野呂修平バレエ一筋55年

5、敗戦と逃避行(4)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 抗日のための第二次国共合作は、日本が負けたことにより、その意味をなさなくなり、再び国民党と共産党の内戦となっていた。
 四平街は、この町にどちらも駐留しているわけではなかった。いわば、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党の緩衝地帯であった。が、どっちかというと八路軍の方が優勢であった。
 中国共産党に野坂参三がいたこともあり、捕虜になった日本軍の多くは共産党軍に協力をしていた。
 時折、国民党軍の大砲の弾が街に着弾することがあった。子どもたちは、危険もかえりみず着弾したあとに駆け寄る。弾の破片を拾うのである。そしてその鉄くずを売って金にするのである。
 また兄義行と、廃院となった旧日本軍の病院に忍び込み電球をはずし、それを町に持っていって売り、帰りにお菓子を買ったこともあった。
 一家は、父甚五郎の教会で働く金と、兄博が八路軍から貰ってくる金で何とか飢えをしのいでいた。
 四平街の市街地が、八路軍と国民党軍の市街戦の戦場になったこともあった。
 八路軍が、繁雄たちが住んでいる建物の床下に入り、銃を構えていた。
 繁雄たちは、窓に畳を立てかけ、戦闘が終わるのを待った。幸いに戦闘にならず、家族全員が無事であった。
 数日後、数人の満人たちが八路軍の兵に縛られ、引きずられて行くのが見えた。
 どうも、国民党軍のスパイらしいということであった。
 その満人たちは、郊外の広場で射殺され、縛られたまま横たわっていた。
 しばらくすると、着ていた衣服が剥ぎ取られ、夜になると野良犬が血の匂いをかぎつけ、その死体を食べるのである。数日して、骨だけになり、散らばっていた。
 この四平街にはもちろん学校はない。一果樹村を出るとき、持てるだけもってきたが、それが汽車に乗る段階で、衣類や食料など生きるための最低限のものになり、教科書や勉強道具などは持って来られなかった。
 勉強というほどではないが、繁雄と義男は、紙に九九と覚えた漢字を書いたりして、忘れないようにしていた。
 ソ連の支援もあり、国民党と八路軍の戦いは、八路軍が優勢となり、八路軍はさらに南下していった。
 その後に、再びソ連軍が入ってきた。
 八路軍は、規律がしっかりし、住民や日本の開拓民が困るようなことはしなかったが、ソ連軍は違っていた。
 旧関東軍の倉庫に、砂糖やメリケン粉などの食料がまだ残っていた。それをトラックに詰め込むと皆持って行ってしまった。
 袋が破れたメリケン粉は残して行った。繁雄たちは、それを鍋に入れ持ってきた。
 皆、生きることに必死であった。
 ある時、食事のとき父が倒れた。軽い脳卒中であった。日本にいつ帰れるかわからない。父が仕事が出来なくなると、大変である。ここには医者もいないし、薬があるわけではない。必死に看病した結果、2週間ほどで良くなり、再び教会で働くことができた。 やがて新しい年を迎えた昭和21年(一九四六)になって、夏頃には日本に帰れるらしいという報が届いた。
 やっと生きて祖国の土が踏める。皆喜んだ。