野呂修平バレエ一筋55年

4、満州一果林村在満国民学校(上)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 新しく充てられた家は、日本のような木造ではなく、粘土のレンガを積み重ねたもので、部屋にはすべてオンドルが通っていた。
 オンドルは、森林の少ない満州であるから、満人の主食であるコーリャンの殻を燃やしていた。
 トイレは外にあり、外から見えないようにはなっていたが、戸がなかった。あとでわかったことだが、夜になるとその糞便を豚が来てきれいに食べてくれるのである。つまり、糞便は豚の餌であった。繁雄はこれには驚いた。
 満州での生活、鶏の絞め方(殺し方)、豚のさばき方、腸づめのつくり方などは、本間家を手伝ってくれる満人が教えてくれた。
 本間家の隣りの家は、偶然にも、敗戦後繁雄たちが帰還し、開拓に入ることになる青森県三本木町の隣り町、大三沢町の柿本という人であった。
 繁雄たちが入る一果樹村在満国民学校は、開拓団の集落から5㌔ほど離れたところにあった。
 これは、一果樹村に入植した開拓団の子弟の小学校で、第一次で入植した開拓団の子どもたちがすでに通っていた。
 学校は、男女共学で、すべて全寮の寄宿舎生活である。
 というのは、満州にはオオカミがおり、夜に出没し、家畜が犠牲になることも度々であった。
 学校と寄宿舎の距離は、歩いて5分ほどのところにあった。寄宿舎と先生の官舎は、オオカミや匪賊から身を守るための城壁で囲まれていた。
 城壁の外には、冬の暖房の燃料となるコーリャンの殻が積まれていた。
 寄宿舎は、一棟は子どもたちが入る棟で、女子寮と男子寮、そして食堂になっていた。もう一棟は校長先生の官舎である。
 寮の部屋には、粘土のレンガづくりのベッドがあり、ベッドの中にはオンドルが通っており、オンドルの上にアンペラで編んだ筵が敷かれていた。その上に布団をかぶって寝るのである。冬でも結構温かかった。
 春には黄砂の砂嵐に見舞われることもある。砂嵐が吹くと、それこそ一寸先が見えなくなるほどである。
 また、冬になると、零下25度にもなり、馬の鼻にツララがさがり、ション便がそのまま凍ってしまうほど寒い。
 決して住みやすい土地でなない。そんな環境の中、子どもたちだけで通わせるわけには行かない。
 かといって、家族は、仕事に余裕もなくそれをいちいち送り迎えできないのである。
 そんなことから、開拓団の子どもはすべて寄宿舎生活を送るのである。
 先生は、校長先生とその奥さんの二人だけ。
 生徒は、全学年併せて20人ぐらい。本間家からは、繁雄と、繁雄のすぐ上の兄の義行が入った。
 寄宿舎の食事は、先生の奥さんが、満人を使ってこしらえていた。
 皆、月初めの最初の月曜の朝に、父や兄たちが曳く馬車に乗り、寄宿舎まで送られてくる。そして月末の最後の土曜日に迎えに来てもらい、家に帰るのである。
 繁雄たちの、第二次開拓団の集落から学校に行くまでに満人の集落が二つほどあった。途中で、オオカミに尻を噛まれ血まみれになっているロバに出会った。
 多分、このロバは夜になるとオオカミの餌食になるであろう。しかし、今助けて家に連れて帰ったとしても、助かるかどうかはわからない。そのまま置いて行くしかなかった。
 学校での生活は、結構楽しかった。
 時々、満州の学校との交換授業を行なう。その内容は、主に日本人は満州語を、満人は日本語を学ぶのである。
 子ども同士である。言葉が片言しかわからなくてもすぐ友達になった。
 夏になると、満人の村に行き、馬に乗った。
 この地域はモンゴルに近いこともあって、子どもたちは皆馬に乗るのがうまかった。ちゃんとした鞍があるわけではない。鞍の代わりに座布団のようなクッションを乗せ、それを馬の背に縛り付けているだけである。
 鞍がなければもちろん足をかける鐙もない。
 蒙古馬は背丈がそんなに大きくはない。しかも、走るときは側対歩で走る。側対歩とは、人間でいうナンバ走りである。つまり左の前足と後ろ足を同時に出し、同じく右の前足と後足を同時に出して走る。
 このナンバ走り、側対歩は背の揺れが少なく初心者でも乗りやすい。
 日本では、南部馬(どさんこ)が側対歩で走る。
 高いところが好きで、運動神経が良かった繁雄は、すぐ馬に乗れた。
 「キャッホー、エイ、エイキャッホー」と、馬に跨り、満人の子どもたちと一緒に満州の大地を走った。
 時には、満鉄の線路まで、馬に乗り小さな砂丘を幾つか越えて行き、これが日本に通じる線路かと感慨にふけることもあった。
 友だちとなった満人の家に行ったときである。
 居間には大きな柩が置かれていた。柩はきれいに装飾が施されていた。
 満人が亡くなると、死者を大事に弔う思想は日本と変わらない。が、普通の家では、お棺に入れないでそのまま土葬した。この家のように柩に入れて土葬するのは、相当の地位やお金のある家のみであった。柩は見るからに高価なものであった。
 この家の主は、息子の友だちの日本人の子どもが遊びに来ているのを知ると、丁寧にお礼をいい、この柩は働きに出ている息子、つまり繁雄の友だちの兄が私に贈ってくれたものだ。親孝行な息子でねと、身振り手振りを交えて繁雄に説明し、自慢した。
 誰か亡くなって柩があるのかと思ったら、なんとこの柩はこの家の、今柩を自慢した主のものである。
 日本ではこんなことをしたら、俺を死なすきかとカンカンに怒るであろうが、満州では、亡くなる前に自分の柩を準備するのだという。
 この家に来て驚いたことがもう一つあった。
 中年以上の女性の靴が異常に小さく、皆ヨチヨチ歩きをしているのである。
 いい大人がヨチヨチ歩きをしている。見ていて滑稽であった。
 繁雄には、そのとき、何故そんな歩き方をするのかわからなかった。が、あとで、いわゆる纏足であるということがわかった。
 纏足は、今から1000年ほど前の北宋時代から行なわれていたといわれる。それは足の小さな女性は美しいという考え方。もう一つは、ヨチヨチ歩きしか出来ない女性は男性からみると、そのしぐさが可愛いく、また何があっても男性に逆らうことが出来ない。つまり、女性が男性の慰みものでしかなかった当時の風習であった。
 しかし、その纏足の方法は女性にとっては過酷なものであった。
 女性が3、4歳になると、木綿の布で親指以外の4本の指を内側に曲げ縛った。当然夜も眠れないほど痛いし、腫れて熱を持ち化膿する場合もある。これが定着すると、今度は足の甲を縦に曲げて行く。こうして足の奇形をつくるのである。
 しかし、これは上流家庭の子女だけでもちろん働く農民の家庭では行なわれなかった。
 正月は子どもにとっても嬉しいものであった。
 学校が休みとなり、冬は仕事もないから家族が一緒になれるからである。いつものように家は賑やかになった。
 正月になると、開拓団で牛一頭を殺してみんなで分け合った。またそれぞれの家庭では鶏を、家族に人数にもよるが2、3羽絞める(殺す)。鶏の血が結核にいいといわれており首を切ってそのまま鶏の首に口をつけて血を飲むもの。あるいはコップに血をとって飲むものもいた。
 さらには餅もつく。正月は美味しいものを食って、遊んでと、子どもにとってはやはり楽しいものであった。
 正月が終わると、再び学校の寄宿舎生活に入る。