言葉を知ったのは、塩谷伸幸(北里大学名誉教授)著『~一年で一歳若返る~アンチエイジングのすすめ』(幻冬舎刊、第三刷2004年11月発行)であった。
 この本を求めたのは、多分平成17年(2005)頃であろう。この本を読んで、「あ、何だ、俺のしてきたことをアンチエイジングっていうんだ」と思った。

 戦後、日本人は年々若くなっているんです。といったら、あなたはどう思いますか。
 私は、昭和17年(一九四二)2月10日生れだから、現在満69歳である。
 私が子供の頃、昭和20年代は、69歳というと、頭髪が薄くなる、あるいは白くなるのは遺伝的な要素が強いのでこれは別にしても、顔に深いシワがあり、いかにもお爺ちゃん、お婆ちゃんであった。中には骨粗鬆症から腰が曲がり、杖をついて歩いている人も結構いた。
 今はどうであろうか。69歳といっても、私はまだ、『少年マガジン』や『少年ジャンプ』、あるいは青年漫画雑誌『モーニング』や『ビッグコミック』を読む若者(??)である。
 あなたの周りにも、70歳、80歳、あるいは90歳になっても元気な人がたくさんいるであろう。
 『「がまん」するから老化する』和田秀樹著(PHP新書刊)によると、長谷川町子の4コマ漫画『サザエさん』の父親、磯野波平の設定年齢は54歳、母親の磯野フネの設定年齢は48歳であるという。
 『サザエさん』が、最初に連載されたのは昭和21年(一九四六)、福岡県にあった『夕刊フクニチ』である。その後、長谷川さんが結婚したため中断していたが、昭和24年(一九四九)に、今度は朝日新聞に連載が再開され、昭和49年(一九七四)まで続いた。
 つまり、昭和21年当時の54歳の親父のイメージは磯野波平であり、48歳の母親のイメージは磯野フネであった。当時の人は誰もそれに違和感を感じなかった。
 現在のイメージからみると、どう見ても磯野波平は70歳以上であり、磯野フネは70歳近い年齢に見える。それでも、俺は70歳だけれどもっと若いよと文句をいう人がいるかも知れない。
 女性に至っては48歳というと、娘盛りをちょっと過ぎた程度というくらい色気があり、若く見える人も多い。
 最近、ピンク・レディが30年ぶりに活動を再開した。二人とも50歳を過ぎているが、まだまだピチピチしている。
 むかし、『48歳の抵抗』という映画があった。昭和31年(一九五六)に製作され、当時は結構話題になった映画である。
 これは、石川達三が読売新聞に連載した『のんき夫婦』を、新藤兼人が脚色し、吉村公三郎が監督。主演は山村聡である。
 あらすじはこうである。
 あと2年で、いわゆる初老(という当時の解説)の50歳を迎える西村耕太郎。48歳の誕生日の日に、妻から、むかしなら引退する年齢ですよといわれる。
 ある日、ふとしたことから19歳の娘ユカを知り、ユカを食事に誘う。「おじさま好きよ」といわれて、酒に酔ったユカを思わず抱きしめてしまう。
 再びユカを誘い熱海に行く。耕太郎は旅館の一室でユカに迫る。ユカは、目に涙いっぱいため「堪忍して、お嫁にゆけなくなるの」という。
 そこで耕太郎は、初老の男が何て馬鹿なことをしたんだと、さめざめと泣く。
 この映画は、初老の男と若い娘の淡い恋の物語である。
 昭和31年当時は、50歳が、今は死語になっているが、「初老」であり、「おじさま」であった。
 また、ユカの、「そんなことをするとお嫁に行けなくなるの」というセリフも、女性が結婚するまで処女でいなければならないというのが、当時の一般的な倫理感であった。
 日本人が若返っているという具体的な統計はないものの、戦後60年ちょっとで、イメージとしては20歳近く若返っているということに異議を唱える人はいないと思う。
 それを別な観点、平均寿命(0歳児の平均余命)で見てみよう。
 厚生労働省の、完全生命表で見ると、大正10年(一九二一)~14年(一九二五)の平均寿命は、男性42・06歳、女性43・20歳であった。
 今から90年前は、現在のほぼ半分しか生きられなかった。女性は17、18歳で結婚したであろうから、40代でもうお婆ちゃんである。
 それが、人生50年といわれたのが、凡そ25年後の昭和22年(一九四七)になってからである。
 このときは、男性50・06歳、女性53・96歳であった。
 そして、女性が60歳を越えたのが、わずか3年後の昭和25年(一九五〇)である。男性58・00歳、女性61・5歳である。
 女性が70歳を越えたのが10年後の昭和35年(一九六〇)である。男性65・32歳、女性70・19歳であった。
 昭和22年~35年の13年間に、平均寿命が20年も伸びている。平均すると1年に約1・5歳の割合で伸びていることになる。
 この時代はどういう時代であったろうか。戦争の痛手から復興し、生活が豊になると共に、食生活が大幅に改善された時代である。
 つまり、それ以前の日本人は、良質の動物性蛋白質を摂ることが少なく、米と野菜中心の食生活で、栄養状態の悪い状況の中で暮らしていた。
 それが、経済が発展し、生活の向上と共に栄養を充分に摂れる食生活に変ってきた。
 厚生労働省の「国民健康・栄養調査」日本人の一人1日当たりエネルギー等摂取量の調査によると、昭和21年(一九四六)のエネルギーの摂取量が1903キロ㌍だったものが、昭和35年には2104キロ㌍と200キロ㌍増えている。
 以下、昭和21年と35年を対比すると、タンパク質は、59・2㌘だったものが69・7㌘。うち動物性タンパク質が、10・5㌘から22・3㌘へと倍以上増えている。脂質が14・7㌘から20・3㌘。炭水化物が386㌘から411㌘。カルシウムが253㌘から338㌘。但しビタミンCだけが173㌘から76㌘と、大幅に減少している。つまり、野菜中心から肉や魚貝類の食生活へと変わってきていることを示している。
 これが、ストレプトマイシンなど、医薬品や医療の発達もあるが、食生活の改善が、日本人の平均寿命を短期間に大幅に伸ばしてきた最大の要因であることがわかる。
 女性が80歳を越えたのは昭和59年(一九八四)で、男性74・54歳、女性80・18歳であった。
 寿命が70歳から80歳を越えるまでは、伸びが鈍化し24年もかかっている。
 平均すると1歳寿命が伸びるのに2・4年かかっている。60歳から70歳を越えるまでは、1歳寿命が伸びるのに1・3年だったものが70歳から80歳を越えるのに倍近くの年数がかかっていることになる。
 が、ここで女性の平均寿命が世界一になった。
 『もっともらしい健康常識』川村賢司著(土屋書店刊)によると、
 「最も平均寿命の短いのはスワジランドの三五歳で、アフリカの二六ヶ国とアフガニスタンの計二七ヶ国は平均寿命五〇歳未満だ」としている。
 アフリカは世界で最も貧しい国である。つまり、日本の戦前のように、貧困が寿命を短くしていることがよくわかる。
 平成21年(二〇〇九)の平均寿命は、男性79・59歳、女性86・44歳である。
 80歳~86歳、6年間寿命が伸びるのに、実に25年もかかっている。
 これを見てもわかるように、今後、平均寿命が急激に伸びることはないが、寿命が伸びたことによって、実は大変困ったことが起きてきた。
 その一つは、寝たきりのお年寄りが増えたこと。
 二つには、がん患者が増えたことである。年齢別がん患者数(平成20年)では、40歳~49歳ではわずか6㌫であったものが、50歳~59歳で14・9㌫と急激に、しかも大幅に増え、75歳~79歳は16・9㌫とピークに達する。がんは老人病の一つであるということもできる。
 三つ目には、それによって、医療費、福祉の予算が大幅に増えたことである。
 この『実践的アンチエイジング講座』は、健康でぴんぴんころり、この三つを克服するための講座である。
間は必ず死ぬ。それは、40歳、50歳で死ぬか、80歳、90歳まで生きられるか、あるいは100歳を越えてまで生きられるか。いずれにしても最後は死ぬのである。
 そのとき、どう死ぬか。私は、その人の人生の締めくくり方によって、その人の一生が幸せであったかどうかが決まると思っている。
 若いとき幸せであっても、晩年は必ずしも幸せでなかったという人をたくさん知っている。
 あくまでも願望ではあるが、私は、できれば死の直前まで働き、あるいは活動し、できるだけ家族や社会に迷惑をかけないように死にたいと思っている。
 老後という言葉がある。一般的には定年後、つまり退職して年金暮らしになった以後の人生を指して使われる場合が多い。
 老後について、私はこう思っている。
 たとえ、80歳になろうが90歳になろうが、働くなり、様々な社会的活動、あるいは研究をしているうちは、つまり社会の一員として働き、活動しているうちは現役である。
 まさに生涯現役。何歳であろうが、現役であるうちは老後ではない。
 私の祖父は満83歳で亡くなった。60歳代で目が白内障になり、薄ぼんやりとしか見えなくなったので、主な仕事は留守番であった。しかし、毎日ラジオを聴いていたので、世の中のことは我家の誰よりも知っていた。
 留守番という仕事ではあったが、ちゃんと用を成していた。
 その祖父が亡くなったのは5月の、ちょうど田植の時期であった。私たちはみな田んぼに行き、祖父は留守番をしていた。お昼近くになったころ、村の人が、「お前方の爺様が倒れた」と知らせに来てくれた。
 それは大変だと慌てて家に戻った。祖父は布団に寝かせられていたが、私たちを見るなり、
 「今、田植の忙しいときに何で帰って来たんだ。早く行って田植しろ」と、逆に怒られてしまった。祖父は、農家にとって田植がどんなに大事か知っていた。
 そして1週間後、田植が終わるのを待っていたかのように、眠るように死んだ。
 私はそのとき、人間は意思の力で死を伸ばすことができるんだなと思った。
 祖父は、病気をすることもなく、死の直前まで留守番という、我家にとっては大事な仕事をしていた。つまり現役であった。
 この祖父の老後は、倒れてから死ぬまでのわずか1週間である。
 私の母は82歳で亡くなった。入院するまで、父の食事をつくるなど家事をこなし、家で食べるだけではあるが野菜を作っていた。病院には週1回ぐらい通っていたが、主婦としては現役であった。
 その母を救急車で病院に運んだのが3月19日である。そのとき医師から、肺機能低下、間室肺炎、喘息、呼吸機能低下、薬の副作用など、たくさんの病名をもらった。それでも父の食事支度はしていた。
 そして3月26日に入院。4月18日に亡くなった。母の老後は23日である。
 私の高校時代の恩師三浦啓一先生は、84歳まで十和田准看護学院の学院長をしていた。つまり84歳までは現役であった。病気がみつかり通院していた。病気も大分良くなり、10月16日、検査のために病院に行った。医師からちょっとおかしいから入院して下さいといわれた。本人はどこも痛くも痒くもない。そして5日目、突然に、医師も予測がつかないほど全く突然に、苦しみもせず、命が風に吹かれて消えるかのように亡くなった。三浦先生の老後は7ヵ月と21日であった。
 平成16年(二〇〇四)2月28日、東京・きもの美術館で、南部裂織保存会会長の管野暎子さんが、「南部裂織保存会30年の歩み」と題して講演をした。
 それから3日後の、3月3日の東奥日報の朝刊に、管野さんが東京で講演「裂き織の魅力を熱く語る」という記事が写真入りで載っていた。
 そして、同じ日の夕刊に、3月2日午後10時12分、肝硬変のために管野さんが亡くなったという死亡記事が載っていた。
 私はびっくりした。わずか2日前に東京で講演していた人が何故と思った。
 話しを聞くと、管野さんは自分の病気のことも、多分そう長く生きられないだろうということも知っていた。だけど、南部裂織を普及するためにこれだけはやって置かなければならないということを心に決めていた。その最後の仕事の一つが、全国の裂織ファンに、裂織の歴史と文化を伝えることであった。やらなければならないという意志の力で命を保っていたわけである。その仕事を終えた途端、緊張の糸が切れたかのように命の灯が消えてしまった。壮絶な死であった。
 管野さんの享年は67歳と若かったが、命の炎を燃えつくした一生であった。
 私が若い頃、東京の荒馬座という劇団にいた。その劇団を一緒につくった文ちゃんという仲間がいた。荒馬座に青春を捧げ、一生独身を通した。
 劇団を定年で退職してから、地域でボランティア活動を行っていた。その文ちゃんのアパートのポストに、新聞が3日分ぐらいたまっていた。おかしいと思って部屋に入ってみると、もう冷たくなっていた。いわゆる孤独死である。私と同い年で享年69歳であった。
 今年(二〇一一)3月10日に、劇団の仲間らが中心となって、文ちゃんを偲ぶ会が行われた。偲ぶ会に友人や知人など170名が集まり、文ちゃんを語り、また数十年ぶり会うむかしの仲間たちと旧交を温めた。文ちゃんは、逝くのがちょっと早かったけれど、幸せな
人生だったんだなと思った。
 ここで紹介した人たちはまさに生涯現役であり、死の直前まで人生を全うした人たちである。
 私の人生の師である、元青森大学学長の盛田稔先生は、大正6年(一九一七)3月生まれで、満94歳。あと10年は研究をしたいといっている。盛田先生と人生の締めくくり方について、よく話しをする。盛田先生は、机に向かって仕事をしていて、ご飯ですよと呼ばれる。アラ返事がないわね。眠っているのかしら、と行ってみると、机にうつ伏せて死んでいた。そんな死に方をしたいと、死についての夢を語る。
 死にもロマンがある。盛田先生のように生きたいと、私はいつも思っている。
 私が40歳になったとき、どう死ぬかを考えた。私の人生は80歳まであと40年ある。ちょうど人生の折り返し点である。その40年を死ぬまで働きたい。死ぬまで働けき続けられる仕事を見つけよう。そう思ってサラリーマンをやめた。そして1年後に現在の仕事を見つけた。
 もちろん長い人生の中で、病気だけでなく、事故や怪我、災害に遭い死ぬ場合もある。それはその人の運である。
 私は、どう死ぬかということは、つまるところどう生きるかということ、その人の生き様であると思っている。
 死ぬまで社会の一員として働き、活動し、あるいは研究をし、死ぬまで病気もせず、家族にも社会にも迷惑をかけず、人生を全うする。
 しかし、ここで紹介した5人のうち、4人は多分死因に病名がつくであろう。できれば私は、私の祖父のように、ぴんぴんころり、自然死(老衰)したいと思っている。
 私は仕事柄、新聞のおくやみ欄には必ず目を通す。
 ちなみに、平成23年(二〇一一)6月7日号の朝日新聞(青森県版)のおくやみ蘭を見ると、最高齢で亡くなった方は97歳、続いて95歳、93歳、92歳と、27人中90歳以上が6人もいた。
 90歳以上ということは、その多くは寿命が尽きた、いわば老衰死であろう。大往生である。
 長寿全国ワースト1の青森県であるが、90歳以上は立派である。
 全国ではどうであろうか。
 今年(二〇一一)4月、京都に住む木村次郎右衛門さんが、113歳で、男性の長寿世界一と認定された。
 女性では、佐賀県に住む長谷川チヨノさんが114歳で日本一、世界第三位の長寿である。
 世界に目を向けてみると、これは過去の記録であるが、男性としての世界最高齢記録は、沖縄県の泉重千代さん(一八六五~一九八六)が120歳。女性の世界最高齢記録はフランスのジャンヌ・カルマンさん(一八七五~一九九七)の122歳である。
 以下、男性も女性も119歳、118歳、117歳と、120歳を越えたひとはいない。
 一般的には、ひとの最大寿命は凡そ120歳とされている。
 他の動物はどうであろうか。
 身近な動物では、犬は、これは犬種によっても多少違うが、凡そ10~14歳。猫は凡そ10歳~15歳。馬は凡そ10歳~20歳ぐらいである。
 日本では、長寿の目出度い動物として崇められている鶴と亀。鶴は千年亀は万年といわれているが、実際には、鶴は凡そ20年~30年。亀はさすがに長く70年~80年といわれている。
 逆に、寿命の短い動物では、ハツカネズミは1年ぐらいである。
 ということで、地球上で一番長生きしている動物は人間ということができる。
 ちょっと話しが横道に反れるが、セミの寿命が一般的には一週間とか二週間とかいわれているが、それは地上に出て交尾をし、子孫を残すための時間で、実際にはセミは幼虫として土の中で5、6年暮らしている。したがってセミの寿命は5、6年、あるいは種類によってはそれ以上ということになる。
 植物の寿命がもっと面白い。昭和26年(一九五一)に、千葉県検見川の縄文遺跡近くの地下6㍍の地層から東大農学部の大賀一郎教授が、蓮の種を3粒発見した。そのうちの一粒が発芽し、現在大賀ハスとして全国に普及している。
 このハスの実は約2000年前のものであった。つまりこのハスの寿命を2000年といっていいのかどうかはわからないが、種子という形で確実に2000年生きていたわけである。
 このように、地球上には様々な命の形がある。
 さて、話しを本題に戻そう。
 人間は、約120年生きられる。現在日本では100歳を超えるひとが四万四千四百四十九人いる(平成22年)。日本人は、人間の寿命の限界である120歳に限りなく近づいているということになる。
 すべての動物は、誕生し、成長し、老化し、やがて死ぬ。
 動物が死ぬ、あるいは寿命が尽きるというのは、老化に原因がある。逆にいうなら、老化の進行は動物によって違い、その老化の進行状況が、その動物の寿命ということになる。
 老化についての研究がなされ、『老化はなぜ起こるか』(S・M・オースタット著=吉田利子訳)草思社刊)、『ヒトはどうして死ぬのか‐死の遺伝子の謎』(田沼靖一著)幻冬舎刊、『寿命論‐細胞から「生命」を考える』(高木由臣著)日本放送出版協会刊など、老化についての本がたくさん出されている。
 ひとは何故老い、死ぬのか。本にすると前述のように数冊になるが、基本的には次ぎのようなことであるらしい。
 成人の身体は凡そ60兆個の細胞でできている。その細胞が毎日3000億個~4000億個死んでいる。
 細胞が3000億個?、そういわれても私たちにはピンと来ない。細胞3000億個を重さに換算すると約200㌘、凡そステーキ1枚分であるそうである。その200㌘の死んだ細胞は皮膚の場合は垢として剥がれ落ち、内臓の場合は便などと一緒に排出される。
 一方、細胞分裂によってその死んだ分の細胞が新しく補われる。つまり新陳代謝である。
 新陳代謝は、皮膚は28日、その他は3ヵ月~1年ですべて新しい細胞に置き換えられる。
 しかし、この新陳代謝が永遠に行なわれるわけではない。歳と共に、ホルモンの出が悪くなったり、活性酸素が細胞を傷つけガン化したりして、新しくつくられる細胞より死ぬ細胞の方が多くなってくる。
 顔にシワやシミができる、骨がスカスカになってくる骨粗鬆症、あるいは脳細胞が萎縮するアルツハイマーなどがそれである。それは内臓とて同じである。そして体重も減少する。
 その新陳代謝にも限度がある。その新陳代謝の回数がDNAの中に組み込まれている。ひとの場合は、その限界が120歳というわけである。
 頭が白くなるのや薄くなるのは、これは遺伝的要素が強い。が、70歳、80歳、あるいは森光子のように90歳になっても若々しいひとがいる。かと思うと、同じ年齢でも、いかにもお年寄りですというひともいる。
 その違いはどこからくるのか。
 老いと死のメカニズムが同じであっても、老いの進行は、実はそのひとの心の持ちようや運動、食生活によって大きく変わってくるのである。
 そのメカニズムを知り、出来るだけ老いの進行を遅らせ、木村次郎右衛門さんのように寿命の直前まで健康で、人生を全うしようというのが、この実践的アンチエイジング講座である。
 私はあと30年、100歳まで仕事をしたいという。
 すると友人の一人は、お前の元気だったら出来るんじゃないという。もう一人の友人は、そんなこといったって、歳をとるとガンにかかるリスクも高くなるわけだし無理無理と、二手に分かれる。
 私は40歳のとき、80歳まで働こう。そのためにはサラリーマンでは駄目だと会社を辞め、80歳まで出来る仕事を探した。それが現在の仕事である。それから約30年、70歳を目前にした私は、酒は年齢にしては人並み以上飲むし、仕事も現役バリバリである。
 平成16年(二〇〇四)に、十和田市民大学で、70歳でエベレストに登頂し、最高齢記録を達成したプロスキーヤーの三浦雄一郎さんを招いた。
 映像を交えたエベレスト登頂の話に、私は感動した。
 ところが、その翌々年(二〇〇六)だったろうか、東京都老人総合研究所で、三浦雄一郎さんと、その父三浦敬三さんの二人の体力テストしたところ、雄一郎さんは20代の若者と同じ体力があり、100歳になっていた父敬三さんの大腿骨の強度は、60歳並であることがわかったと新聞に報道された。
 私はその記事を見て、あ、人間って、努力することによって40歳ぐらい若返ることが出来るんだと思った。
 それじゃ、私も努力して、40歳まで行かなくても、20、30歳ぐらいは若返ろう。そう思って、私は仕事年齢を90歳まで引上げた。
 ところが、私の尊敬する、私の人生の師である、元青森大学学長の盛田稔先生は、大正6年(一九一七)3月15日生まれの満94歳である。そして、現在なお青森県文化財保護協会会長の要職を務め、歴史研究に没頭している。
 大正生まれの盛田先生が94歳で現役なら、昭和生まれの私は100歳まで仕事ができない筈がない。そう思って仕事年齢を100歳まで引上げた。
 100歳まで仕事をしようと、仕事年齢を100歳まで引上げたのは、こんなごく単純な発想である。と、同時に私は、100歳まで仕事をするのはそう難しいことではないと思っている。
 しかし、100歳まで仕事をするにしても、友人の一人がいうように病気をしなければの話である。
 病気をしない生き方があるのか。まず、ひとは何故病気をするのかを知らなければならない。
 以下、『人はなぜ病気になるのか』北村裕夫著(岩波書店刊)を参考に、ひとと病気について考えてみよう。
 現生人類(ホモ・サビエンス・サビエンス)が地球上に出現したのは凡そ15万年ぐらい前とされている。
 以来、人類が生きるための闘いは、飢えと寒さ、そして人間より強い動物、虎や豹など外敵との戦いであったろう。
 その時代に、人間の命を落とすほどの病気があったのかどうかわからない。
 参考になるとすれば、人間の全く手の入らない野生動物の世界であろう。
 ひとが病気をしたかどうかは、歴史時代に入らなければわからない。
 記録されている一番古い病気はペスト(黒死病)である。これは『旧約聖書』にも記載されているという(『人はなぜ病気になるのか』)。ペストは、六世紀~八世紀半ばに、ヨーロッパを中心に大流行し、人口の三分の一が亡くなったという、人類の歴史上最も致死率の高かった恐ろしい病気、伝染病であった。
 この伝染病の病原体であるペスト菌は、一八九四年(明治27年)に、パスツール研究所の細菌学者アレクサンダー・イェルサンと、ロベルト・コッホの指導を受けた細菌学者北里柴三郎によって発見され、ストレプトマイシンなどの発見によって克服された。
 また、一九一八年(大正7年)に、アメリカから始まったスペイン風邪は、全世界に飛び火し、感染者は全世界で約6億人、死者は最終的に4000万人~5000万人といわれ、第一次世界大戦の死者をはるかにうわまわった。日本でのスペイン風邪により死者は39万人であった(『ウィペディアフリー百科事典』)。
 その他、感染症では、コレラ、発疹チフス、腸チフス、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、などがあったが、これら感染症の多くは、ペニシリンやストレプトマイシンなど抗生物質の発見やワクチンの開発によって、その多くは克服されてきている。
 しかし、世界の三大感染症のうち、HIV=エイズ(後天性免疫不全症候群)は、その感染者は世界で3320万人と推定され、210万人が死亡している。特に人口過密な中国やインドで増えるものと推定されている。
 結核は、一時は収まったと思われていたが、発展途上国を中心に年間900万人が発生しているという。
 マラリアは、日本ではほぼ撲滅されたが、世界で2億5000万人が感染し、88万人が死亡しているという(三大感染症世界基金日本支援委員会)。
 これらの病気は、外的要因、つまり、身体の外部から体内に侵入してきた細菌やウイルスなどによって引き起こされる病気である。
 HIVのように、まだ完全な治療薬が発見されていないものもあるが、その多くは抗生物質等によって克服されてきている。
 さて、現在の日本人の死亡原因を見てみよう。
 第1位は悪性新生物(30㌫)。つまり各種がんである。
 第2位は心疾患(15・9㌫)。つまり狭心症、心筋梗塞、不整脈、弁膜症、動脈瘤、心不全などである。
 第3位は脳血管疾患(11・1㌫)。つまり 脳梗塞、脳出血、クモ膜下出血などである。
 以下、肺炎(10・1㌫)、不慮の事故、老衰、自殺、腎不全、肝疾患と続く。
 この悪性新生物、心疾患、脳血管疾患の上位三つで全死亡率の57㌫と6割近くを占めている(「厚生労働省平成20年人口動態統計」)。
 逆にいうなら、この上位三つによる死亡を防げたなら、平均寿命がグーンと上がるということになる。
 この上位三つの病気は、内的要因によるもの。つまり、食生活や飲酒、嗜好品、化学物質など生活習慣からくるものであり、その多くは自己責任による病気である。
 ということは、これら三つの病気は、生活習慣を変えることによってかなり防げる病気ということになる。
 最近、本屋に行くと、『病気にならない生き方』(新谷弘実著)サンマーク出版刊、があったかと思うと、『がんを治す食事療法』(帯津良一・上野圭一著)法研刊、『「がんが食事で治る」という事実』(済陽高穂・星野仁彦著)マキノ出版刊、『「体を温める」と病気は必ず治る』石原結實著)サンマーク出版刊など、病気にならない生き方どころか、がんさえ食生活の改善、つまり生活習慣の改善でもって治るというところまで来ている。
 このように、内的要因による病気は、絶対ということはいえないにしても、生活習慣を変えることによって、可なりの高い確率で病気にならない生き方ができるものと私は思っている。

 一般の健康に関する本を見ると、健康になるには、ああしなさい、こうしなさい、ということは書いているが、それが身体のどの部分に、どのように影響して健康になるのかということを書いている本はあまりない。
 あるいは、様々な健康食品、健康サプリメントにしても同じである。
 健康サプリメントは、血液サラサラやダイエット、目の疲れ、美容など、何百種類という様々なサプリメントが売りに出されている。
 知っている人から勧められたという方も多いに違いない。
 中には、ともかく身体にいいからといわれて買わされたという人もいる。
 健康は命より大切だという言葉を聞いたことがある。これは笑い話かと思ったら、結構まじめな本で、アメリカの医療政策を紹介した『健康のためなら死んでもいい』(藤松忠夫=㈱ゾディアック刊)という本もあった。
 いずれにしても、異常なほどの健康ブームである。
 私の知っている人で、様々なサプリメントに、年間100万円使っているという人がいる。その人の顔を見ると、何故か顔がむくんでいた。
 平成22年(二〇一〇)の日本人の平均寿命が、女性86・39歳で、26年間連続世界第1位となった。男性は79・64歳で、過去最高となり、香港、スイス、イスラエルに次いで世界第4位に伸びた。
 また、100歳以上の人が四万四千四百四十九人(二〇一〇)である。
 これら長生きした人たちは、サプリメントを飲んで長生きしたわけではない。
 しかし、健康でありたい、長生きをしたい。これは誰でも同じ願いであろう。
 健康、あるいはアンチエイジングを考えるとき、人間の身体の、それぞれの器官なり臓器がどのような働きをし、どのようにして生命を維持しているのか、それぞれの機能について知ることが大事であると、私は、思っている。
 そのことによって、サプリメントなどに頼らない、身体の自己管理ができるであろう。
 手元に、イギリスBBC(英国放送協会)で放送され、感動を呼んだ『ドクターアリスが教える 長寿の秘密』(ユーキャン発行)のビデオがある。
 これは、人間の身体の器官や臓器が、どのような働きをし生命を維持しているのかを、解剖学的に映像で紹介したものである。
 これをもとに、人間の身体のそれぞれの臓器・器官の働きと、どのようにして命が維持されているかを考えてみたい(参考資料『からだのしくみ辞典』浅野伍朗監修=成美堂出版刊)。
 まず、私たちの身体の約60㌫が水である。水の他、タンパク質、炭水化物、脂質、カルシウムなどで構成されている。
 別な見方をすると、それらが約60兆個という細胞という形で存在し、その細胞が新陳代謝を繰り返し、常に新しい細胞に生まれ変わっている。
 また身体は、骨格系、筋肉系、内臓系で作られ、内臓には循環器系、呼吸器系、消化器系、泌尿器・生殖器系、内分泌系、感覚系などがある。
 以下、BBC放送に基づき紹介しよう。

1、腎臓
 まず、最初は腎臓である。
 腎臓は、ソラマメのような形をし、腹部の後方、肋骨の内側の左右に1対、つまり二つあり、腎動脈が流れ込んでおり、心臓が送り出す全血液の四分の一が、この腎臓を通っている。
 腎臓の主要な働きは、血液を濾過して尿をつくり、老廃物を排泄する。つまり、血液の浄化である。
 具体的には、①身体の水分や塩分の量及び酸性度を調整する。②血液を濾過して、血液中の余分な水分や新陳代謝等によってできた老廃物を尿として取り除く。③糖とタンパク質、脂肪の再吸収する。④血圧を調整するなどである。
 この腎臓が異常をきたすとどうなるであろうか。
 大雑把にいうと、血液が濾過できなくなるために、最終的には、血液を体外に取り出し、人工腎臓で濾過する、いわゆる人工透析を死ぬまで行なわなければならなくなる。
 あるいは、脳死の人から腎臓を貰い、生体移植を行なわなければならない。
 腎臓は、大変我慢強い臓器である。そのため、腎臓機能が20㌫ぐらいに下がるまで、身体に異変や不調を感じない。腎不全などが見つかったときはかなり進行している。
 また、腎臓病は、心筋梗塞や脳梗塞を引き起こす原因になっている場合も多い。
 日本には、こうした腎臓病(CKD)患者が約1300万人、なんと、成人の8人に1人といわれている(東邦大学医療センター)。
 腎臓病は、①糖尿病によるもの。②高血圧や加齢に伴う動脈硬化によるもの、③糸球体(腎臓内の毛細血管の束)腎炎によるものなどがある。
 腎臓病にならないためには、①まず糖尿病、高血圧、高脂血症にならないこと。②定期的な健康診断を受けることである。
 つまり、腎臓病も成人病の一つで、自己責任的部分が大きな比重を占めている病気ということができる。
 腎臓病になった場合、腎臓病は治りにくい場合が多いので一生付き合う覚悟が必要である。

odasima1.jpg全米プロ写真家協会展で4度目の優秀賞

 「若い人の感性はやっぱり素晴らしいです。私もプロとして、技が曇らないように常に感性を磨いて行かなければならない。そんなこともあり、世界最高峰のプロの写真コンテストである全米プロ写真家協会展に挑戦しているんです」と語る小田島さん。
 このほど行なわれた全米プロ写真家協会主催のコンテストに出品。3点出品したうち、2点は入選、1点は優秀賞に当たるローンコレクション(写真)に輝き、技術と感性の確かさを実証した。
 全米プロ写真家協会展には、全世界から約2万人、約7万点の応募がある。
 小田島さんは、この協会展に、一九九九年(平成11年)より応募、これまで入選5回、優秀賞4回受賞している。 

odasima2.jpg 写真は、小田島幸寿さんと、全米プロ写真家協会主催のコンテストで優秀賞受賞した「Beautiful Uchikake」

kawayo1.jpgグリーンファーム弦楽合奏団演奏会

 元N響のヴァイオリン奏者前澤均さんの弟子たちの、カワヨグリーン牧場で行なわれる夏合宿。年に1回、合宿が終わったこの夜だけ結成されるグリーンファーム弦楽合奏団。
 このカワヨグリーン牧場での夏合宿は、ナント24年目を迎える。
 今年の合宿の参加者は、高校生から、東京芸大や桐朋学園音大等の在学生、ウィーン国立音大やベルリン芸術大等、外国音大留学生など総勢16名。
 演奏は、『ディヴェルティメント ニ長調 K136』(モーツァルト)、『2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV』など4曲が演奏された。
 特に、『2つのヴァイオリンための...』では、前澤さんと、前澤さんの娘さんの悦子さんが競演。息のあった演奏を聴かせてくれた。
 閑静な牧場のロッヂで行なわれる、この演奏会を楽しみにしている音楽ファンもあり、参加した約100名は、水準の高い演奏を堪能したようであった。

 

kawayo2.jpg                 写真は、グリーンファーム弦楽合奏団と前澤均さん

issinntei.jpg倫理法人会モーニングセミナー於

 五所川原を拠点に、八戸、十和田、むつ、函館、盛岡などで9店舗を展開する焼肉レストラン一心亭。
 一心亭は、昭和60年(一九八五)創業者である小野勝章さんが、五所川原市に開店したのが最初であった。
 当時、焼肉店というと、肉を焼く煙がもうもう、臭いが衣服にしみつくというのが普通であった。
 それを、今では当たり前になっているが、臭いを心配しないで行ける、若いカップルで行ける、家族連れで行ける、宴会ができるなど、それまでの焼肉店の常識を破った焼肉レストランとして開店した。
 それが大当たり。平成元年(一九八九)に八戸店、平成2年(一九九〇)に十和田店、そしてむつ店、北海道へと多店舗化を進めて行った。
 小野社長は、昭和41年(一九六六)4月、五所川原市出身。五所川原高校、千葉商科大学卒業後、接客をホテルで修業し、平成2年に父親の経営する一心亭に入社。十和田店開店と同時に、十和田店の責任者として十和田市に移住。10年ほど十和田市にいた。
 その後新しい店舗を立ち上げると、それを軌道に乗せるなど現場を歩いてきた。
 しかし、平成19年(二〇〇七)に、創業者である初代社長が68歳の若さで他界。同時に小野さんは二代目社長に就任した。
 小野さんは、
 「父が亡くなって初めて創業者である父の偉大さを知りました。二代目となると、何かにつけどうしても初代と比較されます。やはり、私の経営をして行かなければなりません。
 そのために、社内改革を進めると同時に、感謝し正直であること、良く聴くこと、熱く語ること、多いに議論することなど、経営方針を立て、経営に当たってきました」と語った。
 なお、小野さんは、五所川原倫理法人会の副会長でもある。

 写真は、倫理法人会モーニングセミナーで、二代目の苦労を語る一心亭の小野敦司さん

 asiyu.jpg ㈱七戸物産協会(宮澤公生代表取締役)ではこのほど、道の駅しちのへに、足湯とジェラード店をオープンした。
 足湯は、北海道二股温泉の石灰華を使用した人工温泉である。
 泉質は、ナトリウム・カルシウムを多く含んだ塩化物泉で、二股では「2週間の湯治で椎間板ヘルニアが治らなければ代金を返す」と謳ったほどの良泉である。
 入湯は無料。観光客やドライバー等で賑わっている。
 ジェラードを食べながらどうぞ。

urusihata.jpg 第15回全国草地畜産コンクールで、トップ賞の農林水産大臣賞を受賞した漆畑善次郎・しづゑさん夫妻。
 「祖父がベゴ気狂いといわれたほど牛が好きでした。私も小学校4年生の頃から、お前は長男で跡取りだから牛を覚えろと、牛飼いをさせられました」と語る。
 こうして、学校を卒業すると同時に農業に従事。約40年後に見事な日本一、農水大臣賞を受賞。青森県の農業を全国に知らしめた。
 その受賞理由は、「家族労働を中心に、従来の生産農業から、消費者まで直結した6次産業化を構築。夢の持てる農業を実現した」とある。
 「6次産業」化?。聞きなれない言葉である。
 6次産業とは、第一次産業の1、第二次産業の2、第三産業の3を足して6次とした造語。つまり、生産から、流通、加工、販売までを一貫して行なうという意味である。
 一般の肥育農家は、子牛と肥育牛の生産。稲ワラの堆肥と交換で終わっている。
 が、漆畑さんは、利用率が低下している公共牧場地、耕作放棄の水田を借用し乾牧草の販売。さらに、いったん肉牛として市場に出したものを、牛肉として買い戻し、自らが経営する焼肉店(十和田湖和牛‐牛楽館)で販売している。
 自分の生産した肉牛を直接消費者に届ける。つまり、生産から消費までの一貫した経営を行っている、6次産業のモデルとして高く評価された。
 漆畑善次郎。昭和25年(一九五〇)12月、旧十和田湖町に生まれる。法奥中、青森県営農大学校卒業。卒業と同時に家業の農業に従事し、現在に至っている。

 

urusihata2.jpg                                         写真は、丸々と肥った黒毛和種と漆畑善次郎さん

 netukyu-2.jpg初秋の候 暑い日が続いておりますが、各位におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて、んぐりの森・山楽校恒例となった、十和田市秋祭りに中日に、熱気球の打ち上げを行ないます。
 ただし、雨天及び風速3㍍以上の場合は中止とさせていただきます。
 
           
・日時/9月10日(土)午後4時~
 (都合のつく方は午後3時に集まって下さい)
・会場/十和田市陸上競技場
問い合わせは、℡090-2602-8097(小笠原)迄

 

netukikyu-1.jpg 

 9gatutorekkingu2.jpg初秋の候 各位におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
 東日本大震災もようやく復興へ向かったかと思った矢先、今度は台風12号が、死者34人、行方不明57人という被害をもたらしました。十和田地域は災害の少なく住むに最高の地域だと改めて思いました。
 さて、9月例会は、1時間ほど、常歩、速歩など乗馬の基本レッスンを行い、湯ノ台から蔦川上流の秘境猿倉大滝のあるところまで行きます。

 以下、日程は次ぎの通り。
          
基本レッスンと秘境猿倉大滝
・日 時/9月25日(日)午前9時湯ノ台食堂前集合
     *24日雨天の場合は10月2日(日)同時刻
・コース/湯ノ台-蔦川上流秘境猿倉大滝
・会 費/6,000円
     *夜6時~慕情にて懇親会2,000会費
*申し込みは、℡080‐1815‐1624(佐藤)
         TEL090‐2602-8097(小笠原)迄

 写真は、秘境猿倉大滝と、蔦川沿いのブナ林

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 事故の法則(ハインリッヒの法則)というものがある。一つの重大事故の背後には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというものである。
 日本におけるこれまでの原発の事故を拾ってみると、平成11年(一九九九)に起きた東海村の臨界事故のみならず、小さな事故は300どころか無数にある。外国では、一九七九年(S54)のアメリカのスリーマイル島の原発事故、一九八九年(H1)の旧ソ連のチェルノブイリの原発事故は記憶に新しい。
 が、日本の原子力関係者は、原発の安全神話に呪縛され、それらに全く耳を傾けていなかったことが、東奥日報に連載された、『東電元幹部らの悔恨』で生々しく語っている。
 元東京電力常務で、福島第一原発の所長を務めたことのある二見常夫さん(68)は、アメリカGE(ゼネラル・エレクトリック)の軽水炉は、改善の余地はほとんどない。東電はネジ一本も変えるなとさえいっていた。
 元東電副社長で、元日本原燃サービス社長の豊田正敏さん(88)は、アメリカの原発は内陸部に建設されていたために竜巻やハリケーン対策はとっていたが、津波は全く考慮に入れていなかった。そしてその図面さえ見ていなかったというのである。
 元東電副社長で、日本原燃社長として青森県に赴任したことのある竹内哲夫さん(77)は、原発の安全神話をつくり出したのは、「地元住民や、反対派からの追及を極度に恐れた」からだという。
 そして、国の地震調査研究推進本部が、平成14年(二〇〇二)に地震の発生率を公表したのを受け、東電が15㍍を越える津波を想定したのが平成20年(二〇〇八)で、それを原子力安全・保安院に報告したのは、大震災発生の4日前、3月7日であったという。福島の原発事故は起こるべくして起こったことは明らかである。
 菅首相が退陣する。様々いわれてきたが、彼は一つだけ歴史に残ることをした。それは脱原発である。
  7月13日、菅首相は「脱原発」の記者会見をした。これに賛同した国民も多かったろう。脱原発か推進かは、今もって収束の見通しつかない福島の原発の事故の後だけに、国論を二分することがらである。
 しかし、それから2日後、あまりもの波紋の大きさに驚いた菅は、国会で「あれは私自身の(個人的)考え方」でしたと軽々しく弁明した。
 映画『男はつらいよ』で、いつも同じ間違いを繰り返す寅さんにおいちゃんが、「バッカだなー」という。菅も「バッカだなー」。
 脱原発かどうかは、私たち国民が、目先ではなく、50年、100年先を見据えて考えて行かなければならないことである。
 菅の「脱原発」の記者会見後、様々なことが明らかになってきた。
 まず第一 に、昭和30年(一九五五)に原発を導入するための欧米へ派遣した政府調査団の報告書が偽装されていた。第二に、電力業界の強い意志で、独立した安全審議機関がつぶされていた。第三に、反原発は左翼であるというレッテルを張り、世論の誘導を行なった。第四に、原発設置の自治体に予算の半分以上もの金を与え黙らせた。第五に、原発は安いは全くの虚構であった。第六に、原発は安全だという宣伝のために、マスコミに10年で9300億円もの金を、広告費という名目でばらまいた。第七に、九電が社員を使って世論操作を行なっていたなどである。
 原発は、パンドラの蓋を開けるごとく、暴走したら人間の手で簡単に止めることができない。それは福島の原発事故で改めて思い知らされた。
 脱原発に不安を持つ人たちは、日本の豊かさが損なわれないかということであろう。実はそれも虚構である。
 このほど発表された日本の貧困率が、原発で豊かなはずであるが、なんと16㌫、国民の6人に1人である。こんな日本を豊かな国だといえますか。
  「こりゃ、子どもたちにいい遊び場だナ」、友だちを、真暮沢のパークゴルフ場に連れて行ったときのことである。その言葉を聞き、瞬時に頭に浮かんだのが「どんぐりの森・山楽校」であった。
 私は農家の4代目である。が、別な仕事を持っており、農業は農繁期に手伝うだけであった。父が80歳になったころ、もう農業は疲れたといった。じゃ、農業で遊ぼうよと行って、草地だったところにシイタケの原木にとコナラ(どんぐりの木)を植え、畑を芝生にしてパークゴルフ場に、田んぼには花ショウブを植えていた。
 友だちは、そのどんぐりの木を見て言ったのだ。
 平成18年(二〇〇六)9月、どんぐりの森・山楽校をやりませんかと呼びかけたところ、十数人が集まった。そして北里大学名誉教授の川村清市さんという優れた指導者を塾長に迎え、翌平成19年(二〇〇七)にNPO法人化した。
 昨年、緑化財団関係の補助金をいただき、6月4日にブナの植樹祭を行なった。これには、市内外及び在日アメリカ人など150名が集まり、記念樹を植えた。
 そのプレートには、「一日も早く兄夫婦が助かりますように」と書いた、身内を東日本大震災で亡くした人も参加していた。また、「キカンボーで泣き虫リョウ、10年後はどうなっているか楽しみです。おじいちゃん」と、孫の成長と木の生長を重ね合わせたのもあった。「H23・10・23結婚で~す 純・尚子」と、幸せを報告したプレートもあった。これらプレートに書かれたメッセージをみると、当たり前の、普通の幸せがいかに大事かを感ずる。
 どんぐりの森・山楽校では、春は山菜採り、夏はホタルキャンプ、また炭焼きなどを行なっている。
 これを機会に、どんぐりの森が市民の森になって行ければと思っている。
 攻撃的な人ほど、創造性のない人間が多い。
 たとえば菅さんだが、野党時代は、あれほど舌鋒するどく自民党を追求していたのに、いざ自分が政権を担う段になると、なんとも頼りない。
 野党として追求するのは、相手のアラを探して追求するのだから、言動にそう大きな責任がない。
 ところが、与党のトップ、首相になったとたんに、追求を恐れてはっきりしたことをいわなくなった。
 本当の指導者というのは、こういう国難のときこそ、創造力発揮して国民を引っ張って行くものだと、私は思っている。
 自民党から民主党に政権が移行したことを、明治維新に例えることがあった。が、明治維新を引っ張ったのは、自分の地位とか名誉、身の安全を恐れない20代、30代の若者たちであった。
 保身ばかり目につく菅さんには、残念でならない。何より、与党の民主党でさえ菅さんに不信を抱いている。
 一方、福島原発の安全性を無視し、放置してきたのは、かつての自民党政権である。自民党には、そんな反省が全くないようである。
 1000年に一度といわれる震災そのものは想定外のことが多かった。が、福島原発の場合は、国会で追求されたにもかかわらず安全性が無視してきたばかりでなく、平成13年(二〇〇一)に、30億かけ原発ロボットが出来たときにも、東電は事故が起こらないから必要ありませんと、廃棄されていたことがわかった。
 福島原発の事故は、二重にも、三重にも、当時の自民党政権と、東電の重大な責任である。
 日本に国を任せられる、創造力ある指導者がいなくなった感さえする。
 その批判は批判としても、それを嘆えていただけでは前に進まない。
 今、私たち一人ひとりが、本当の豊かさとは何なのかを、じっくり考えて行動する機会である。

 日本の観測史上最大のマグニチュード9、震度7。20㍍を越す津波。3万人近い犠牲者。あっという間に町がさら地になってしまった。誰がこんなことを予想したであろうか。
 一方、福島原発は、まだ原子炉の暴走を止められず放射能を出し続けている。この福島原発は明らかに東電の、怠慢な想定内の人災である。
 平成18年(二〇〇六)10月、衆議院内閣委員会で、吉井英勝議員(共産)が、原発で非常用電源が失われた場合を想定して、「機器冷却系が働かないと、崩壊熱の除去ができませんから核燃料棒の焼損が出てくる」対策を取れと追求したのに対して、原子力安全・保安院の寺坂院長は、「そういうことはあり得ないだろうというぐらいまでの安全設計をしている」と、全く対策をとろうとしなかった。
 もしこの時、対策をとっていたなら、今回のような原子炉の暴走はなかったであろう。「安全神話」に寄りかかった怠慢である。
 また、津波でも、高さ15・5㍍、全長155㍍の防潮堤を造った岩手県普代村では、海岸地域が守られ、村全体で行方不明者1名の人的被害に留まっている。備えあれば憂いなし。本当に安全なのかもう一度考える必要がある。
 それにしても今回の大震災では、本来日本人の持っている素晴らしいところがたくさん出てきた。お年寄りを高台まで運び、残っている人を運ぼうと戻り犠牲になった人、80歳の祖母を9日間も守って助け出された16歳の少年。数えればきりがないほどたくさんの英雄が生まれた。
 また、海外では、この状況でマナーは世界一と絶賛した。やはり日本人は素晴らしいと改めて思う。

 こんなはずじゃなかった。多くの国民がそう思っているに違いない。
 平成21年(二〇〇九)の衆議院選挙で民主党が圧勝。鳩山政権が誕生した。これで日本は変わると思った。が、鳩山自身や、幹事長であった小沢一郎の金銭問題、そして沖縄の普天間基地移設問題で揺れ、わずか10ヵ月で退陣に追い込まれた。
 鳩山の後を継いで誕生した菅政権。平成22年(二〇一〇)の参議院選挙で、本人の口から軽々しく発せられた消費税増税発言で敗北。
 その後の、尖閣諸島付近で中国漁船による日本巡視船への体当たり問題への対応に見られるように、理念も信念もない、場当たり的な対応に、国民の信頼は一機に引いた。そして今回の前原外相の違法献金問題である。内閣の支持率及び民主党への支持率は10㌫代に下がってしまった。
 しかし、だからといって、自民党の支持率が上がったわけではない。もう一度自民党に戻せという声もない。何故なら、民主党といっても、もとを正せば自民党から分かれた人たちである。つまり、根っこは自民党と同じである。それは、政治献金問題を見ても一目瞭然である。
 じゃ、どうすればいいのか。このままでは、ここまで駄目になってしまった日本の政治をそう簡単に変えることはできない。
 これは夢だが、名古屋の川村市長や大阪橋下府知事のように、既成政党に影響されない、本当に志のある人たちが出られるような選挙制度に変えることである。
 そのためには、まず県を1単位とした中選挙制度を導入。一切の政治献金の中止と、選挙の国営化。参議院は、衆議院の下請けにならないように、政党所属は立候補できないようにするである。

torekkinngu3.jpg 馬のまち十和田ならではの大人の遊び。

 十和田市の特徴の一つは、馬のまちである。馬のテーマパーク駒っこランドをはじめ、春の桜流鏑馬、秋の駒フェスタ、あるいは馬術競技などと、馬のイベントも多い。
 が、馬を市民レベルで楽しんでこそ、ほんとうの馬のまちといえると結成されたのが十和田の休日乗馬クラブ(佐藤清会長)である。
 十和田の休日乗馬クラブの入会資格は、男性は概ね60歳以上、女性は概ね50歳以上の、いわば大人の遊びである。年、6~7回、百石の海岸、小川原湖周辺、八甲田ブナの森、奥入瀬渓流などをトレッキングする。そして夜は、トレッキングの映像を見ながらの懇親会である。
 最近は、女性会員も多くなり、これもまた楽しい。
 7月24日、この日は、湯ノ台の牧場を出発し、奥入瀬渓流をトレッキング。往復4時間半のトレッキングであった。

 

torekkinngu1.jpg           女性会員たちの勇姿。恰好いいでしょう(写真提供・西野有一)

 

torekkinngu2.jpg          トレッキングが終わって笑顔も爽やか。ご苦労様でした

 soumatosimitu.jpgエッ、あの発明あの人だったの!!
 自らも発明家であり、発明協会青森県支部の発明相談員を長年務めた相馬敏光さんがこのほど、『北辺のいぶし銀‐発明に挑む青森県の人・起業』を出版した。
 私たちが普段見ているもの、使っているもの、あるいは食べているもので、エッ!これが青森県で発明されたの、これがあの人の発明だったのと、たくさんの発明・特許商品が出てくる。
 中には、高校生が授業研究の中で特許をとり、それが商品化されたものもある。
 一例をいうと、トラクターの必需品である水田補助車輪(佐々木忠一=ササキコーポレーション)、えのき茸栽培の通年空調ビン(相馬敏光=当時ササキコーポレーション)、米ぬかドッグフード(三本木農業高校生徒)などである。いずれも生活に密着したものが多い。
 青森県の誇りというべき、それら発明家・企業を、明治から現在まで50人(社)紹介している。
 それを、一人一人、一社、一社を歩き、まとめたのが相馬敏光さんである。
 相馬敏光、昭和21年(一九四六)4月、弘前市出身。弘前工業高校、弘前大学農業機械科卒業。
 卒業を控え、どこに就職しようかと考えているとき、恩師から十和田市の佐々木農機(現ササキコーポレーション)から募集が来ているけれど行って見ないかといわれた。
 実は、佐々木農機の佐々木忠一社長(当時)が、日大卒業後、農機具の勉強のために北大に留学した。その時の佐々木忠一の恩師が弘前大学での相馬さんの恩師でもあった。
 また、佐々木社長は、弘前工業高校の先輩でもあった。
 そんなことから、相馬さんは二つ返事で佐々木農機に行きますと返事をした。
 昭和45年(一九七〇)、十和田市の佐々木農機に面接に来たとき、佐々木社長は、相馬さんの顔を見るなり「初めて会った気がしねな」といった。
 こうして佐々木農機に入社。機械設計や特許、商品管理等を担当。退職後は、特許流通アドバイザー、特許流通アソシエイトなどを歴任し現在に至っている。
 『北辺のいぶし銀‐発明に挑む青森県人の人・起業』(自費出版)A4判、140頁、定価2500円。問い合わせは、℡0176‐23‐0872迄。

 美術雑誌の表紙を飾るなど、全国的にも人気の高まってきている十和田市現代美術館。最近、十和田市現代美術館で結婚式を挙げるカップルが多くなってきている。
 8月6日、秋田県大館市の佐藤興さん(36)・同由利本荘市の朋子さん(35)が、現代美術館では4人目の結婚式を挙げた。
 2年前に現代美術館を訪れ、とても気に入っていた二人。思い出に残る式を挙げたいといろいろ調べていたところ、現代美術館で式を挙げることができることを知ったという。
 会場は、花柄模様の特別展「マイケル・リン」さんの企画展示室。式は、市民団体H&J(畑中宏之プロジェクトリーダー)がサポートした。
 結婚式には、秋田県などから親戚・友人など80人ほどが参列。美術館への入館者も何事かと見守る中、小山田市長が、
 「ここで結婚式を挙げていただくことは、十和田市にとって大変嬉しいことです」と、お祝いの言葉を述べ、高屋昌幸館長が結婚証明書を送るなど、華やかに、和やかに式が執り行われた。
 また、出席者は、もちろん十和田市で宿泊のみならず、2次会や3次会も十和田市で行なうなど、予期しなかったところで、十和田市の活性化につながった。
 なお、今後、十和田市観光協会が窓口となり、美術館等での挙式を、積極的に宣伝して行くという。

kekkonnsiki.jpgマイケル・リンさんの企画展示室で誓いの言葉を読み上げる、秋田県大館市の佐藤興さんと朋子さん

karumenmaki.jpg 寺山修司記念館開館以後、毎年夏に「テラヤマ・ワールド」として行なわれて来たフォーラム。指定管理に移行された昨年以降、「寺山修司記念館フェスティバル」にネーミングが変わってきた。
 が、その中心となる企画は、寺山修司の元妻である九條今日子さんが、天井桟敷時代、寺山修司に関った人たちを招いてのトークショーである。
 今年のトークは、ゲストに、寺山修司の天井桟敷の舞台美術や宣伝美術をやってきた宇野亜喜良さん、寺山修司に見い出され歌手となり『時には母のない子のように』でヒットを飛ばしたカルメン・マキさんの二人。そして飛び込みで、当時出版社におり、寺山の本の出版を担当した編集者の白石征さんも加わった。
 トークの前に、まず宇野さんが、舞台に立てかけた50号二つ併せた100号のキャンバスに、聴衆の面前で描くライブペイティング。
 続いて、カルメン・マキさんのコンサート。
 カルメン・マキさんは、ヒット曲『時には母のない子のように』など、ヴァイオリンの伴奏だけでマキ節を熱唱。感動を呼んだ。これには、青森市の舞踏家福士正一さんの踊りの跳び込みもあり、歌を盛り上げた。
 続いて行なわれたのが、トークショーである。
 宇野さんは、「ポスターが出来上がっても、上演する台本が出来ていないことも度々だった」
 カルメン・マキさんは、「最初は舞台女優として天井桟敷に入ったが、「書を捨てよ町へ出よう」に出ている時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手としてデビューしたなど、寺山修司と人との関り、寺山修司の人柄、天井桟敷の裏話など、今だから話せる面白い話題でいっぱいであった。 

terayamashuuji.jpg寺山修司記念館フェスティバル2011のトーク
写真左から九條今日子さん、宇野亜喜良さん、カルメン・マキさん