野呂修平バレエ一筋55年

5、敗戦と逃避行(1)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 昭和19年(一九四四)11月、B29による東京大空襲が始まった。そして20年(一九四五)4月、米軍が沖縄に上陸。沖縄の悲劇が始まった。
 この頃になると、もう日本は負けるそうだの噂が、満州にも届き、撤退の準備をするものも出始めていた。
 同20年5月、イタリア及びナチスドイツが、連合国に無条件降伏した。
 そんなことはつゆ知らない子どもたち。
 夏休みに入った7月のある日、繁雄と弟の義雄、同級生の渡辺君、横山の春ちゃん、高橋の健ちゃんと5人が、いつものように近くの遼河に泳ぎに行っていた。
 この日は朝から太陽がカンカンに照りつけ、気温が40度もあるかと思うほど熱い日であった。
 5人は、高粱畑の道を30分ぐらい歩いて遼河に行った。高粱は2㍍ほどに伸びており、いい日陰にもなった。
 しかし、遼河に行ったものの川は干上がり、川には水がなく、ところどころに泥水が溜まっているだけであった。
 そんなところで遊んでいると、渡辺君の家から、すぐ家に帰るようにとの使いが来た。
 渡辺君の家は、寄宿舎のすぐ近くにあった。
 何だろうと、皆一緒に渡辺君の家に行った。
 しばらくして、渡辺君がナント手に拳銃を手に持って出てきた。
 渡辺君は、父から聞いた話として、日本が戦争に負けるらしい。満人たちが騒いでいる。もう満州にはいられない。そして、護衛のためと拳銃を持たせられたというのである。
 渡辺君が、拳銃を空に向けて一発撃った。
 繁雄は、思わず耳を両手で塞いだ。
 高粱畑から、銃声の音に驚いた鳥が飛び立った。
 渡辺君は、本間、お前も撃ってみろといった。
 繁雄は、恐るおそる拳銃を手にした。ずしりと重かった。繁雄は、渡辺君がやったように、拳銃を空に向けた。見上げると、真っ青で、雲一つなくどこまでも広がっていた。
 繁雄は、拳銃を持った右手を、左手で支えながら、引き金を引いた。
 「パーン」と、乾いた音がした。
 生まれて初めて撃った拳銃である。怖かった。心臓が高鳴っていた。こんなものは要らないよと、渡辺君に返した。 しかし、拳銃を撃って初めて、大変なことが起こっているなと感じ、繁雄ら4人は急いで寄宿舎に戻った。
 寄宿舎には、すでに父が馬車で迎えに来ていた。
 繁雄たちは、寄宿舎にある荷物をまとめ父の馬車に乗った。
 父は、ソ連が攻めて来るらしい。満州を撤退するようにとの命令が出たと話した。
 昭和17年(一九四二)の夏に満州に来て3年、繁雄は10歳、小学校5年生になっていた。
 異国の地ではあったが、満州の生活にも慣れ、食うことも心配することもなく、毎日満州の大地で遊びまわっていた。
 腹を空かしていた東京時代から見ると、天国であった。
 農業をやったことがなかった両親も、苦労しながらも農業をやって行くことに、何とか目処がついていた。
 繁雄は、これからどんなことが起こるのか、全く検討がつかなかった。
 が、途中、満人の集落を通るとき、満人たちは、今までは丁寧に頭を下げ挨拶していたものが、満人たちにも、日本は負けるらしいという噂がすでに流れているであろう、挨拶もせず、睨めつけていた。
 昨日までの雰囲気ががらりと変わっていることに気がついた。次第に、何がどうなったんだろうと不安になってきた。父もそれ以上は喋らなかった。
 集落に着いたときは、すでに陽が西に落ち、とっぷりと暗くなっていた。
 夕べまでは、暗くなっても、それぞれの家から明かりがもれ、煙突からは煙が出ていた。
 それが、集落に着いても、どの家も真っ暗である。
 わずか、隣りの健ちゃんの家だけは明かりがもれていた。
 その異常さに、不安が増してきた。
 家に着いたが、我が家も真っ暗で誰もいない。
 と、思ったが、灯りもつけない暗闇の中で、次男の博が一人、繁雄たちが来るのを待っていた。
 他の家族、三男の義行と、母、姉の以代子とその子供、弟の省三が、早く避難せよという命令に、持てるだけの荷物を持って、駅に行っているのだという。
 満州からの撤退命令は、繁雄たちが寄宿舎からの帰りを待てないほど、急を要していたのであろう。
 家に入ると父はローソクに火を灯した。
 博と繁雄は、何か食べるものがないかと、台所を探した。引出しに腕時計が2個あった。それを腕にはめた。
 食べられるのは、幸いにうどん粉が残っていた。これを水でこね、フライパンで焼いた。うどん粉のパンである。
 日本の開拓団が、1日にしていなくなったのである。これからどういうことが待っているのか皆目検討がつかない。
 ローソク1、2本の薄暗い部屋で、父と、博、繁雄、義雄の4人は、もくもくとうどん粉のパンを食べた。これが、一 樹村南集落での最後の、寂しい晩餐であった。
 翌日、夜が明けるとすぐ、持てるだけの荷物を馬車に積み込み、駅に向かった。
 馬車が銭家店駅に着くと、避難民は皆汽車に乗り、ホームにはもう誰も居ず、北上する汽車と、南下する汽車が出発を待っていた。
 どっちの汽車に乗るかもわからない。ともかくここを離れなければならない。
 父は、こっちへ乗ろうと、手前の北上する汽車に乗った。
 乗ってから父は、繁雄に水筒を渡し、水を汲んで来いといった。
 繁雄は、汽車を降り、あっちこっちと探したが、水道を見つけられず帰ってきた。
 見つけられなかったというと、父が怒り、もう一度探して来いといった。
 繁雄は、再び、水道を探しに走った。
 と、そのとき、反対側のホームから、
 「繁雄ー、繁雄ー!!」と叫ぶ声が聞こえた。
 義行が必死に手を振り、「ここだ、ここだ」と、繁雄を呼んでいた。
 先に来た義行たちは、すでに汽車に乗っていたが、義行だけは、遅れて来る繁雄たちを、ホームに降りて、今かと今かと、気をもみながら待っていたのである。
 繁雄は手を振り、
 「義行ちゃーん、わかった、わかった!!」といって、父に知らせた。
 偶然であった。もし父が、もう一度水を探して来いといわなければ会えなかったかも知れない。
 父は、ともかく汽車に乗ろうといって乗ったのが、実は北上する汽車であった。
 あとで聞いた話だが、繁雄たちが最初に乗っていた汽車は、ソ連との戦いに行く、主には兵隊を乗せた汽車で、ソ連との戦いで全滅したということであった。
 それを知らずに乗っていた避難民もいた。
 あの時、兄の義行と会わず、その北上する汽車に乗っていたなら、繁雄たちも同じ運命を辿っていたのかも知れない。
 運は一瞬である。本間家にとっては、奇跡的ともいえる全家族9人の合流であった。
 こうして、1年数ヵ月近くにも及ぶ、中国での死の逃避行が始まった。