野呂修平バレエ一筋55年

7、東京都開拓団(2)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 しかし、東京からいきなり真冬の青森県である。覚悟はしていたものの、炭倉庫は隙間だらけで、部屋の中まで雪が入ってくる。
 寒くて、とてもここには住めないと、世話をしてくれた三本木農業会会長の水野陳好に話し、三本木農業会の2階に移り住むことになった。
 4月になり、入植地が決まったということで、東京から来た16人は、現地視察に行くことになった。
 場所は、三本木町の北側、渋沢農場の事務所の裏手に当たる一本木沢という地域である。
 ここは、三本木の市街地から意外に近く、平地で、しかも馬の放牧地であったらしく原野であった。
 他の入植地は、木を切った跡で、木株がごろごろしていた。そんな入植地から比べたら天と地ほどの差がある。
 他の入植者は、農家の次三男が多かった。その人たちは、その条件の悪いところに入植させられた。
 それに比べると恵まれた入植地である。
 これは多分、農業もやったことがない東京都開拓団が大変だろうと、東京都開拓団を世話した渋沢農場長で、三本木町農業会の会長であった水野陳好の計らいであったろう。
 その原野を、一人当たり2町5反(2・5㌶)づつ分け与えられた。
 そして家は、払い下げてもらったそれぞれの土地に建てることになった。
 だから、入植する16人は、一ヵ所に集まり集落をつくるのではなく、それぞれ自分の土地にバラバラに建てることになった。
 建物は、旧軍馬補充部の馬小屋を分割して持って来て、それに手を加えたものであった。
 壁は板壁、屋根は杉皮葺き、床は丸太の土台に板を敷いただけである。 
 月日山の炭小屋よりましだが、それでも雨が降るとあっちこっちから雨漏りがした。
 それを見かねた水野は、渋沢農場の山から木を切り出し補強してくれた。
 持は、国営開墾事務所から、馬2頭、牛2頭払い下げてもらった。
 持20歳。こんなあばら家でも、2町5反の土地と、馬2頭、牛2頭の持つ開拓農民の主である。
 あとは家族が来るのを待つだけである。
 繁雄たちは、上野駅から夜行列車に乗ったが、汽車は駅があるごとにすべて停まる鈍行である。走っては停まり、走っては停まりで青森県の古間木駅(現三沢市駅)に着いたのは、午後3時頃であった。上野駅を出てほぼ20時間経っていた。
 そこからまたローカル線十和田鉄道(現十和田観光電鉄)の軽便鉄道に乗り、終点の三本木駅で降りた。
 駅に降りたところに、持が2輪の馬車で、迎えに来ていた。
 母と、姉以代子と赤ん坊は馬車に乗せ、男たちは馬車の後を、これから始まる生活に期待と不安を織り交ぜながら、ただ黙々と歩いた。
 軽便の汽車と平行して流れている川は、澄んでいて
きれいだった。
 これが、後で新渡戸稲造博士の祖父たちが切り開いた稲生川だとわかった。
 三本木から三沢に行く県道から北に折れると、細い馬車道がまっすぐ続いていた。その途中に、繁雄たちがこれから行く開拓地があるという。
 ただだだっ広く、どこか満州にも似ていた。
 西の方を見ると八甲田連峰が見えた。
 1時間ほど歩いたところに、持が東の方を指差し、あれが俺たちの家だといった。
 そこには、畑の中に2間に3間ほどの、小さなあばら家が建っていた。
 どんなあばら家でも、日本に帰ってからの、狭いながらの我が家である。
 長男持、父甚五郎、母ハル、長女以代子とその子供、次男博、三男義行、五男義雄、六男省三、そして四男の繁雄と、一家10人が三度同じ屋根の下で暮らすことになった。
 母は、家に入ると、じゃがいもや、馬の餌として置いてあった豆腐粕(おから)や、食べられるものを探し、料理した。
 なにしろ、上野を出てから一食しか食べていなかった。育ち盛りの子供たちである。みんな腹ペコであった。
 馬の餌の豆腐粕でも、母の手にかかったら一品料理である。
 みんながつがつと美味そうに食っていた。
 しかし、それからが大変であった。
 繁雄たちを一本木沢に世話した水野陳好が、『どろ雛』の中で、東京都開拓団のことを次のように書いている。
 「入植した人々は、どの人々も非常に苦労をしたようです。
 ということは、水田がなく畑だけですから、とうもろこしとか、馬鈴薯とか、大豆とか、そういうものを植えて暮らしておりました。食糧が切迫している頃でしたが、だんだんと雑穀が安く、働いても金にならなかったし、米が不足し、経営が非常に難しかったのです。
 当時の子供さんというのは、大変だったと思うんです。一本木沢小学校でも、その当時の生徒の教育には、非常に努力されたと思います。休む人もあれば、お弁当を持って来ない人もあったろうし、実にその状況はひどかったです。
 藤坂とか、十和田湖町から入ってきた人は、分家ですから、家は割合によかったのです。藤坂なんか大体分家して、家を建ててもらった人もいてよかったけれど、ただ、畑作なので、大豆とか馬鈴薯とか、とうもろこしというような物だけしか作らなかったのですから、生活が非常に苦しかったのです。
 そういうことで、生活面から見た子供たちを、学校で教えることは非常に困難だったろうと私は思うんです」
 この文章を、言葉を変えていうなら、東京都開拓団以外は、地元の農家の次、三男で、分家という形で入植した。そのために家を本家から建ててもらった人もいた。
 しかし、それでも米を作れず、作る作物は安い雑穀ばかりで生活は楽ではなかった。
 東京都開拓団の人たちは、家は軍馬補充部の馬小屋の払い下げ。誰からの援助もない。大変だったろうといっているのである。