野呂修平バレエ一筋55年

11、服部・島田バレエ団に入る

[野呂修平バレエ一筋55年]

 「一期一会」、あるいは「人生は選択の連続である」という言葉がある。
 高校を卒業したとき、大学には行けないとわかり、たまたま学校に来た矢吹社長に会い、矢吹社長の会社に入った。
 このとき、父親が探してくれた三沢の会社に入ったなら、現在の野呂修平はなかったであろう。
 また、矢吹社長が、服部・島田バレエ団の服部さんらと友人であったことが、バレエの道に入るきっかけとなった。まさに一期一会であった。
 バレエの魅力に取り付かれた繁雄は、会社の先輩に「バレエをやりたいがどうしたらいいだろう」と相談した。
 気の早い先輩が、じゃ芸名をつけようと、二人で考えたのが「野呂修平」であった。このときの芸名野呂修平が現在まで続いている。
 そうこうしているうちに、繁雄と先輩の二人に、愛知県の小牧基地に行けという転勤命令が下された。
 が、繁雄の、バレエをやりたいという気持ちはおさまらず、休みの日に名古屋市内のバレエ教室を探し、そこでレッスンを受けることにした。
 バレエを知れば知るほど、バレエに対する気持ちが高まってきた。本格的にバレエをやるには地方では駄目だ。やっぱり服部・島田バレエ団に入るしかないと、翌昭和29年(一九五四)の秋に、繁雄は会社をやめ東京に戻ってきた。
 繁雄は、服部・島田バレエ団とそう遠くない、代々木八幡宮近くに、三畳一間のアパートを借りた。
 そして、まず食わなければならない。アルバイトを探した。アルバイトはすぐ見つかった。洗濯屋のアイロンがけの仕事である。
 仕事場は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)本部が置かれている、丸の内の第一生命会館である。ここで、兵士や下士官の上着や下着などを洗濯したものにアイロンをかけるのである。
 周りは、アルバイト以外は皆外人ばかり。このとき、前の会社で覚えた英語が役立ち、重宝された。
 こうして、部屋とアルバイトを見つけ、この年の12月に、服部・島田バレエ団に入団した。
 しかし、繁雄はそのときは、バレエの舞台に魅せられただけで、服部・島田バレエ団が、どんなバレエ団かはよく知らなかった。
 服部・島田バエレ団を率いる服部智恵子は、明治41年(一九〇八)、帝政ロシア時代のウラジオストクで、貿易商の家庭に生まれた。最初は社交ダンスをやっていたが、バレエに魅せられ、ロシア帝室バレエ学校出身のリュージンスキーの門下となった。
 ところがロシア革命が勃発。服部家は全財産を没収されると同時に、父も病に倒れた。
 大正14年(一九二五)、すべてを失った一家は、失意のうちに日本に引き揚げてきた。
 やがて、日本では唯一のバレエ団であった、エリアナ・パヴロワの率いるバレエ団に入団。日本語があまりうまくなかったエリアナ・パヴロワの補佐をした。
 エリアナ・パヴロワは、ロシアの貴族の家に生まれたが、やはりロシア革命から逃れ、母・妹と共に、大正9年(一九二〇)に日本に入国。昭和2年(一九二七)に鎌倉七里ガ浜に日本初のバレエの稽古場を開設した。エリアナ・パヴロワは昭和12年(一九三七)に日本に帰化したが、この七里ガ浜が、日本のバレエの発祥の地とされ、記念碑が建てられている。
 エリアナ・パヴロワの直弟子には、戦後日本のバレエの重鎮、東勇作、橘秋子、間瀬玉子、間瀬楽子、貝谷八重子、近藤玲子、島田廣などがいる。
 昭和18年(一九四三)、服部は、同じエリアナ・パヴロワの門下生だった島田廣と共に服部・島田バレエ団を設立した。
 服部は、ロシア語が堪能だったことから、昭和31年(一九五六)、当時の鳩山一郎の秘書として、日ソ国交回復調印式に随行。そのとき、ボリショイ・バレエ団の来日公演実現に尽力した。
 昭和49年(一九七四)、日本バレエ協会が法人化されると共に、服部智恵子は推されて初代会長に就任している。
 繁雄は、その服部・島田バレエ団に入ったのである。
 服部智恵子、島田廣らが、日本バレエ界の第1世代だとすると、野呂修平は第2世代ということになる。
 繁雄は、昼はアルバイトを、夜に代々木上原にある稽古場に通った。
 稽古は厳しかった。しかし、体力には高校時代鍛えたおかげで自信があった。
 服部・島田バレエ団付属バレエ研究所には、歌手の森山良子や、女優の栗原小巻、ミュージカル女優の木の実ナナ、指揮者の井上道義、現在フランス在住のバレエ指導者工藤大弐などがいた。
 こうして、初舞台を踏む昭和31年(一九五六)まで、昼はアルバイト、夜は稽古の生活が始まった。
 アルバイトも、アイロンがけだけでなく、保険の外交や、宝石の訪問販売、新聞配達、ビルの清掃、高層ビルの窓拭き、映画のエキストラなどを行った。
 映画のエキストラに行ったときである。
 見覚えのある顔がいた。
 「オイ、附田じゃないか」
 「オオ、本間か。久しぶりだな。元気か」
 と、手を取り合い、高校を卒業して以来、久しぶりの再会を喜んだ。
 高校時代、演劇部で活躍した二人。附田は、日大芸術学部の映画学科に入っていた。附田は、映画の仕事を知りたい、少しでも近づきたいと、エキストラに登録していたのである。
 このエキストラは、エキストラ専門の会社があり、各映画会社と契約し、群集シーンなど、映画会社の要望に応じて、派遣する会社である。
 同じ芸術分野で活躍する二人。その後、『竹取物語』や『棟方志功‐わだばゴッホになるじゃ』等、舞台のシナリオを書いてもらうなど、現在まで付き合っている。