野呂修平バレエ一筋55年

6、帰還(2)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 コロ島は、2、3万人はいるであろうか。帰還者たちで溢れていた。戦争が終わってすでに1年ほど経っていた。
 これまでたくさんの仲間たちが、餓死や病気、あるいは戦闘に巻き込まれ、目の前で死んでいった。誰もが、死ぬなら日本の土を踏んでから死にたいと思っていた。
 1年経ってようやく帰還船までたどり着いた。日本はもうすぐそこである。
 しかし、すぐ帰還の船に乗船できるわけではない。
 取りあえずは、満鉄の社宅に入れられた。もちろん帰還者たちの乗船までの一時の待機所であるから、他の帰還者たちと一緒である。足を伸ばして寝ることもできない。
 2週間ほどして、ようやく乗船許可が下りた。
 が、病気の者は乗せることが出来ないという。
 病気の者は米軍の病院に連れられて行って殺されたそうだという噂がたった。
 繁雄たち本間一家は、幸いに病気になった者が一人もいなかったので、全員乗船することが出来た。
 帰還の船は貨物船である。帰還者たちは、荷物でも乗せるかのように、一つの船に2000人ほどが詰め込まれた。乗船すると、いい場所を取ろうと我先にと船倉になだれ込んだ。
 船の場所取りが終わると、皆甲板に出た。
 満州での数年間、楽しいこともあった。が、それ以上に苦しいことの方が多かった。
 子供を逃避行の途中で中国人に預けた母親がいた。病気の父を置き去りにした子供がいた。
 夫を亡くした若い未亡人がいた。
 甲板で、子供の名前を呼びながら泣き叫ぶ母親がいた。
 「オトウチャーン」と、泣いた子供がいた。
 もう二度とこの地を踏むことがないだろうと、唇をかみ締め、遠くを見つめる若者がいた。
 悲しいことも、楽しかったことも、苦しかったことも、皆それぞれ大陸での思い出と別れを告げていた。
 出港のドラがなると、ボーボーッと汽笛を鳴らし、船は静かに岸壁を離れた。陸地が見えなくなるまで甲板にいた者もいた。
 船倉は 足の踏み場もないほどの超満員。貨物船であるから、鉄板に筵をしいただけである。硬く冷たかったが、それでも皆は、死と向かい合った生活から開放され、日本に帰れるという希望がみなぎっていた。
 ここには、ソ連兵も満人もいない。誰にも邪魔されることはない。安堵感から疲れが出、皆身体を投げ出しどでっと豚のような格好で眠った。
 何日ぐらい経ったであろうか。船が大きく揺れだした。台風である。
 若い博がこのとき、引揚げ者に食事を配る食事班の係りをやっていた。
 船は大きく揺れ、階段で鍋をひっくり返す者もいた。が博は手すりにすっかり掴まりこぼさず運んだ。
 しかし、食事を持って行っても、船酔いでゲロゲロ吐き食べれない者が続出した。
 また、船に乗って、これで日本に帰れるとの安堵から気がゆるみ、容態が急変し亡くなる者が続出した。
 船には、病気になっても診てくれる医者もいなければ、亡くなった者を弔ってくれる坊主もいない。
 亡くなった者は、毛布に包み船尾から海中に水葬した。
 多少お経の心得があった父甚五郎は、船長に頼まれそのたびお経を唱えてあげた。
 遺体が海に投げられると、船は悲しそうにボ~、ボ~、ボ~っと長緩汽笛を鳴らし、その周りを3周し別れを告げ、再び船首を日本に向けた。
 本土を目の前にして無念であったろう。皆手を合わせ別れを惜しんだ。
 コロ島を経って5日ほど経った昼頃、甲板から、 
 「オーイ、日本だぞうーッ日本だ!日本だ!!」という声が聞こえてきた。
 皆、どっと甲板に出た。
 「オーイッ!、オーイッ!!」と叫ぶ者もいた。
 それは一人や二人ではない。
 日本に着いた。日本に着いた。生きて日本に着いたぞ!!と皆、心の中で叫んでいた。
 引揚げは、舞鶴や博多など6ヵ所の港が使われたが、この船は佐世保に着くという。
 こうして船は、8月中旬佐世保港に着いた。
 久しぶりに見る日本は美しかった。茶色い砂漠のような土はどこにもない。見渡す限りの青い空と緑の山である。きれいだ。これが日本だ。
 船は岸壁に横付けになり、タラップを降り、皆は広場に集められた。そこには、引揚援護局の職員が、皆をズラーッと並べ、DDTを頭から身体が真っ白になるほどかけた。
 DDTは、今は発がん性があり、また環境汚染物質として使用が禁止されているが、戦後、防疫対策の一つとして主にはノミやシラミなどの殺虫剤として、アメリカ軍によって日本に持ち込まれたものである。
 父甚五郎も、母ハルも、姉以代子とその子供も、博も、義行も、繁雄も、義雄も、省三も、爺、あるいは仙人や鬼婆のように皆頭が真っ白である。
 子供たちは、お互いに顔を見合わせて、おっ爺ー、お前こそ爺ーっと大笑いした。心からの笑いであった。
 こんなに笑ったのはいつのことであったろうか。
 戦争が終わってから、食うのと逃げるのがやっとで、笑いが消えていた。
 繁雄たち本間一家は、誰一人欠けることなく無事日本に辿りついた。
 それが、実感として身体の奥底から湧いてきた。
 一行は、引揚援護局のある収容先となっっている元海兵団の宿舎まで、7㌔ほど歩かせられた。
 ここで、引揚げ手続きをすると、当面の食料として乾パンが与えられた。
 さて、日本に帰ったもののこれからどうして生きて行くかを探さなければならない。
 まず長男の持と、祖父の繁三郎を探さなければならない。取りあえず満州に渡る前にいた東京に行くことにした。そこに行けば二人の行方はわかるであろうと、佐世保に2、3日居て繁雄たちは国鉄南風崎駅から東京行きの汽車に乗った。
 毎日2000人、3000人と引揚げ者たちが佐世保港に降りてくる。そしてそれぞれ故郷へ向かうのである。汽車は、窓からはみ出すほどの超満員であった。それでも、ともかく生きて日本に帰れた。一分でも一秒でも早く帰りたい。そんな気持ちから文句をいうものは誰もいない。
 しかし、窓の外には時折空襲で焼け野原となり、まだ復興の進まない町がいくつか見えた。
 東京・上野駅に着いたら一面の焼け野原である。改めて日本が戦争に負けたことを実感させられた。
 引揚げ者たちは、上野の寛永寺に集められた。ここに宿泊しながら、今後どうするかを決めなければならない。
 父甚五郎は、東京都庁に行き、長男持と祖父の行方を捜してもらった。
 数日して二人の行方がわかった。
 祖父は日本に帰って間もなく亡くなり、親戚が弔ってあげていた。長男の持は青森県の三本木町というところに開拓団として入植したというのである。
 父は、東京都庁から連絡をとってもらって、持のいる三本木町に行くことにした。
 青森県の三本木町。初めて聞く名前であった。
 青森県というと、まず雪が多い、寒いというイメージであったが、満州に比べたら、どんなに遠いといっても日本国内である。それに持もいる。
 よし、俺たちのこれからの住処は青森県だぞ。こうして繁雄たち本間一家が、昭和21年8月下旬、新天地への夢を抱き、上野から東北本線の夜行列車に乗り三本木を目指した。