野呂修平バレエ一筋55年

10、運命の出会い

[野呂修平バレエ一筋55年]
 テレビでは力道山が活躍していた。
 昭和28年2月、NHK東京放送局によって日本初のテレビ放送が開始された。
 その翌昭和29年(一九五四)からプロレスがテレビ放映され、そのヒーローとなったのが力道山である。
 テレビはまだ一般家庭には普及されていなかったが、電気屋などの店頭ではテレビが放映され、プロレスが始まる夕方になると、電気屋の店頭は黒山の人だかりになった。
 力道山が宿敵であるシャープ兄弟を空手チョップでやっつけると、「ウオーッ、やった。行け、力道山!やっつけろ!!」などと、店頭に集まった人々は興奮のるつぼと化した。
 力道山は、戦争に負け、アメリカに劣等感を感じていた日本人の心を鼓舞した。
 そして帰りは、赤ちょうちんで一杯やりながら、力道山の話で盛り上がった。
 戦争が終わって約10年、日本は焼け野が原から復興し、経済が高度成長に向かうその前夜であった。
 繁雄は、矢吹社長が経営する貿易会社に入り、社長の家に住み込みで働いていた。社長の家は、新宿の山の手といわれる落合の一等地にあった。
 会社は、西武新宿線、新宿から3つ目の中井駅を降りてすぐのところにあった。
 貿易会社といっても、社員は20名ほどの小さな会社で、米軍の、立川基地、横田基地、ジョンソン基地(現入間基地)、そしてちょっと離れるが、愛知県の小牧基地と、基地内に売店を持っていた。
 勿論、相手は米軍とその家族である。だから英語が話せなければならなかった。
 入社し、制服となる背広とYシャツ、ネクタイが支給され、繁雄は、立川基地に配属された。
 そこで、先輩の後藤さんは、流暢が英語で話し、アメリカの婦人たちに品物を売りさばく。
 繁雄には、何を話しているのかまるでチンプンカンプンである。
 初めて近くで見るアメリカ女性にも圧倒されたが、それ以上にそんなアメリカ女性に臆することもなく、流暢な英語で話し、品物を売る後藤先輩はすごいと思った。
 繁雄は、同じ入社同期の白川君と、津田英語塾に通い英語を勉強した。
 その英語の先生が、後でわかったことだが、後に第2次鳩山内閣で郵政大臣として入閣した松田竹千代代議士の奥さんであった。
 繁雄と白川は、たまに塾をさぼり、神宮の聖徳記念絵画館付近で、時間をつぶして帰った。
 翌日、社長に呼ばれて、お前たちは昨日塾をサボったなと、こっぴどく怒られた。
 そこで初めて、塾の松田先生は、松田竹千代代議士の奥さんで、矢吹社長と懇意にしていることがわかった。
 これだと、塾をサボるとすぐ社長に通報される。以後、真面目に勉強した。 
 やがて、仕事にも慣れると、休みの日は、新宿に出かけ、喫茶店で時間を過ごす日が多くなった。
 行きつけの喫茶店は「らんぶる」といい、ここでクラシック音楽を聴くのが楽しみであった。
 しばらくして、生活にも余裕が出てきたので、手廻しの蓄音機を買い、レコードを買って、仕事が終わると自分の部屋で聴いた。
 最初に買ったレコードは、ベートーベンの『ヴァイオリン協奏曲』であった。
 これらクラシック音楽は、繁雄が後にバレエをやる音楽的な基礎となる素養を身につけさせた。
 夢中で仕事をし、仕事にも東京にも慣れたころ、高校時代の友人である杉本順二君から、婚約発表のパーティーをやるからという案内状が届いた。
 20歳にもなるかならない若さで早いなと思ったが、相手は、高校時代の男子生徒のマドンナで、繁雄も憧れていた同級生の女性である。これは何がなんでも行かなければならぬと、会社から休みをもらい帰郷した。
 パーティーには、友人である高橋康男君や、伊藤文雄君、杉沢敬三君など同級生も参加していたが、杉本君と婚約した女性は、高校時代に増して綺麗になっていた。
 ともかくも、杉本君の婚約を祝い、同級生たちと旧交を暖め、その日の夜行で帰京した。
 帰りの汽車の中で、高校時代の想い出がよみがえってきた。
 繁雄が上京するとき彼女が、東京に行っても頑張ってねと、古の言葉を贈ってくれた。
 それには、
 「怠らず行かば千里のはても見ん 牛の歩みのよし遅くとも 」という道歌が書かれてあった。
 繁雄は、それを座右の銘とし大事にしていた。
 あの女性が順二君の嫁さんかと、心の中では祝う気持ちと、寂しい気持ちが複雑に交差した。
 そんなことを思いながら、一睡も出来ぬうち上野に着いた。
 ある日の夕方、気品のある婦人と、モダンで垢抜けした紳士が、社長を車で迎えにきた。
 その夫人こそが、繁雄が後に入団することになる第二次世界大戦前からバレエ界で活躍し、後に日本バレエ協会の初代会長に就任することになる、日本バレエ界の中心的存在であった服部智恵子であり、紳士はその夫で、やはり後に新国立劇場舞踊部門初代芸術監督などを務めることになる島田廣であった。
 繁雄はそのときは、格好のいいカップルだなとしか思わなかったが、この出会いはその後の繁雄の人生を変える、まさに運命の出会いであった。
 実は、服部智恵子の娘と、松田竹千代の娘が友だちで、一方、松田竹千代と矢吹社長が友人であった。そんなことから、バレエ公演の誘いに来たのであった。
 バレエというと、高校時代に松島トモ子のバレエを観て、その美しい舞台に魅せられことがあった。
 それから数週間して、例の服部・島田バレエ団の公演があることを知り、観るに行った。
 本格的なバレエを観るのは初めてであったが、そこには、音楽や演劇他、ジャンプや回転などの躍動感ある動き、そして美術と、繁雄が高校時代にやってきたことが全部含まれていた。
 繁雄はいっぺんにバレエの虜になった。