野呂修平バレエ一筋55年

5、敗戦と逃避行(3)

[野呂修平バレエ一筋55年]

  博たちが、銭家店から二日ほど歩いたところに飛行場があった。そこはすでにソ連に占領され、関東軍は武装解除されていた。兵隊たちは、これから捕虜としてソ連に連れて行かれるらしい。
 ここで8月15日に日本が負けたことを知った。
 満州では珍しく雨が降ってきた。博たちの、これからの苦難を暗示するかのように、雲がどんよりと下がり、50㍍先が見えないほどの土砂降りであった。
 飛行場といっても、小さな管理棟が一つあるだけで、雨宿りする場所もない。
 身体も靴もぐっしょり濡れた。靴が重くなり、ぬかるみに入ると足が抜けなくなる。また足が蒸れてくる。仕方なく靴を脱ぎ裸足になった。この方がずっと歩きやすい。
 兵隊の一人が、お前たちは軍人ではないからここにいる必要はない。ソ連兵に見つからないように、早くここを立ち去りなさいといった。博たちは、ここでも食料と水を貰い、再び馬に乗り南下した。 次に着いたのが、日露戦争で激戦地となった203高地とはそう遠くない法庫県である。法庫の市長は日本人であった。その法庫の、城壁で囲まれた小学校に入った。ここにはソ連兵はいなかった。
 ここでも、引揚げの日本人たちがたくさんいた。働き盛りの若者たちは皆軍隊にとられ、ここのいる人たちは、お年寄りと女、子供、あるいは病弱者だけである。
 しかし、軍隊は、引揚げ者たちにはほとんど目もくれず、むしろ邪魔者扱いさえした。引揚げ者をまとめるリーダーもいない。汽車がいつ来るかもわからない。軍隊は当てに出来ない。日本に本当に帰れるのかもわからない。
 城壁の外では、はっきりと組織された集団ではないが、満人たちが騒いでいる。
 戦争に負けたんだ。皆、途方にくれていた。もう日本に帰る見込みがないと悲観し、自決するものもいた。
 あるいは、子供だけでも助けたいと、満人に子供をあずける母親もいた。その子供たちが、戦後いわゆる在留孤児となったのでる。
 ここにはまだ中国共産党を中心とした八路軍もソ連兵も来ていなかった。
 博はこの法庫の市長から、一果樹村の開拓団が朝陽市にいるらしいという話を聞いた。
 満人たちは、博たちが乗ってきた馬を売れという。
 せっかく家族が朝陽市にいるらしいという話を聞いたばかりである。馬がなければまた歩いて行かなければならない。が、売らないといったら何をされるかわからない。
 しぶしぶ馬を渡したら10円くれた。
 当時の軍隊での上等兵の俸給は、上等兵で10円50銭、一等兵で9円であったから、これは助かった。
 法庫から一緒に馬に乗ってきた他の7人も馬を売った。
 夜になった。父たち家族がいる朝陽市はここからそう遠くない。ともかく南へ南へと一晩歩いたら着くだろうと、ここから抜け出し、線路づたいに一人で歩いた。
 空には満天の星。その星明かりが線路を照らしていた。
 朝陽市に、父や繁雄たちがいると思うと、足取りも軽かった。
 昼近くになって、朝陽市の城壁が見えてきた。やった、ようやく皆に会える。博が足早になった。
 と、そのとき、城壁の方から一人の男が歩いてきた。博にはすぐわかった。父甚五郎である。
 父は、博が必ず帰ってくると信じ、毎日城壁の外に出ては、博の来るのを待っていたのである。
 父には、遠くに人影が見えたとき、それが博だとすぐわかった。だから待っていられず歩いて来たのである。
 博は、「お父さん、ただ今帰ってきました」といい、敬礼した。

  父は、「良かった、良かった」と博を抱きしめた。
 こうして、奇跡的に、本間一家は再び家族全員が揃った。
 「良かった、良かった。もう離れないぞ」と皆思った。 そんな喜びもつかの間、ソ連兵がやって来た。
 ソ連兵たちは、ここは開拓団の避難民だとすると、あまり手荒なことはしなかったが、
これが軍隊かと思うほど、ぼろ服を着ていた。
 飛行場で見たソ連兵とは違っていた。
 ソ連兵は、黒光りするルパシカを着て、ぼろを巻きつけたような靴を履き、肩に自動小銃を下げていた。
 当時の日本の兵隊の持っている銃は、パーン、パーンと一発づつ撃つ銃に対して、ソ連兵の持っている銃は、71連発連続して撃てる、マンドリンと呼ばれる自動小銃であった。これでは日本が勝てるわけがない。
 ソ連兵には、荒くれた男たちに混じって、16、7歳と思われる少年兵や、女性の兵士もいた。
 ソ連は、ナチス・ドイツとの戦いで、多くの正規軍を失い、満州に投入した兵士は、刑務所上がりや、志願した少年や女性が含まれるなど、統制の取れたものではなかった。
 関東軍と戦ったソ連兵は訓練された軍隊であったが、ここに来ているソ連兵はどうも違うようである。
 ソ連兵は、避難民の一人一人の身体検査をし、金目のものを持っていると、それを有無言わさず取り上げた。
 抵抗しようものならすぐ自自動小銃を向けた。
 繁雄は、腕時計を二つはめていたが、それも取り上げられた。
 博は、法庫で売った馬の代金を靴底に隠していたので、幸いにそれは取られなかった。
 ソ連兵たちは、間もなく引揚げ、さらに南下して行った。
 それからしばらくして、八路軍がやってきた。
 八路軍は、満州事変(昭和6年/一九三一)によって満州を植民地化された中国で、中国共産党が抗日のために、蒋介石の国民党と提携。このとき共産党の紅軍を、中華民国軍に組み入れ第八路軍とした。この八路軍が後の人民解放軍となるわけであるが、このときはまだ八路軍を名乗っていた。
 しかし日本が戦争に負けたことから、ソ連の後押しもあり、国共合作が決裂。中国の内戦となった。
 八路軍には、後に日本共産党の議長になった野坂参三が、日本人民解放連盟を結成。捕虜になった日本人を、日本帝国主義がいかに中国でひどいことをしているか。これからは新しい時代がくるなど、教育していた。
 そんなこともあり、八路軍は、日本軍と、民衆を明確に分け、寛大な扱いをしていた。
 その八路軍の活動の拠点となった一つが、この朝陽からちょっと北に行った四平街である。
 避難民たちは、今度は八路軍の管轄下に置かれた。
 八路軍から、全員四平街に移るようにとの移動命令がでた。
 全員、汽車に乗り四平街に移動した。
 ここには、旧軍属の家族が使っていたアパートがあった。本間一家は、そのアパートの一室に入ることができた。家族8人では部屋が狭かったが、それでもようやく家族が一つの屋根の下で暮らすことが出来た。 この四平街は、蒋介石の国民党軍との戦いの前線であったが、まちは機能していた。
 そんなこともあり、塗装という技術を持っていた父甚五郎は、塗装の仕事があったし、また博は八路軍に入り、担架隊となり国民党との戦いで負傷した兵士を病院に運ぶ仕事をしていた。
 開拓団の多くの悲劇が伝えられる中で、本間一家は、この四平街で家族全員が揃い、生活にそう心配することもなかった。しかし、いつ帰国出来るのかわからなかった。運を天に任せるしかなかった。