野呂修平バレエ一筋55年

4、満州一果林村在満国民学校(下)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 満州の冬は、零下25度までも下がるが、雪がそんなに多くはなかった。寒いが楽しいこともあった。
 その一つがスケートである。
 冬は、学校のグランドが一面スケートリンクになる。
 冬になると、放課後、生徒はもちろんだが、父兄や満人たちをも総動員して、スケートリンクづくりをするのである。満州の学校でのスケートは、冬の体力づくりとしても大事であった。
 学校のすぐ脇に大きな貯水池がある。そこに手押しのポンプを置いて、ホースでもってグランドに水をまく。
 零下25度の寒さである。翌朝は、グランドに氷が張り、一周400㍍の見事なスケートリンクができあがる。
 天気のいい日は、授業として毎日スケートがあった。
 冬の遊びは少ない。外での遊びはスケートが唯一であった。エッチング(スケートの歯)磨きなど、もちろん自分たちでやる。授業が終わると、生徒は皆スケートリンクに繰り出した。
 しかし、冬の日は短く、4時頃になるともう薄暗くなる。暗くなると、そう離れていないものの、やはりオオカミが怖い。暗くなる前に皆急いで寮に帰った。
 帰る前に、壊れたリンクを削り平らにし、そこにまた水をまいて置く。翌日は再び立派なリンクに仕上がっているのである。
 スケート靴は、本土の子どもたちからすると、子どもにはちょっと贅沢なスピード競技用のスケート靴であった。
 そのころ本土はというと、一般の子どもたちは、下駄の底にスケートの歯をつけた下駄スケートであった。
 スケートは、初心者の6級から1級まであり、時々先生は、進級の試験を行なう。運動神経の良かった繁雄は、ひと冬で1級になっていた。
 寒い朝、食堂で朝食をとっていたときである。明り取りの窓から白い煙が食堂に入ってきた。
 校長先生はすぐに、
 「オイ、本間見て来い!」といった。
 寮は、奥が女子寮、手前が男子寮、そして食堂と、一つの棟の中にあった。
 寮といっても、廊下を挟んで両側が扉のない部屋になっており、部屋の下が粘土のレンガで作られたオンドルになっていた。オンドルは、それぞれの部屋に焚口があった。
 そのオンドルの上に、アンペラの莚を敷き、その上に布団を敷いて寝るのである。
 一部屋に、二人づつ入っていた。繁雄は、兄の義行と同じ部屋であった。
 オンドルは、コウリャンやサトウキビの殻を燃やして温めるのである。
 繁雄は、「ハイ!」といい、寮に行き、寝室のドアを開けた。男子寮はすでに火の海であった。繁雄は慌ててドアを閉めると、
 「火事だ!火事だ!!先生、大変だ、火事だ!!」と、声いっぱいに叫んだ。
 出火は、繁雄と兄の義行の部屋からであった。
 校長先生は、落着いて、皆外へ出ろといって、外に出し、消防に電話をした。
 消防は間もなく来たが、水をかけるでもなし、棒でもって、寮と食堂の間の壁を壊しているだけであった。
 屋根が燃え落ちると、火は自然と消えた。
 満州の住宅は、壁は粘土の+レンガを積み重ねただけで、屋根は草で葺かれていた。雨がほとんど降らない満州では、それでも充分であった。
 だから、屋根が燃え落ちると自然に火が消えるのである。
 消防が壁を壊したのは、食堂に類焼が及ばないように火を断ち切ったのである。
 火事の原因は部屋のオンドルであった。
 粘土のレンガで作られたオンドルが、使っているうちに穴が開き、そこから火が出て莚を焦がし、布団に燃え移って火事になったのであった。
 繁雄はアンペラの下に、母から貰ったお金を隠していたが、それも全部燃えてしまった。悔しかったが、燃えてしまったものはどうしようもない。
 幸いに食堂だけは燃え残った。その夜は、男女一緒になって、食堂で毛布を被り雑魚を寝した。
 ところが偶然にも、繁雄の隣りで寝たのが、繁雄の好きな女の子であった。
 その夜は、疲れていたのも関らず、隣りに寝ている好きな女の子が気になって、なかなか寝付かれなかった。
 繁雄の満州での唯一の淡い恋の想い出である。
 繁雄と兄の義行は、寮ができるまで、学校に近い農家に分宿し、そこから学校に通った。
 寒い冬の日であった。集落の近くの家から、今赤ちゃんが生まれそうなんです。家に誰もいないんで、申し訳ないが産婆さんを呼んで来てくれと、兄の博が頼まれた。
 博は、馬そりを準備し、この一 樹村に一人しかいない産婆さんを迎えに走った。
 産婆さんを乗せて帰る途中、馬が突然に走らなくなった。どうしたものかと馬を見ると、馬の鼻の穴が凍ってしまい、氷になっていた。
 なんと、それによって馬が呼吸困難に陥っていたのである。
 このようなことは、冬の満州ではよくあることである。博は、慌てもせず、馬の鼻に手を突っ込み氷を取り除いた。
 馬は元気を取り戻し、再び走り出し集落に着き、子供は無事に産まれた。
 地元民である満人たちとの諍いはそう多くはなかったが、たまにある。
 ちょうど実りの秋。畑には、コウリャンやトウモロコシが稔り、収穫を間近に控えていた。
 ところが、満人たちが放し飼いにしていた、牛や馬が、畑に入りコウリャンやトウモロコシを食い荒らしてしまったのである。
 開拓団たちは怒って、その牛一頭を捕まえ、殺し、集落民へ分けて食べてしまった。
 満人たちは謝り、二度とこのようなことは起こらなかった。
 しかし、こんな平和な生活は長くは続かなかった。
 昭和19年(一九四四)に入ると、6月にアメリカ軍がグアムやサイパンを空爆。日本軍の航空部隊が壊滅した。さらにマリアナ沖の海戦で、日本海軍は空母3隻、航空機359機を失った。
 7月になると、サイパン島が陥落。4万人余の日本軍の守備隊が全滅。東条内閣が総辞職した。
 これによって、アメリカの日本本土への空襲が可能になった。
 日本政府は、本土決戦を唱え、学童を疎開させた。
 こんな戦況を知らないのは、勝った勝ったの大本営発表のニュースしか聞かされていない日本人だけであった。
 本間一家は、満州へ来て2年の間に、祖父は、満州の気候や食事が合わないと、1年足らずして、こんなところには住めないと本土に帰っていた。
 祖母は亡くなり、満州の土と化していた。
 長女の以代子は嫁に行き、同じ村に分家になっていた。が、子供も出来、幸せをかみ締める間もなく、夫は兵隊にとられていた。
 長男の持は、数えの20歳で、徴兵の年齢に達していなかったが、やはり軍隊にとられていた。
 次男の博は、青年学級で、敵が来たら、たこつぼを掘り、手榴弾を持って待ちかまえ、戦車の下に潜り込んで自爆せよなどという軍事訓練を毎日受けていた。
 満州に来たときは、一家11人の大家族であったが、一人は帰郷し、一人は亡くなり、一人が兵隊にとられたものの、今は新しい家族が一人増え9人になっていた。