野呂修平バレエ一筋55年

3、満蒙開拓団として一家は満州に渡る(上)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」アナウンサーが、興奮気味に、忙しく「臨時ニュース」があることを告げた。
 そして人々をラジオに引き付けるように、勇ましく『軍艦マーチ』が流された。
 昭和16年(一九四一)12月8日、午前7時、ちょうど朝のニュースの時間である。
 アナウンサーは、「大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」、「大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と繰り返し、大本営の発表を放送した。
 日本が、アメリカの真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争の勃発の瞬間であった。
 太平洋戦争は、3年8ヵ月に及び、この戦争での死亡者は日本約310万人、中国約1300万人、朝鮮約20万人、そしてアメリカによる原爆投下など、日本のみならず、中国や東南アジアの国々に多大な犠牲を強いた戦争であった。
 戦争が始まった途端に、父の塗装業の仕事が全く無くなった。わずかある仕事といえば、空襲のとき飛行機から見えないようにと、煙突の文字消しやスレート瓦の屋根を黒く塗るぐらいのものであった。
 また、戦争の勃発と共に食糧事情が急激に悪化してきた。
 それは、米を作る農村では働き手である若者が軍隊にとられ、農業の担い手はお年寄りと女性になってしまったということ。生産された米は、優先的に戦地に送られたということ。そして、戦争でもって欧米からの食糧の輸入が途絶えたことなどによるものであった。
 みんな腹を空かしていた。そんなとき、「欲しがりません勝までは」のスローガンが発表された。
 そこでとられたのが、配給制度であった。
 生活必需品である、みそや醤油、塩、砂糖、マッチなどは昭和15年(一九四〇)4月から。米などの穀類は昭和16年(一九四一)4月から、配給制にされてた。
 このスローガンは、大政翼賛会と複数の大手新聞社、朝日、読売、毎日等が、「国民決意の標語」、つまり戦争を鼓舞するスローガンを募集したものであった。
 大政翼賛会とは、戦争へ突入するために、軍部の方針を追認し、支えるために、反対勢力を抹殺し、国会のすべての政党を、政党の理念を超えてまとめたものである。
 それに入選したのが、10歳の少女が作ったとされる「欲しがりません勝までは」であった。
 これは、国民の不満を、戦争に勝つまでは我慢しろという思想動員のスローガンであった。
 昭和14年(一九三九)にドイツが、ポーランドに侵攻したのをきっかけとして第二次世界大戦が勃発した。
 そのときから日本も、この戦争に参加するだろうことは予測していた。そのために、共産党など国内の反戦勢力を弾圧し、戦争への準備を着々と進めていた。
 そして、日本が真珠湾で奇襲攻撃を加えた後にアメリカに宣戦布告をした。
 こうして第二次世界大戦はヨーロッパのみならず、アメリカ、アジアを含めた名実共に世界を巻き込んだものとなったのである。
 戦争をやり遂げるためには国民にもわかりやすいスローガンが必要であった。
 それが、「欲しがりません勝までは」である。
 米の配給は、一人一日3合(430㌘)とされた。
 それも米が配給されたのは最初だけで、やがてさつまいもに替えられた。本間家には1ヵ月に1俵のさつまいもが配給された。
 育ち盛りの子供の多い本間家。その1俵のさつまいもを一家11人で食べるのである。しかも、学校へ弁当も持って行かなければならない。朝、玄関に母が作ってくれた弁当が5つ、6つ並ぶ。当然、さつまいもは半月しか持たなかった。
 皆、腹をすかしていた。
 父は腕のいい塗装工で人を何人か使っていた。が、肝心の仕事がない。食べるものもない。このままでは一家は餓死してしまう。
 国民がこういう状況に置かれている中で戦争に突入した大日本帝国。戦争を始める前から、負けは決まっていたようなものである。
 しかし、一家を預かるものとして、この状況を何とかしなければならない。父は、悩んだ末、皆を集めて家族会議を開いた。父は悲愴な顔で口を開いた。
 「仕事もない。このままでは一家心中しなければならない。今、東京都で第二次の満蒙開拓団を募集しているんだが、それに応募してみようと思う。皆はどうだろうか」
 「満州に行って何をやるの」
 「農業」
 「のうぎょうー!!」
 農業といわれて皆はエーッと思った。
 「学校はどうするの」
 「多分、たくさんの人が行くわけだから、満州にもあるだろう」など、様々な意見が出された。
 長男の持だけは、「俺は行きたくない」といって泣いた。
 持は、このときは16歳。今でいう高校1年の年齢である。長男であったことから尋常高等小学校まで行かせてもらっていた。
 世の中のことは、多分、父親より理解していた。
 世間では、満蒙開拓は「王道楽土」のように宣伝されていたが、そんなに楽ではないことを、噂や仲間の話から聞いていた。
 しかも、都会のど真ん中で生まれて農業なんて全く経験がない。父だってそうである。
 しかし、この非常時である。出来る、出来ないなんて考えてはいられない。今はともかく11人を食わせなければならない。満州に行ったら何とかなるだろう。
 「欲しがりません勝までは」自分の食い扶持は自分で賄なわなければならない。父も、考えた末の決断であった。
 満蒙開拓は、昭和6年(一九三一)、中国東北部の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍のしわざだと言いがかりをつけ、戦争を吹っかけた満州事変をきっかけに日本は満州を占領した。
 そして昭和11年(一九三六)に、当時の広田弘毅内閣は、満州開拓移民推進計画を決議。以後、満蒙開拓団として、約20万人の、農家の次、三男と、約2万人の家族移住者を送り込んだ。
 農家の次、三男は、満州に行く前に、農業の研修他、軍事的な訓練を受け、自ら開拓しながら、移民団をも守る「満州開拓青少年義勇軍」として送り込まれた。
 なぜ、農民が武装しなければならなかったのか。
 満州事変そのものが、日本が満州を占領するために仕掛けたものであった。
 と、同時に関東軍が日本からの移民団の土地を確保するために、匪賊が横行するという理由で、既存の満州の農民が耕作していた農村や土地を
「無人地帯」に指定し、地元農民を、新たに設けた
「集団部落」へ強制移住させた。
 そして、その無人地帯を安価で買い上げ、そこに移民団を移住させたのである。
 自分たちが耕してきた土地を強制的にとられた地元民は当然面白くない。半日運動も起こってくる。
 その満州の地元民から、日本から行った移民団を守るというのが、満蒙開拓少年義勇軍である。
 日本では、「王道楽土」、「五族協和」など、さも夢の土地であるかのようなスローガンが流され、移民団を募っていた。
 ともかくも、日本にいては11人が食って行くことができない。満州へ行こうということで家族が一致した。
 早速父は、大田区にあった満蒙開拓団の訓練所に行き6ヵ月間の訓練を受けた。
 こうして昭和17年(一九四二)8月、国境を越えて、見も知らぬ土地へ行く不安を抱きながら、祖父母と両親、子供7人の、一家11人は東京駅から汽車に乗った。
 開拓団の一行は、約50家族180名ほどであった。