野呂修平バレエ一筋55年

6、帰還(1)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 本間一家が満州に渡ったのが、祖父母、両親、そして子供7人の11人であった。
 うち、祖父はこんなところに住めないと、早々に帰国。祖母は老衰で満州の土となり、長男の持は兵隊にとられ、長女の以代子は満州で結婚をし子供が一人いた。
 が、以代子の夫も兵隊にとられていた。
 しかし、兵隊になっている長男の持も、以代子の夫も戦死したという知らせは届いていなかった。
 この時代、どこの家でも戦死したのが一人や二人いたが本間一家は、運がいいというか、奇跡的に誰一人戦争で死んではいなかった。
 これで全員元気で日本の土を踏むことが出来る。皆そう思った。
 が、軍関係者や満鉄関係者あるいは企業関係者がどんどん帰国して行くのに開拓団にその命令がない。
 8月に入り、開拓団にもようやく引揚げの帰国命令がでた。
 繁雄たちが、帰国の準備をした。しかし、持てるものは限られている。衣類と、何といっても一番大切なのは食料である。売れるものは売って缶詰や乾燥牛肉など食料に換えた。それをリュックに詰め、軽い衣料は両の手に下げた。
 その他、水筒やバケツ、食器などである。
 お金を持ち出せるのは千円までである。靴の底などに隠す者もいたが見つかれば没収される。
 千円というと開拓団にとっては大金である。幸いに繁雄たちにはそんな大金はなかった。
 また、病気などで自力で移動できない人たちは、そのまま残された。
 俺も連れて行ってくれと懇願するものもいたが、皆わが身だけで精一杯である。誰もじゃ連れて行こうという者がいなかった。
 もし、連れて行ったとしても無事日本に着けるかどうかわからない。
 皆、心を鬼にして家を出た。
 繁雄たちが家を出ると、満人たちが家に入り、家財道具などを我先にと持ち去った。
 四平街ノ駅に着くと、何百人という帰国する開拓団の人たちでごった返していた。
 汽車は、屋根もなければ枠もない、木材を運ぶような無蓋車である。
 脇には1・5㍍程度の横棒が渡してあるだけである。この無蓋者に立って乗せられた。
 汽車がゆるいカーブに差し掛かったと子供が振り落とされた。が、汽車は停まらない。日本は戦争に負けた。ああだ、こうだといって、帰国するのが遅れるのが一番怖い。
 誰も汽車を停めろとはいわない。まるで他人事である。
 母親は泣き叫び、半狂乱になって子供の名前を呼んだ。
 父甚五郎は、供養のお経をあげた。
 汽車は、何事もなかったかのようにガッタンゴットン、ガッタンゴットンと心地よいリズムに乗せ、時折ピーという甲高い汽笛を鳴らしながら走っていた。
 こうして、帰国船の待つコロ(葫蘆)島に着いた。
 満州にいた日本人居留民の帰国の唯一の希望の港となったコロ島は、もともと人家もまばらな小さな漁村に過ぎなかった。
 日本が負けたあと、ポツダム宣言に基づき、アメリカとソ連、中国が、日本人の帰国について話し合い、原則的にすべての在華日本人居留民を、出来るだけ早く日本人送還することに決まった。
 原則的にというのは、戦争犯罪人は別としてという意味である。
 そして、ソ連は旅順、大連にいた日本人27万人に責任を持ち、中国は難民を集め、陸路で港まで運ぶことになった。アメリカはそれを船で日本に運ぶのである。
 ところがソ連は、ソ連が支配する大連と営口の港を使うことを拒否した。
 そんなことがあり、港は広く、水深も深く、不凍港で、大型船が停泊できるコロ島が選ばれた。
 しかも、コロ島には鉄道が引かれていた。
 このコロ島から150万人の日本人が帰国することになる。