野呂修平バレエ一筋55年

7、東京都開拓団(1)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 東京都開拓団。青森県三本木町の一本木沢地区に入植した、東京からの開拓団がそう呼ばれた。
 ここ三本木町は、台地であるために、川は30㍍も低いところを流れ、また火山灰土で水がないために、耕作には不適で、わずか馬が自然放牧されていた広大な原野であった。
 それを、安政2年(一八五五)に、新渡戸稲造博士の祖父である新渡戸伝が、十和田湖から流れ出る、この30㍍の落差のある奥入瀬川から、2本の穴堰を掘削し水を引いて開拓した地である。
 三本木台地に水を引いた後、伝の長男である新渡戸十次郎、つまり新渡戸稲造の父が、札幌に先駆けて碁盤の目状の都市計画をつくった。これが発展し三本木町となった。
 東京都開拓団が入った一本木沢地区は、もともとは日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一が、唯一所有していた不動産、渋沢農場の一部であった。
 それが終戦で、財閥解体に伴い、開放された土地であった。
 この渋沢農場の農場長をしていたのが、東京大学農学部を卒業して渋沢栄一に仕え、後に三本木市の初代市長・十和田市の名誉市民になる水野陳好であった。
 水野は当時、渋沢農場長の傍ら三本木農業会(農協の前身)の会長をしていた。
 昭和20年(一九四五)11月に、三本木農業会では、食糧増産のために開拓団を募集した。
 本間家の長男の持は、戦争が終わり、10月に復員したものの、親兄弟はまだ満州から帰らず、音信不通のままである。
 持は、とりあえず東京に戻った。が、満州に行くとき家を引き払っていたために、帰る家もなく、親戚の家を居候しながら転々としていた。
 持はもう20歳である。いつまでもこうしてはいられない。何か仕事を見つけなければならない。しかし、手職(技術)のない持には、なかなか仕事が見つからなかった。
 東京に帰って1ヵ月ほど経ったある日、親戚から用事を頼まれ世田谷の区役所に行った。
 そこで、目にとまったのが掲示板であった。
 掲示板には、全国各地の開拓地の紹介と、開拓者の募集要項が貼られていた。
 これだと思った。持は、その一つ一つをむさぼるように読んだ。
 そのほとんどは、来年(S21年)の4月入植とあった。
 が、その中の1ヵ所だけが、12月に行って、その冬は炭焼の手伝いをして、4月に入植させるというのがあった。但し、春の入植までは単身でというのが条件であった。
 それが青森県の三本木町であった。
 青森県の三本木町?、聞いた事もない町であった。青森県か、寒いだろうなと思ったが、満州に比べたら大したことないだろう。この食糧難の時代に、いつまでも親戚の世話になっているわけには行かない。開拓は満州で経験済みである。食えればいい。ともかく東京を出なければならない。そう思い、翌日、早速区役所に行き、開拓希望を申し込んだ。
 11月中旬になり、東京都庁から、開拓合格の通知が届いた。
 出発は、師走も押し迫った12月26日とあった。合格した23人が上野駅に集合した。
 一行は、上野駅から東北本線に乗り、青森県の三本木町を目指した。
 汽車は18時間近くもかかり、ようやく古間木駅(現三沢駅)に着いた。
 雪が降っていた。やはり青森は寒い。
 ここから十和田鉄道(現十和田観光電鉄)の軽便鉄道に乗り換え、終着の三本木駅に着いた。
 その夜は、三本木農業会の事務所の2階に一泊した。
 が、翌日7人が、こんな寒くて、東京から18時間もかかる遠いところでは暮らせませんと、帰ってしまった。
 残ったのは16人のみとなった。 
 メンバーは、16人のうち7人は元将校で、みな大学出である。その他、専門学校や旧制中学を出たひとばっかり。いわばインテリゲンチャである。高等小学校しか出ていなかった持は、ちょっと肩身が狭かった。
 しかし、俺には若さだけがある。子供相撲で誰にも負けたことはない。働くことだったら誰にも負けないという自負があった。
 春までは炭焼の手伝いである。四和という地区の、月日山の麓で、地元の人たちが炭焼をしている。
 炭焼小屋は山の中腹に作られていた。
 この炭焼小屋から、炭俵を2俵背負い、道路のある炭倉庫まで運ぶのが仕事であった。これは持にとっては得意の仕事である。
 力仕事をあまりしたことのないインテリゲンチャたちに、負担のかからない背負いからなどを教えた。本間は若いけれどすごいとほめられた。
 一行は、この炭倉庫の一角で寝泊りした。
 こうして正月を迎え、元旦には、これから大変であろうが、お互いに助け合って頑張ろうと、入植者の一人が持ってきたウィスキーで乾杯した。noroshuuhei1.jpg  写真は、原野を切り開く開墾の様子(『写真集明治・大正・昭和の十和田』より)