野呂修平バレエ一筋55年

5、敗戦と逃避行(2)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 ようやく一家が揃ったと思った矢先、関東軍の兵隊が汽車に乗り込んで来た。そして、一果樹村の18歳以上の若者は降りろといった。
 博は昭和3年(一九二八)9月生まれだから誕生日までまだ1ヵ月ある。が、そんなことは通用しない。
 父は、まだ18歳になっていないといおうとしたが、体が大きかったこともあり、無理やり降ろされた。
 それが終わると、汽車がゆっくりと走り出した。
 わずか3年ではあったが、思い出をたくさん残した満州一果樹村。繁雄は、後へあとへと景色が流れて行く村を、いつまでも見ていた。
 汽車は、走っては停まり、走っては停まりしながら、銭家店からおおよそ400㌔ほど南下した朝陽市に到着した。400㌔南下したといってもここはまだ内モンゴルである。
 ここが満州からの避難民の一時的な休憩所になっていた。
 一果樹村の開拓民には、その中の土塀に囲まれた集会場が充てられた。
 本間一家は、一番頼りにしていた博が抜け、一体これからどうなるだろうと不安をいだいていた。
 ここに来て1週間ぐらいした8月9日、ソ連が国境を越えて侵攻して来たそうだという噂が広がった。
 開拓民たちはいよいよ不安になった。
 第二次世界大戦は、ナチス・ドイツが、昭和14年(一九三九)に、ポーランドに侵攻したことに対して、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告したことから始まった。
 以後、イタリアがイギリス、フランスに宣戦布告(一九四〇)。ドイツがソ連に侵攻(一九四一)。日本がアメリカに対して真珠湾攻撃(一九四一)。ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告(一九四一)。
 こうして最終的には、日独伊の三国同盟と、イギリス、フランス、アメリカ、そしてソ連、中華民国等の連合国との世界を二分した世界大戦となった。
 日本は、昭和15年(一九四〇)に、ドイツとイタリア(イタリア王国)とで、日独伊三国同盟を結んだ。
 これは、台湾(明治28年=一八九五)及び韓国を併合(明治43年=一九一〇)すると共に、満州国を設立(昭和7年=一九三二)し、さらに日中戦争(昭和12年=一九三七)を仕掛けていた日本が、アジアにおける日本の権益を守るとともに、ヨーロッパにおけるドイツとイタリアの権益を守ることを確認。その調印国のいずれかの国が調印国以外に国から攻撃を受けた場合には、相互に援助するというものであった。
 一方、三国同盟を結んだことにより、アメリカとの関係が険悪になっていた日本は、アメリカとの戦争が避けられないものと思っていた。
 そのためには、満州の国境でにらみあっていたソ連と、とりあえずは友好関係を結んでおく必要があると考えた。
 ソ連にしても、ナチス・ドイツとの戦いで、極東に配備していた部隊をそちらに投入したかった。
 思想及び考え方が全く相容れない両国であったが、このような両国の思惑もあり、日本とソ連は、昭和16年(一九四一)に、日ソ不可侵条約を結んだ。それは5年という限定的な条約であった。
 三国同盟のうち、イタリアは早々に無条件降伏(一九四三年九月)。連合軍がパリに入城(一九四四年八月)、ソ連がドイツ国境を突破(一九四四十月)するなど、第二次世界大戦の先が見えてきた昭和20年(一九四五)2月に、クリミア半島のヤルタで、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンと、連合国主要三国が、戦後処理について話し合った。
 このとき、ドイツが降伏した90日後に、ソ連が対日参戦すると共に、千島列島及び樺太などの日本領土の処遇についても話し合った。
 それが現在も続く北方領土問題の端緒となった。
 昭和20年5月ドイツが無条件降伏。同8月6日、アメリカが広島に原爆を投下した。
 慌てたのはソ連である。日本が降伏するのは時間の問題だ。このままではソ連が参戦しないうちに日本は降伏してしまい、千島も樺太も手に入らなくなる。
 こうして、8月9日未明、国境を越えて満州に侵攻した。
 一方満州にいた関東軍はというと、兵力の過半数が、南方へ引き抜かれていた。慌てて増強したものの、兵員の半数以上は訓練不足のうえ、小銃が行き渡らない兵士が10万人以上と、ソ連に比べると、戦闘能力は貧弱なものであった。
 そんなことからアッという間に攻略され、満州国から朝鮮北部までソ連軍に制圧されてしまった。
 それから数日経った8月15日、正午近くに重要な放送があるそうだということで、収容所にラジオが流された。ピーピーガーガーと雑音がひどかったが、みんなは聞き逃しまいと、ラジオの近くに集まった。
 何が放送されるかは、大人たちは自分たちが置かれて状況からおおよその見当はついていた。
 正午になった。
 ラジオから天皇の声が流れた。
 「朕深ク世界ノ体勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以ッテ、時局ヲ収拾セムト浴シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
 朕ハ、帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ...」。
 これが、日本がポツダム宣言を受諾して、連合軍に無条件降伏したことを、国民に知らせる、一般的に...堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び...として伝えられている、天皇の玉音放送の原文である。
 子供たちにとっては、何の意味なのかわからない、かったるい声でしかなかったが、大人たちは、ラジオの前に膝まづき、みんなグスグスないている。
 と、そのとき、塀の外では満人たちが気勢をあげた。
 「...敵ハ新ニ残虐ナル爆弾(原子爆弾)ヲ使用シテ頻リニ無辜(罪のない人)ヲ殺傷シ惨害(むごたらしい被害)ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ...」
 この、無条件降伏が、ドイツが降伏した5月に出されていたなら、広島、長崎の原爆投下も、ソ連の参戦もなかったであろう。
 この段階で日本は、「戦争遂行決意は不変」と声明を発表していた。
 これで、日本の敗戦は決定的となった。
 これから、どうなるのか、日本に帰れるのか全く見当がつかない。
 ここは、開拓民がほとんどであったので、ソ連兵がまだ来ていないのが幸いであった。
 それでも、女性はロシア人に犯されるそうだという噂が広まった。若い女性は頭を丸坊主にし、男服を着て、顔を泥で汚していたのもいた。姉の以代子も、坊主頭にし、顔に泥を塗った。
 そんなとき、本間家に再び奇跡が起こった。家店駅で別れた博が、繁雄たちを探してやってきたのである。
 博は、繁雄たちと別れたあと、全員がまた一 樹村に集められた。そこには、関東軍によって集められた蒙古兵がたくさんいた。これからソ連の国境に向かうという。
 関東軍の将校は、開拓団の若者たちを見て、これは戦争に使えない。お前たちはもう帰れといった。
 帰れといわれても、開拓団を乗せた汽車はもう発っている。軍隊は、開拓団のことは全く考えていなかった。
 博たちは、馬と水と食糧と銃をもらい、この線路沿いを行くと、先に行った開拓団に追いつけるはずだと、開拓団の仲間7、8人と、満人からの襲撃を避けるために、汽車の線路から離れず、近づ歩いた。
 この広い満州の大地。いつ追いつけるか分からない絶望に近い出発であった。