野呂修平バレエ一筋55年

14、日本民族舞踊団に入る

[野呂修平バレエ一筋55年]

 昭和37年(一九六二)、外国から日本の民族舞踊を紹介して欲しいとの要望のもと、文部省の助成で、国際芸術センターが発足した。
 当時、ソ連のモエセーエフ・バレエ団、ポーランドのマゾフシュェ民族舞踊団などが来日。各国の民族舞踊を披露。その素晴らしさに、民族舞踊を見直す機運が高まっていた。
 国内では、原太郎が民族舞踊を中心とした歌舞団わらび座を結成。日本舞踊の花柳徳兵衛舞踊団や黛舞踊団などが、その演目の中に民族舞踊を取り入れていた。
 昭和38年(一九六三)、舞踊家、音楽家、舞台美術家、演出家、学者等150人からなる制作委員会が、国際芸術センターの中に発足。日本各地に伝わる民俗芸能を、舞台芸術まで昇華させ世界の人々に鑑賞していただこうと日本民族舞踊団が結成された。
 その日本民族舞踊団に応募しませんかという案内が修平のもとに届いた。
 修平はその頃は、NHKや他バレエ団に客演として出るなど、バレエダンサーとして名が知られるようになっていた。
 そんなことから修平にも案内が届いたのであろう。
 修平は、これは舞踊家としては成長するチャンスだと思った。
 修平は服部先生、島田先生に相談した。
 「こんな案内状が来ていますけれど、私はできればやってみたいと思っています。お許しいただけないでしょうか」
 島田先生は、
 「君がやってみたいならやってみれば」と快く承諾してくれた。
 その第1回目の集まりの日に行くと、驚いたことに、バレエ団は、谷桃子バレエ団、松山バレエ団、東京シティバレエ団他、モダンバレエや日本舞踊など80人くらい集まっていた。
 民俗舞踊であれば、各地に伝わる民俗舞踊の踊り手たちを集めればいいようなものであるが、地域のひとたちは、自分のところに伝わる踊りしか踊れない。
 公演となると、小人数であるから、全員が全ての踊りを踊らなければならない。だから体力も必要だ。鍛えた身体でなければならない。それと同時に、民俗の泥臭さを残しながらも、それを芸術の域まで高めて行かなければならない。やはりプロでなければできない仕事である。
 しかし、それをバレエダンサーだけで踊ると、バレエ的民俗舞踊になり、日本舞踊の踊り手だけだと、日本の踊りだから民俗舞踊に一番近いが、どうしても日本舞踊的な民俗舞踊になってしまう。モダンバレエにしても同じである。
 これは、日本の舞踊史上初めてであるが、バレエ、モダンダンス、日本舞踊の踊り手たちが一同に集められた、新しい芸術創造一つの試みでもあった。
 民俗舞踊は、青森県の「荒馬」や岩手県の「鬼剣舞」、鳥取県の「傘踊り」、広島県の「八岐大蛇」など、制作委員会によってあらかじめ決められていた。
 それを取材に行かされた。
修平たちのグループが担当したのは、岩手県の鬼剣舞であった。
 鬼剣舞は、岩手県北上地方に伝わる民俗舞踊で、大地を踏み、悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にするという、鬼の面を被り、剣を持ち踊る勇壮な踊りである。
 修平が、「鬼剣舞を習いに来ました。教えてください」と、行くと、
 「まあ、よぐ来たごど。そったらかたいごどいわず、まあ座れや。まず一杯」といってどぶろくを出された。
 こうして、一週間ほど泊り込んで、教わっては酒を飲み、飲んでは教わり、地元人たちとすっかり仲良しになり、鬼剣舞を教わった。
 それを、録音テープに取り、写真に撮り、何より踊り手は、踊りを身体で覚えた。
 東京に帰り、それぞれが取材して来たものを整理し、それを構成し、舞台用の踊りとして仕上げて行くのである。

 しかし、バレエと民俗舞踊ではどうも勝手が違う。バレエは上に伸びるのに対して、日本の踊りは腰を下にどっしり落として踊るのである。
 そこで修平は、日本の踊りの基礎を学ぶために、日本舞踊の家元である花柳寿美先生に入門した。
 こうして3年間、日本の踊りを基礎を学びながら、厳しい訓練を経て演目の一つ一つを身に付けていった。
 そして、、ナント花柳寿美先生の日本舞踊公演、国立劇場での『千姫』に、バレエダンサーではなく、日本舞踊家として出演させてくれたのである。