野呂修平バレエ一筋55年

8、三本木町での生活(2)

[野呂修平バレエ一筋55年]

 三本木に来て1年、繁雄たち本間一家も三本木の生活になれてきた。
 繁雄は、三本木小学校から三本木中学校に進んだ。
 三本木中学校は、小学校よりさらに西へ500㍍ほど行ったところの、街の外れにあった。一本木沢からは遠くなり通学に1時間以上もかかった。校舎は東西に細長く、廊下は100㍍競争できるくらいもあった。それもそのはず、旧軍馬補充部の厩舎、つまり馬小屋を改築したものであった。
 繁雄は、この中学校での思い出は、3年間通ったはずなのに何故かあまり覚えていない。覚えているのは、毎朝、やはり厩舎を改築した体育館で、仲間とバスケットをやったことと、版画の授業だけである。
 繁雄は、三本木中学校から三本木高校に進んだ。
 三本木町は、当時人口2万足らずの小さな町であったが、高校が二つあった。
 一つは、明治31年(一八九八)に開校された歴史ある三本木農業高校。そしてもう一つは繁雄が入った三本木高校(以下三高)である。
 三高は、もともとは女学校であったが、戦後の学制改革で、昭和24年(一九四九)に男女共学の普通高校となった高校である。
 その男女共学となったばかりの三高は、男子より女子生徒の方が多く、学校の東側に女子寮がある、まだ女学校の匂いが抜けきらない高校であった。
 そんな三高に入ってきた男子生徒は、このまちの商家の子息や、親が学校の先生や、役場に勤めているサラリーマンの家庭が多かった。
 馬小屋を改築した中学校とは雲泥の差である。
 女学生といっても、生まれは東北の三本木である。そのほとんどはズーズー弁であった。繁雄は、曲がりなりにも東京生まれである。言葉は、一応標準語である。
 あの人は本間繁雄って、東京から来た人だってよと、女子学生から注目された。
 ちょうどその頃、原節子と池部良主演の『青い山脈』の映画が話題になっていた。
 繁雄にとっては、まさに『青い山脈』で、一気に青春が来たような心持であった。
 ここから、まだ愛までは行かなかったが、スポーツ、文化に打ち込む、繁雄の青春が始まった。
 しかし、子供の多い本間家。生活は決して楽ではなかった。弁当は米の飯ではなく、じゃがいもをすって絞り、それを小麦粉と混ぜ、ハンバーガーにようにフライパンで焼いたものが入っていたときもあった。
 冷めるとモソモソして決して美味しいものではなかった。人に見られないように隠れて食っていると、友だちが「ワの弁当ケ」といって、繁雄にくれたこともあった。
 三高は、小学校のすぐ近くであったから、通学の時間が中学校ときより短くなった。
 繁雄は、靴が買えなかったので高下駄を履き、わざわざガラッ、ガラッと引きずり、音をたてながら登校した。
 またカバンは、商家の子息らは皮の黒カバンだったのに対して、繁雄はさらした帆布の肩掛けのカバンを左肩に掛け、バンカラを気取っていた。
 繁雄たちは、新制の試験を受けて入った男子生徒の第1期生であるが、旧制との関係で2年生に編入された男子生徒たちもいた。
 ということから事実上男子生徒の第2期生となっていた。
 この三高は、もともとは女学校であったから、戦前は男性と話す機会はめったになかった。それが戦後の民主化で、男女平等になったのである。女子学生にとっては、男尊女卑からの開放である。
 三高の全学生は180人ほどであったが、女性と男性の比率は6対4で、圧倒的に女性の方が多かった。
 繁雄たち一つ上の学年に至っては男子生徒は全体で21人しかいなかった。
 高校時代は、1学年違うとずいぶん先輩に見える。2学年も違うものなら、話もできないほどの先輩であった。
 逆に先輩にとっては、新入の男子学生は可愛い後輩である。
 そんな先輩の女子学生に、ひときわ目立つ女子学生がいた。繁雄は、その女性に憧れたが、何も進展のないまま、その先輩は卒業して行った。
 多くの男子学生は、これまで女性と気軽に話したことがない。女性の気勢に押され隅っこで小さくなっている男子生徒もいた。
 男子学生が入ってきたので、新しい部活も出来た。
 繁雄はスポーツが得意であった。
 繁雄がまず入ったのは、中学校のときからやっていたバスケット部である。
 学校の隣りに澄月寺というお寺があった。夏の合宿のときなど、お寺からお盆のお供え物である饅頭などの差し入れがあった。
 繁雄はまた、中学校の時から、毎日1時間以上もかけて通学し、足が鍛えられたということもあったろうが、走ることが得意であった。中学時代からマラソンは負け知らずで、学校のマラソンでは常に第一位。駅伝競走では三高の代表としてアンカーを務めた。
 また、上北郡の青年陸上競技大会の棒高跳びの国体予選で1位になったこともあった。
 そんな繁雄は、母の自慢でもあった。今日はマラソンだというと母は、玄関で「これを飲んで頑張って来い」と、卵を割ってのませた。そのときは必ずといっていいほど校内第一位でゴールできた。
noroshuhei2.jpg 三本木でのでの家族の写真。前列写真左から憲治(小2)、六男省三(小5)、五男義雄(中2)、立っているのは四男繁雄(高2)。中列左より、父甚五郎、持の友人、母ハル、次男博の妻、後列左より、長男持、次男博、三男義行