野呂修平バレエ一筋55年

12、野呂修平初舞台を踏む

[野呂修平バレエ一筋55年]

 稽古は厳しかった。が、俺はプロになるんだ。これくらいはなんだと自分にいい聞かせながら、昼はアルバイト、夜は稽古にと励んだ。
 こうして修平(以後芸名である野呂修平とする)は、服部・島田バレエ団に入団して2年目の、昭和31年(一九五六)に、『令嬢ジュリー』で初舞台を踏んだ。
 『令嬢ジュリー』は、伯爵令嬢ジュリーと、伯爵家の下男ジャンとの身分を越えた恋の物語で、オペラや演劇でも上演されている名作である。
 これを、服部・島田バレエ団は、島田廣の振り付けで上演。主役のジュリーは、服部智恵子の娘の笹田繁子、下男役は島田廣であった。
 島田廣先生は、修平がヴァイオリンをやっていたことを知っていたので、踊りがなかったものの、修平に主役の二人踊りの後ろで、オーケストラに合わせてバイオリンを弾く農夫の役を与えてくれた。
 舞台は、高校のころから演劇をやっていたということもあり、あがることはなかったが、夢の中にでもいるような感じで、夢中で舞台に立った。ともかくも、こうして記念となる初舞台を踏んだ。
 このとき踊りはなかったものの、入団してわずか2年で初舞台を踏めたことは幸運であった。
 この『令嬢ジュリー』は文部省の芸術祭奨励賞を受賞した。
 これを機会に舞台が増えた。と同時に、稽古量も増えた。が、もちろん舞台だけでは食えるわけもなく、相も変わらずアルバイトをしながらの稽古であった。
 あるとき、お腹が空いて、部屋でぶっ倒れてしまった。
 そのときは、間近に舞台があり、稽古は朝から晩までぶっ通しで、アルバイトができないときであった。全くの無収入である。そのために何日かご飯もロクに食べていなかった。
 修平は、三本木にいる長兄の持に、「シゲオタオレタ、カネモッテスグキテクレ」と電報を打った。
 兄は、何事かと心配して、金を持ってすぐ飛んできてくれた。
 あり難かった。兄にようやく自分も舞台に出られるようになった。今はバレエだけで食えるまでになっていないが、必ずバレエで成功してみせると、事情を説明した。
 兄は、ウン、ウンと聞いているだけで、修平にやめろとか、うるさいことはいわず、金だけ渡してくれた。
 そして歌舞伎町に行き、二人で豚カツを食べ、兄はそのまま三本木に帰った。
 修平は、なおさら頑張って早く一人前にならなければと、決意を新たにした。
 昭和35年(一九六〇)9月10日、アメリカ、キューバに次いで世界3番目のカラーテレビ放送が、NHKで始まったが、それに先立って、5月2日にカラーテレビの実験放送の収録が行われた。
 その最初のカラーテレビ放送に、バレエ界から選ばれたのが、服部・島田バレエ団であった。
 昭和35年というと、日本の歴史始まって以来の、全国民を巻き込み、数十万人が国会を取り囲んだ安保反対闘争のあった年である。しかし、6月の批准と共に、運動が下火となり、平穏を取り戻していた。
 安保で倒れた岸(信介)内閣に代わって、池田隼人が所得倍増政策をひっさげて登場した。政治的には、ここから日本の高度経済成長が始まった。
 服部・島田バレエ団は、初のカラーテレビ番組「バレエの夕べ」の『くるみ割り人形』に出るということで、数ヶ月前から練習に厳しさを増していた。
 『くるみ割り人形』は、第3幕の「お菓子の国」であったが、修平には、ロシアの民族舞踊「トレパック」の役が与えられた。
 舞台は成功裏に終わり、修平はこのときNHKから、出演料として500円をもらった。
 出演料としてもらったのは初めてである。修平は、ダンサーとして、ひとに認められたことを実感し、俺もプロのダンサーになったんだ。よし、これから頑張るぞと決意を新たにした。
 人生は努力だけではない。運も大きく左右する。
 高校を卒業して、矢吹社長の会社に入って、その矢吹社長と、服部・島田バレエ団の島田廣が友だちであった。それがひとつのきっかけとなって、日本のトップバレエ団である服部・島田バレエ団に入ることになった。
 服部・島田バレエ団でなく、他のバレエ団であれば テレビに出ることもなかったのであろう。そういう点では修平は運に恵まれていた。あとは努力である。
 NHKテレビに出たのを機会に、舞台の出演が急速に増えてきた。
 昭和35年5月2日に、やはりNHKテレビの、服部・島田バレエ団とヨネヤマママコと共演の『不思議なパック』。同30日、NHK芸術劇『美しき青きドナウ』。
 10月9日には、初めて他のバレエ団であるユニークバレエ団に招かれ、CBCテレビ(中部日本放送)の芸術祭参加作品『絶望のそばを突っ走れ』に出演した。このときは、3500円というこれまでの最高額の出演料をもらった。
 実は、このCBCテレビへの出演は、団の先輩に誘われ、島田先生には内緒での出演であった。それがテレビあるからすぐばれてしまった。帰ると、
 「何で黙って、よそのバレエ団に出演した。お前たちみたいな未熟者が他の舞台に立つと、何だ服部・島田バレエ団はこの程度かと、服部・島田バレエ団が馬鹿にされることになるんだぞ。バカヤロウ、今後一切俺の許可なしに、他のバレエ団に出てはならん」とこっぴどく怒られ、「申し訳ありませんでした。わかりました」と全員で先生に謝罪した。
 それがプロの世界である。修平は、自分の未熟さを恥じた。
 そして同26日、NHKテレビ「今宵楽しく」で、ニューヨーク・シティ・バレエ団で活躍したロイ・トバイアス振り付けの『卒業舞踏会』。
 同27日、やはりユニークバレエに招かれ、KRテレビ(現TBSテレビ)西武プレゼント劇場『ブルースーツ』。同30日、NHKテレビ芸術劇場、各バレエ団合同出演の『不死鳥』。
 11月2日、産経ホールでの二期会オペラ『ニュールンベルグの名歌手』。これも出演料をNHKの5倍の5000円をもらった。
 同9日、NHKテレビ「今宵楽しく」で、ユニークバレエ団に招かれ『タンゴファンタジー』。
 同18日、産経ホールで澤バレエ団に招かれ『ダフニスとクロエ』に出演。このときも出演料4000円もらった。
 同25、26の両日、NHKオペラの夕べで、二期会の歌劇、シェイクスピアの喜劇『ヴィンサーの陽気な女房たち』など、この年だけで14ステージに出演した。
 しかし、島田先生からは、プロとして他団体への出演の許可は出ていなかった。