野呂修平バレエ一筋55年

15、日本民族舞踊団海外公演(1)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 キャストは皆、自分の仕事を持ちながらの練習であった。修平も、谷桃子バレエ団の全国労音(全国勤労者音楽協議会)の公演や、他のバレエ団に、客演として出演していた。
 昭和40年(一九六五)3月、日本民族舞踊団の試演会が行われた。
 この試演会での指摘をもとに、さらに内容を練り直すと共に、演技に磨きをかけ、翌昭和41年(一九六六)3月、国立教育会館虎ノ門ホールで、正式な国内第1回発表会を行った。
 演目は、Aプログラムと、Bプログラムがあり、Aプログラムは、第1部小品集で、花笠と棒踊、民謡・津軽唄、鬼剣舞、津軽三味線、荒馬などであった。
 花笠は山形県の花笠踊りであり、棒踊は鹿児島県など九州に伝わる民俗芸能、鬼剣舞は岩手県、荒馬は青森県に伝わる民俗芸能である。
 また、津軽三味線及び津軽山唄は、もちろん青森県の民謡である。
 修平はこのうち、花笠と棒踊、鬼剣舞、荒馬を踊った。
 津軽三味線と津軽民謡は代替ができないから、津軽三味線は木田林松栄、津軽民謡は浅利みきであった。
 第2部は、広島県の八岐大蛇である。修平は大蛇の中に入っての、大変な重労働の演技であった。
 第3部は、「稲のまつり」。
これは、田植えから収穫までの舞踊構成劇である。
 修平はこの中で、 大きな傘を持って踊る鳥取県の傘踊りなどを踊った。
 そして、Bプログラムの第1部は、二つの地方の踊りとして、新潟県の猩々舞、佐賀県の荒踊など。修平は、猩々舞と荒踊を踊った。
 第2部は、岩戸開き(石見神楽)で、島根県に伝わる天照大神の岩戸開きの話で、修平は須佐之男命を踊った。
 第3部は、小品集で、宮崎県の泰平踊、宮城県の鹿踊、岩手県の念仏剣舞などであった。
 まさに、日本の民俗芸能のオンパレードである。
 この時代、前述したように、わらび座や花柳徳兵衛舞踊団などが、民俗舞踊を取り入れていたが、民俗舞踊の昇華という点では、日本民族舞踊団は、日本トップの民俗芸能団になっていた。
 修平は、バレエと全く正反対の民俗芸能をこなせたのは、一にも二にも、花柳寿美に入門し学んだから他ならない。バレエダンサーで日本舞踊を学んだのは修平だけである。
 しかしこの程度では、日本の民俗芸能として外国に紹介するにはまだ不足であると、さらに1年間研究を重ね、昭和42年(一九六七)3月、国立劇場において2回目の国内発表会を行った。
 こうして同年7月、カナダ・モントリオールで行われた万国博覧会に、外務省派遣文化施設団日本民族舞踊団として、初めての海外公演を行うことになった。
 7月7日、藤原歌劇団で演出をしていた、演出の青山圭男他、一行38名が羽田を出発した。
 モントリオールの万博では、ジャパンデーを中心に、ボートヤール劇場、民族広場ステージなどで公演を行った。
 初めての民俗芸能の海外公演である。一行には果たして欧米人にわかるだろうかと少々の不安があった。が、終わってみると、拍手が鳴り止まないほどの大喝采であった。
 みんな、フィナーレで頭を下げながら、「やった!やったぞ!!」と、心の中で叫んでいた。
 特に、スペクタクルな八岐大蛇には驚嘆したようであった。また、版画を思わせる優雅な綾子舞や、欧米人にはジャズにも似た野性味溢れる津軽三味線のリズムには、ブラボーの声がかかるほど会場が盛り上がっていた。
 この公演中、修平は同じ踊り仲間であるモダンダンスの泉勝志と友だちになった。公演が終わった翌日、休みだったので、泉と二人でモントリオールの街に出た。
 修平は、矢吹社長の会社にいたとき、お客が米軍の軍人だったので英語を勉強した。その英語が、カナダで役立った。
 デパートの店員に声をかけたら、「いいわよ、明日休みだから、モントリオールを案内してあげる」と約束してくれた。
 翌日、修平と泉の二人は、美人のデパート店員に市内を案内してもらった。初めての異国での楽しいひと時であった。
 日本民族舞踊団の一行は、カナダ公演のあと、その足でアメリカ・ワシントン、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンジェルス。さらにメキシコに飛び、メキシコシティで公演。都合41回公演を行い、8月29日に羽田に帰ってきた。
 この海外公演は、というより日本民族舞踊団に参加したことは、修平にとって、ダンサーとしてその後の活動に大きなプラスとなった。
 その一つは、民族舞踊をやったことによって、修平の芸域が広がると共に、海外公演は舞踊家としての視野を広げてくれた。
 二つには、日本民族舞踊団に参加したことによって、修平のダンサーとしての名声が高まり、舞台の数が大幅に増えただけではなく、ソリストとして認められたことである。
 ちょっと話が後に戻るが昭和40年、服部先生と島田先生が、弟子を3人連れてフランスに渡った。その間服部・島田バレエ団は休団となったが、バレエ団の付属研究所まで閉鎖するわけにはいかなかった。
 そこで、研究所は修平を含め、残った3人で教えることになった。その中で修平は、フランスの島田先生との連絡係りになっていた。
 昭和40年代の前期は、修平にとっては、付属研究所の後進の指導、民族舞踊団の練習、そして他団体への出演と多忙を究めた、充実した時期であった。