野呂修平バレエ一筋55年

2、生いたち

[野呂修平バレエ一筋55年]

 芸名・野呂修平、本名・間瀬繁雄、旧姓・本間繁雄の先祖は、山形県酒田市である。
 酒田市には、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に...」と歌われた日本一の大地主・豪商である本間様のあったところである。
 本間様に及びもせぬが、せめて殿様になりたいとは、どれほどの大地主であったろうか。
 今でも酒田に行くと、本間様ゆかりの邸宅や美術館などがあるが、庄内平野一帯に3000町歩の田畑を持っていた。また北前船を持って商売していた豪商でもあった。
 それが、戦後の農地解放で没落したが、そんなことから酒田市には本間姓が結構多い。
 野呂修平(以下本間繁雄)の本間家は、祖父繁三郎の代に、その酒田から東京に出て来た。
 そして、祖父は国会議事堂の守衛をしていた。
 家は、現在の六本木ヒルズからそう遠くない、麻布十番通りの奥まったところにあり、当時バターボールで有名な篠崎製菓の向いにあった。
 父は、人を2、3人使い塗装業をやっていた。家は二軒長屋で、玄関を入って左の四畳半は祖父母部屋で、八畳くらいの居間があり、その奥が六畳の両親の部屋で、中庭にはペンキの缶が山と積まれていた。
 父甚五郎の自慢は、国会議事堂のてっぺんで塗装をやったことであった。また、ある乳業会社に仕事で、熊谷まで行ったと話していたこともあった。
 兄弟が7人で、子どもたちは居間で寝起きしていた。
 つまり、祖父母と両親、そして子ども7人の、併せて11人がこの小さな家で暮らしていた。
 本間繁雄は、父甚五郎、母ハルの四男として、昭和8年(一九三三)11月12日、この世に生を受けた。
 昭和8年は皇太子(現天皇)が生まれた年であり、また、マグニチュード8・1の三陸巨大地震が発生。高さ28・7㍍の津波が襲い、死者・行方不明者3064人を出した年である。
 一方、大正デモクラシーの影が薄れ、『蟹工船』などで人気作家であった小林多喜二が特攻警察に虐殺されるなど日本は軍国主義への道と傾斜していった時代でもある。
 兄弟は、長女以代子、長男持、次男博、三男義行、そして四男が繁雄で、五男義雄、六男省三であった。
 学校は尋常南山小学校である。長男の持は、高等中学校を卒業すると、池貝鉄工所に勤めていた。次兄の博は尋常小学校を卒業すると、父の塗装業を手伝い、夜間中学に通っていた。
 まだ小学校に通っていた、三男義行、四男繁雄、五男義雄の3人は、エネルギーを持て余し、しょっちゅう取っ組み合いをしていた。
 そんなこともあり、今はないが、近くの末広神社の例祭日に行なわれる相撲大会に出ても強かった。中でも長男持は明治神宮で行なわれた相撲大会で優勝したこともあった。
 篠崎製菓では、夕方になると大きな台を外に出して出来立ての飴を小粒に切る作業を始める。たんきり飴である。学校の帰りに寄ると、ホラ、ボウズ食えと飴をくれた。近所の子どもたちにとってはこれが楽しみであった。
 外での遊びは、めんこ(面子)、べいごま(貝独楽)、竹馬などであった。竹馬は2㍍以上もあり、家の庇に上りそこから乗った。
 また、近くに麻布山がありここには善福寺や賢崇寺などお寺が幾つかあった。
 繁雄は木登りが得意であった。麻布山の木に登ると、東京湾が見えた。
 夕方になると、木に登りよく東京湾にむかってラッパを吹いた。ラッパには、突撃ラッパ、行進ラッパ、消灯ラッパなどがあった。
 ラッパには、もちろん充て歌であるが、新兵さんはつらいね、寝てもまた泣くんだよ~という歌がついていた。しかし、それが新兵の本音でもあったろう。
 むかしはのどかである。ラッパを吹いても、誰もうるさいなどというものもいなかった。
 また、お寺には桃や枇杷、杏、そして柿の木があり、秋には柿の実がたわわと稔る。
 それを盗るのがガキどもの楽しみの一つであった。
 が、見つかると、コラーッと和尚が追いかけて来た。皆は、クモの子をちらすようにそれぞれバラバラに逃げた。もちろん、つかまったことなど一度もなかった。
 が、繁雄は、逃げるとき、鉄条網に左腕ひっかけて20㌢もの傷を負って、血だらけで帰り、母親にこっぴどく叱られたこともあった。そのときの傷が今だに5㌢ほど残っている。
 和尚は、悪戯する子どもたちが憎くて追いかけたのではなかった。
 実は、柿の木は非常に折れやすくて、柿の木に登り、枝が折れ、死んだという例が昔から数多くあった。もし、柿の木に登り、枝が折れ怪我でもさせたら大変なことである。
 だから、子どもたちに、あの和尚は怖い。つかまったら大変だと、わざと憎まれるように追いかけたのであった。
 また、雨が降る夜は、いたずらガキ同士で肝だめしをやった。お墓は、雨が降ると人魂が出るとの、もっぱらの噂であった。そのお墓に、べいごまを置いて来るのである。
 幽霊がまだ信じられていた時代である。一人でお墓に行くのは相当勇気がいった。しかし、意気地なしとはいわれたくない。
 唐傘を差し後ろを見、辺りほとりをキョロキョロ見ながら、一歩また一歩と進んで行く。手にはべいごまがかたく握りしめられている。カサッとでも音がするものならドキッと一瞬立ち止まり、辺りを振り見る。もう心臓がドッキンドッキンと高ぶる。そしてまた、一歩一歩足を進める。こうして無事お墓にべいごまを置いてくると一人前として認められた。
 また、十番通りには芸者の置屋があった。夕方になるとお風呂道具を抱えて風呂に行く姿はどことなく色っぽく、一つの風物詩でもあった。子どもたちにとって芸者は、天女でも見るように美しかった。
 この十番通りには、当時喜劇王として人気絶頂であったエノケン(榎本健一)の豪邸があった。神社の祭礼日などには、エノケンの名前でたくさん寄付をしてくれた。
 繁雄の母ハルは歌がうまかった。機嫌がいいとき歌うのは『まっくろけ節』である。
 『まっくろけ節』は、大正時代に活躍した演歌の添田唖然坊の作詞・作曲によるものである。
 唖然坊は、『ノンキ節』や『ゲンコツ節』など、社会を風刺する歌をたくさんつくり文化の面から大正デモクラシーを推し進めた人である。
 貧乏ながら、麻布での生活は楽しいものであった。しかし、それも長く続かなかった。 

noroikka.jpg 東京・港区麻布にいたころの本間一家。中央は祖父繁三郎、祖母たみ江。祖父の隣りが父甚五郎。甚五郎の後ろが長女の以代子父の斜め後ろが三男の義行。祖母の隣りが母ハル。ハルに抱かれているのが六男省三。その後ろで抱かれている子どもは、後に二代目ジャニーズで活躍した中谷良。前列右端が五男の義雄。左端が四男の繁雄(野呂修平)。後列左端が長男の持。右上のベースボールの形をしたのが次男の博。7人兄弟の11人家族であった。その他は従兄弟。