野呂修平バレエ一筋55年

8、三本木町での生活(3)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 高校生活は、繁雄にとって青春そのものであった。
 スポーツは勿論であるが、文化活動も、音楽や演劇、絵画と、雪が溶け、木々がいっせいに芽吹き花を咲かせるように、繁雄にとっては、繁雄のその後につながる花開いた時期でもあった。
 この時期は、日本中がそうであった。
 文化にとっては、まさに冬であった重苦しい軍国主義的な戦争体制から開放され、都市でも農村でも若者たちがいっせいに文化の花を咲かせた時期であった。
 繁雄に、そんな文化の風を吹き込んでくれたのは、音楽の長谷川芳美先生と版画の植田先生であった。
 長谷川先生は、クラシック音楽を聴かせ、声楽やヴァイオリンを教えてくれた。
 クラシック音楽は、『マドンナの首飾り』や『タイスの瞑想曲』、『ヴァイオリン協奏曲』などである。
 これまで、民謡や演歌、浪曲しか聴いたことのなかった繁雄には、夢と創造を膨らますに十分足りる音楽であった。
 植田先生は、絵の構図や色など、絵心を教えてくれた。
 また、学校に石井漠舞踊団が来て公演した。まだ小学生であった松島トモ子の踊りが可愛いく、強烈に心に焼きついた。
 街の映画館では、バレエ映画『赤い靴』をやっていた。
 繁雄はそれらを、乾いた砂が水を吸い込むように、吸い込んだ。
 ただ吸い込んだけでなかった。吸い込んだことを実践する機会もたくさん与えられた。
 三本木町の春祭りである太素祭では、長谷川先生が率いるバンドの一員としてヴァイオリンを担当し演奏した。
 年末のクリスマスには、近くの教会で行われる聖歌隊に駆り出され歌った。
 また、後に松山善三プロダクションを設立し、映画監督となる附田博らと演劇部を立ち上げ、坂田三吉の『王将』をやり、この地域の演劇コンクールで優秀賞を受賞。その凱旋講演を学校の講堂で行い、ヤンヤの喝采を受けた。
 気のいい仲間もたくさんいた。
 先生の息子で演劇を一緒にやった附田博君、高橋うどん屋の高橋康男君、三蔵商店の杉本順二君、むら福菓子店の伊藤文雄君、後に看板屋「杉工房」を立ち上げる杉本敬三君、十和田村から通っている川原清海君らである。
 杉本順二君は、ダンスが得意で、演劇部に入って一緒にやった。
 三本木高校は、もともとは女学校であったということもあり、寮は女子寮しかなく、学校の北側の澄月寺の入り口にあり、男性禁制であった。
 その女子寮に、上級の女生徒に何故か、附田君と繁雄だけが招かれ、炬燵に入りミカンやお菓子などをご馳走になった。
 炬燵の中で女子生徒と手を握ったかどうかは定かではない。
 附田君も繁雄も言葉が標準語で、演劇部で活躍し、ヴァイオリンを弾き、しかもスポーツは万能ときている。女生徒には人気者であった。
 しかし、楽しいことばかりでもなかった。
 開拓に入ったものの、米は獲れず、作付けは、麦やじゃがいも、大豆、菜種などであった。
 幸いに父は塗装の技術を持っていたので、父と三男の義行は、塗装会社に入り、米軍三沢基地で仕事をしていた。長男持は三本木役場に入っていたものの、繁雄をはじめ、五男義雄、六男省三がまだ学校に通っていた。楽な生活ではなかった。
 月末近くになると、弁当には、じゃがいもを擦って搾り、それをフライパンでハンバーガーのように焼いたものが2個入っていた。
 皆はお米の弁当である。繁雄も家の事情は知っている。が、そんな弁当を恥ずかしくて同級生に見られない。繁雄はお昼になると、そっと校庭に出て、隠れるようにして弁当を食っていた。
 形はハンバーグのようであるが、中身は冷めたじゃがいもである。決して美味しいものではなかった。
 昼になると、繁雄が弁当を持ち、教室から逃げるようにして外に出て行く。
 それを察したうどん店の高橋君が、自分も弁当を持ち、繁雄の後を追った。
 繁雄がじゃがいもの弁当を開こうとしていると、後から、
 「俺は今日あまり腹減ってないんだ。これ食じゃ」といって、自分の弁当を差し出した。
 腹が減っていないわけがない。繁雄にはすぐわかった。その友情に感謝して、
 「ありがとう」といって、高橋の手を握り、弁当を受け取った。
 高橋の弁当は、真っ白な米のご飯で、おかずにシャケが入っていた。
 繁雄はその弁当を高橋と半分ずつ食った。
 その時の弁当の美味しかったこと。その味は喜寿を過ぎた今でも忘れない。
 それ以後高橋は、学校の帰りちょくちょく、
 「オイ、ちょっと家に寄って行けヤ」と誘い、夕ご飯を食べさせてくれた。
 また、杉本敬三君も、「オイちょいと寄っていけや」と誘ってくれた。
 そのとき杉本君のお母さん手づくりの、大根をナタで削って、麹と身欠きニシンで漬けた「ガックラン漬け」を食わせてくれた。甘辛いこの味も忘れられない。ふるさとの味である。
 繁雄もそんな友情に甘えてばかりはいなかった。
 春は、山に行ってワラビやゼンマイ、セリなどの山菜を採り、八百屋に持って行くと、結構高く買ってくれた。
 また秋は、山に入りアケビや初茸を採り、やはり八百屋に持って行き、その金で学用品などを買った。
 でも、一番の楽しみは手塚治虫の漫画『ジャングル大帝』を買うことであった。
 開拓集落に入るとりんごを栽培している農家もいた。秋になると、りんごはたわわに実る。そのりんごを一つ、二つ失敬して、丸かじりで食いながら帰ることもあった。
 三本木高校時代の三年間は、長谷川芳美先生との出会いと音楽、演劇、松島トモ子のバレエ、バレエ映画『赤い靴』、スポーツ、そして友情など、後に繁雄がバレエダンサーとなる、基礎的なことをすべて引き出してくれた。
 この三本木高校の三年間がなければ、バレエダンサー野呂修平はなかったであろう。