野呂修平バレエ一筋55年

8、三本木町での生活(1)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 繁雄たち本間一家は、東京麻布を出てから、満州一果樹村を経て、ここ青森県三本木町にたどり着いた。満州で戦争に負け、死と隣り合わせしながらも、誰一人欠けることなく、一家は全員無事で、この三本木で再び顔を合わせることができた。
 満州からの帰還中、知っている人たちがたくさん死んだ。運が良かったというほかない。
 三本木に来て、開拓ではあるが自分の土地を持つことができた。寒いといっても、満州と比べたら大したことはない。もう、あっちこっちとは行きたくない。この三本木に落ち着いて、ここを終の棲家にしたいと誰もが思った。
 三本木に来て一段落すると、父や兄たちが仕事を探し、子どもたちは学校に行く準備をした。
 繁雄と弟の義雄は、地元の三本木小学校に入ることになった。
 学校は、町の中心部にあり、この一本木沢から約4㌔、田んぼ道を歩き1時間ほどかかった。
 繁雄は小学校6年に、義雄4年に編入になった。
 繁雄は6年2組であった。学校に行った最初の日、先生が、東京から来た本間繁雄君です。みんな仲良くしてくれと、繁雄を紹介した。
 「本間繁雄です。よろしくお願いします」と頭を下げた。
 すると、
 「おめえ、いいふりこいで、どごの言葉しゃべってんじゃ」と、席の後ろにいた男生徒がいった。
 それに呼応するかのように、もう一人の男生徒が、
 「ほだほだ、東京弁が」といった。
 皆が、ワ、ハハハハハと笑った。
 繁雄は顔を上げて、何か話したその生徒の顔を見た。
 繁雄は、満州から帰るとき、人の死をたくさん見てきているから、怖いものは何もなかった。
 ましてや、腕力なら、同じ年の連中には負けないという自信があった。
 それより困ったのは、二人ともここの言葉、いわゆるズーズー弁である。二人が繁雄に何を話して皆が笑ったのか、わからなかった。
 先生が、「コラッ!騒がしいぞ」といって、
 「本間君の席は、窓際の川村さんの隣りの席だな。川村さん、分からないことがあったら教えやってくれ」といった。
 川村といわれた女の子は、背はあまり大きくないが、オカッパの可愛い子であった。
 また、最初に「おめえ...」といった生徒が、
 「ヒョー、ヒョーいいぞ。お似合いだぞ」と、繁雄を茶化した。
 ともかくも、こうして繁雄は三本木小学校6年2組にの一員となった。
 こんなこともあった。
 体育の時間に、男は外の相撲場で相撲をとらされた。
 相撲は勝ち抜き戦で、繁雄は勝ち進んで、決勝で当たったのは、このクラスの級長であった。
 多くの生徒は、顔が黒く着ているものを見ても、農家の子供だろうとわかったが、級長だけは色が白く、頭がよさそうで、多分給料取りの子供であろうことがわかった。
 一番上の兄の持は、明治神宮で行われた相撲大会で優勝したほど強かったし、家では兄弟で相撲をとっていたというもとあって、技も知っていた。
 そんなこともあって、級長がなんで決勝まで勝ち進んできたのかと思うほど弱く、繁雄は簡単に投げ飛ばしてしまった。
 満州から喰うや食わずの逃避行を続け、三本木に来てからも芋を食っていた繁雄である。背もそんなに大きくもなくガラガラにやせていた。
 級長にしてみれば、都会育ちの、しかもガラガラにやせたやつに負けたとあって、メンツ丸つぶれである。相当悔しかったであろう。
 体育の授業が終わって教室に入ると、級長の子分がまた、「おめえ、何で級長に勝ったんだ。この野郎!!」といって、机のフタで繁雄の頭を叩いた。
 ははー、みんなは級長にわざと負けていたんだとわかった。
 このとき繁雄は何もいわず、頭を叩いたその生徒をにらみ付けた。生徒は後ずさりした。相撲大会で繁雄が強いことがわかっていたから、本当にかかってこられたらかなわないことは知っていた。
 それ以降は、誰も繁雄に対して、あれこれいう者がいなくなった。
 また、こんなこともあった。
 二学期の終わり、冬休みに入る前に、皆に通信簿が配られた。そこで皆が通信簿を見て一喜一憂するわけだが、これまでは級長が一番良かったらしい。
 隣りの席のオカッパの女の子が、
 「本間君のいいでしょう。見せて」といった。
 繁雄は、特別にガリ勉的に勉強をしているわけでもないし、ま、こんなもんだろうと思い見せた。
 すると、女の子は、
 「わーッ、すごい!!本間君が優が七つもある」と叫んだ。
 皆が、どれどれと寄ってきた。
 これも級長のプライドを傷つけたらしい。
 あとでわかったことだが、級長は優が六つしかなかったらしい。繁雄は級長より、優が一つ多かった。
 このときもまた、級長の子分に机のふたで頭を殴られた。が、繁雄は手を出さず、その生徒をにらみつけただけであった。
 冬は大変であった。開拓からの田んぼ道は、朝は道がなくなるのである。
 親たちは、カンジキを履き、道をつけてくれた。
 繁雄も三本木の生活になれたころになると、父と兄の義行は、米軍三沢基地に入っている塗装会社に仕事が決まり、毎日電車で通っていた。
 長男の持は、農業をやるかたわら、東京都開拓団をいろいろと世話をしてくれた、渋沢農場長の水野陳好の計らいで、三本木町役場に入った。
 また、長女以代子の夫も戦地から無事復員し、しばらく二家族が同じ屋根の下で暮らし、一家はにぎやかになった。
 翌年になると、近くの八斗沢という地域の千里平で開拓団の募集があり、三男の博はその開拓に入ることになった。
 また、一人では大変だろうと、嫁を世話してくれる人があり、掘っ立て小屋ながら、博も一家の主となり独立した。
 また、姉の以代子一家も、隣り大三沢町に仕事を見つけ出て行った。
 このころになると、喰うや食わずの生活から、それぞれが仕事につき、生活も安定してきていた。