カオルのざっくばらん対談

BUNKA新聞社30周年記念対談 1 (上)

[カオルのざっくばらん対談]

小林裕志(北里大学名誉教授)小笠原カオル(本社編集長)

北里大学とBUNKA新聞社

kobayasihirosi.jpg 小笠原 おかげ様で、今年(平成25年)無事30周年を迎えることができました。
 「文化」を標榜した新聞として、曲りなりにも30年間やって来られたのは、小林先生との出会いが大きかったと思っております。
 私が新聞を始めたのは昭和58年(一九八三)でした。小林先生と最初にお会いしたのは、その翌年の昭和59年(一九八四)なんです。
 その頃、北里大学と市民とあまりしっくりといっていなかった。町内会からは、学生はゴミ出し日を守らないとか、夜遅くまで騒ぐとかね。
 小林 そう、いろいろいわれましたね。
 小笠原 私は、ちょっとおかしいんじゃない。北里大学には学生が約1500人、教職員が約150人いる。
 人口わずか6万程度の地方の小都市に、大学院まである大学あるというのがそう多くない。しかも、大学の先生というのはその地域の最高の知識人ですよ。そして1500人の若者たち。
 経済的にみても、ざっと計算してみると、学生、大学当局と併せ年間約60億円の経済効果がある。
 北里大学があるということは、十和田市の都市の価値を高めている。ということで、「創設18年‐十和田市にとって北里大学とは何か!!」というテーマで、北里大学獣医学部の全学科、全研究室を取材させていただいたのが最初なんです。
 小林先生の畜産土木工学科を取材したのはその夏ころでした。小林先生が、不耕起草地の実験牧場ということで、田代平に行っているときでした。
 そのとき先生が、誰もこんな山奥に取材来た記者はいないよといいました。
 それをきっかけとして先生は、BUNKA新聞に、市民講座「『農業は地球を救う』か?」というテーマで連載していただきました。
 その後、小林先生以外にもたくさんの先生方に書いていただきましたが、北里大学の先生も書いている新聞ということで、BUNKA新聞は、「文化」を標榜しても恥ずかしくない新聞になったと思っています。

 日本の稲作農業は文化だ 

 小林 カオルさんは、BUNKA新聞に農業問題も取り上げて来た。
 小笠原 ハイ、私自身も農家の長男坊ですし、この仕事をやる前は農機具会社に勤めていましたから。
 小林 農業の問題では、私もBUNKA新聞に色んな意見を書いてきたよね。
 農業問題で、今差し迫った問題はTPPですけれども、基本的にはアメリカのいいなりになっているということです。
 日本の農業は、勿論食べものを作るわけですけれど、それだけじゃなくて、その中に文化とか生き方とかの問題を内包している。
 アメリカは歴史の浅い国ですから、地平線の彼方まで飛行機で種を蒔いたり、農薬を蒔く農業です。要するに、収穫して売ればいい、金が儲かればいいという農業です。
 日本の農業、特に水田稲作というのは弥生時代から今日までずうっと連綿と続いてきているわけでしょう。そこに共同体があって、お祭りや様々な行事が生まれてきている。日本の文化の根源です。
 一方、TPPは経済問題です。昨年だったか。JA(農協)が主催してのTPP反対の決起集会があったんです。そのとき講師として東京から来た先生の講演は、最初から最後までお金の話だけだったんです。
 日本の農業をお金の立場で見るのであれば、経済学の論理でいうと、日本の農業をやめて、オーストラリアとかアメリカの安い農産物を買った方がいいですよ。
 地平線の彼方まで飛行機をとばして種を蒔いているアメリカ農業と、日本では一番大きい農地の八郎潟を比較しても、コストの面では絶対かないません。
 日本は昭和20年(一九四五)の敗戦直後から、アメリカに追いつき追い越せと、ただひたすら経済の高度成長をすすめ、とどの詰まりは原発に行ったわけだ。
 そして不幸なことに、3・11があり、原発の事故が起き、未だに16万人が難民になっています。
 難民なんですよ。私の教え子で難民になっているのが何人もいるんです。
 彼らが故郷を捨なければならなかったという現実は、私が一貫して申し上げているように、「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」の典型ですよ。
 カオルさんが知っているように、私は20年前から21世紀は環境の時代だといってきたんでしょう。 
 小笠原 ハイそうです。20年前のBUNKA新聞にもそう書いています。
 小林 私は20年前から、21世紀は環境が大変な時代になりますよと、警告を発して、本当の幸せとは何か、何を持って発展とするかということを考え直しましょう、といってきました。
 しかしながら、3・11の悲劇がおきて、16万人の同胞を難民にさせてしまいました。
 そして、あれからわずか2年しか経っていないのに、16万難民の悲劇は、二度と起こさないような、「真の豊かさ」を求める日本社会にリセットしましょうと本気で主張する政治家、財界人、マスコミ人は、ほとんどいなくなってしまった。
 私の教え子の家庭なんか、子どもの放射能の影響は20年後でなければわからない、子どもだけは放射能から守りたいと、奥さんと子どもを別居して放射能の影響の少ないところに住まわせているわけです。家庭崩壊ですよね。
 それが全く解決していないのに、ぐちゃぐちゃ理由をつけて、再稼動を唱えるのは、同じ日本人なのですかといいたい。悲しいことです。

 「原発難民」を生み出した過ぎたる工業社会

 小笠原 今、先生がおっしゃった原発事故で故郷を離れている人たちを、一般のマスコミは避難者といっていますけれど、これは先生のおっしゃるように、原発事故難民ですよ。
 私たちは、難民というと一般的には中近東やアフリカで内戦とかで、それから命を守るために逃げている人たちが難民だと思っていたんですけれども、これは戦争と放射能の違いだけで、そこから命を守るために逃げている人たちですから、原発事故難民というのが正しい表記ですよね。
 それを「避難」という言葉を使って、原発事故を曖昧にしているような気がするんですね。
 小林 中近東とかアフリカの方々は戦争難民です。福島の方々は、「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」といったでしょう。「過ぎたる工業社会」の工業難民、あるいは原発事故難民ですよ。
 小笠原 まさに先生のいう通りです。これは、今起こっている事実をどうとらえるかという意識の問題だと思うんですね。
 具体的な事実を客観的に見ると、先生のいう工業難民、あるいは原発事故難民ですよ。今まで先生のような表現した人はいませんでした。初めて聞きました。原発事故難民、あるいは放射能難民だというと、こりゃ大変なことだと、その言葉に緊迫性が出てきますよね。
 小林 福島原発のある双葉町、大熊町、20㌔圏内の南相馬市、浪江町、富岡町楢葉町などは、自分の生まれ故郷がなくなるわけですからね。村の人たちがばらばらになる。家族がばらばらになる。家庭崩壊ですよ。
 その難民に、汚染解除したから帰れといっても、子どものいるお母さんは帰れませんし、帰らない方が正しいですよ。
 チェルノブイリの原発事故の例を見てわかるように、20年後に放射能の影響で異常な子どもが生まれて泣いたって誰が責任をとるんですか。
 ですからね、私は原発事故現場周辺全部を国有地にして、放射能廃棄物や汚染物を全部集めて、永遠にあそこには人が住めないようにしたらいいと思っています。
 小笠原 そしてそこは、先生のいう「過ぎたる工業社会」の負の遺産遺跡にしたらいいですね。国民が忘れないようにする。どうせ何万年もあそこには人が住めないわけですからね。
 小林 政府は除染といっていますけれども、正確にはあれは放射能で汚れたものをAからBへ移した移染ですよ。
 その移染の場所が見つからないのでもめているでしょう。ならばいっそうのこと、福島原発事故で発生した放射性ガレキや廃棄物の国設巨大ピラミッドを造成して、「昭和と平成に生きた日本人の証しです」と負の世界遺産登録をしたらどうですか。

 一番大切なのは「生命(いのち)」、そして食べものだ

 小笠原 先生がお話した日本の文化、その一つに清貧の思想というのがありましたよね。昭和時代までは財界でも、経団連会長の土光敏夫さんとか清貧の思想を持った方がおりました。
 日本は戦争に負けてアメリカの文化がどんどん入ってきた。いいものもたくさんあったでしょう。
 アメリカ文化が入ってきて壊された一つは、今先生がおっしゃったように、農業を文化として考えるか、金儲けの一つとして考えるかですよね。
 戦争が終わって、もうそろそろ70年になります。今もう一度、日本の文化とは何か考えなくてはならないときかなと思います。
 小林 あのね。私がずうっとカオルさんにいってきていることは、どんな人にも等しく大事なのは「生命」なんです。「生命至上主義」これを外しちゃいけない。
 天皇家に生まれても、農家に生まれても、あるいは中国に生まれても、アフリカに生まれても、一番大切なのは生命なんです。
 生命の源は何ですかといったら、お金でなくて、私たちの身体を作っている「食」であり、その食を保障する「環境」なんですよ。そして「医療」にちょっとお手伝いしてもらう。
 ところが、その「食」が金で犯され、「医療」も金の世界になってきて、「環境」も工業でもって犯されている。結果として、我々の子孫の生命は、ぼろぼろになっていく。
 私がまとめた『エコヘルス学のすすめ』(八甲田自然塾発行)を見ていただきたいんですが、昭和20年(一九四五)に日本が戦争で負けた。そしてアメリカに追いつけ、追い越せということでやってきた。昭和39年(一九六四)に東京オリンピックが行なわれた。同時に、東海道新幹線が開通した。昭和43年(一九六八)に、日本はGNP世界第2位なった。
 昭和35年(一九六〇)を境にして、日本は工業立国になりました。
 だけど、昭和35年を境にして、空気が悪い、水が悪い、食べ物が悪い。赤ちゃんが生まれながらにして暖房、冷房完備の中で育ってきた。そしてIT社会でしょう。これは、全部身体に悪いことですよ。
 平成2年(一九九〇)『41歳寿命説』(西丸震哉著)という本が出ました。
 これは、昭和35年以降に生まれた人は、今いったような環境の中で育ってきたために、41歳で死ぬということではなく、身体のパーツが駄目になってくるということです。
 昭和35年から41年というと、平成13年(二〇〇一)でしょう。昭和35年から平成13年までどういうことが起こっているかというと、例えばがんでの死亡者がそんなに多くなかったものが、年々うなぎのぼりに増えて、昭和55年(一九八〇)頃に死亡原因の第1位になって、今では死亡原因の半分はがんでしょう。
 これは、生命の元である食べものや、空気、水が劣化してきた結果なわけです。『41歳寿命説』はそういうことをいっているわけです。
 小笠原 その経済一辺倒、お金さえ儲かれば何をしてもいいという、その一番いい例は中国だと思うんですね。中国の経済及び大富豪がアメリカに次いで世界第2位になった。
 一方では、子どもが車に轢かれて苦しんでいるのに、誰も助けようとしない。貧富の差が激しくなり、子供を育てられない親が増えてきている。しかし、そういう子どもたちに国は手を差し伸べようとしない。ごみ箱で生活していた子どもたちが、暖をとるためにゴミを燃やして一酸化炭素中毒で死んでしまった。
 また、大気汚染が深刻化して、呼吸器疾患を発症する人が急増している。
 貧乏だったというと語へいがありますが、昔の中国では考えられなかったことですよね
 小林 儒教の国でしたから、本当はそういうことがあるはずがなかった。
 今は、金、金、金になって、片や政治家の子どもは、アメリカとかヨーロッパに留学して、みんな母国の中国にはいないんです。
 ですから、私が最初にいったように「過ぎたる工業社会は人類を幸せにできない」、中国は今、その実験室のようなものですよ。
 もういちど話しを農業に戻しますけれど、人間は何がなくても食べなければ生きてゆけない。食べものは生命の元なわけです。
 そのためには、安全安心な食べものを持続的に供給していかなければならない。
 持続的に食料を供給して行くためには環境が大事になってくる。その環境は、土地空間の保全、生物多様性の保全、物質循環調整、水循環制御をしていかなければならない。
 そしてもう一つ大事なものが地域社会の形成及び維持です。それは、人間教育、人間性の回復、伝統文化の保全、地域社会の振興なわけです。

 孫世代に負の遺産を残すな!!

 小笠原 私が十和田に帰ってきた昭和48年は、田植機やバインダー、コンバインなど、農業が機械化され始めた時代ですから、農業に活気がありました。
 だから、盆踊りも祭りも盛んでした。
 小林 私は学生時代を含め、約半世紀にわたって農学を専攻してきたんです。時代でいうと1960~2010年代ですね。工業の途上国から先進国への遷移期を、農に軸を置いた視座で、現代日本を生きてきたことになります。
 十和田市を拠点に、国内だけでなく、工業先進国も、工業途上国もたくさん調査研究に訪問し、現地の人々交流もいっぱいしてきました。
 その結果として「過ぎたる工業社会は、決して人々を幸せにしない」に至ったわけです。
 ヒトは哺乳動物です。哺乳動物のエサ(食料)は、動物植物の細胞、つまり生命をいただいているわけです。工業製品じゃないんです。その生命が安全で安定的に生産されるためには、生命環境が健全であることが大前提となります。
 だから、生命環境の劣化や破壊を惹起しない程度の工業発展に止めるべきで、これが賢い人類の選択です。
 この原理原則を実践した生命循環型社会の構築こそが、21世紀の最先端総合科学だと私は思っています。
 私たちの子孫が生きる日本は、この先端科学を駆使して、「心身ともに健康が持続できる、真に豊かな生涯」を全とうできる母国になって欲しいと願っています。
 この現実を、人生の戻り途にたどり着いた私の、ライフワークにしようと思っています。今なら未だ、生命の終焉は防げる、と信じています。

 小林裕志プロフィール
 昭和19年(1944)京都市出身。岩手大学大学院修了。農学博士。専門は緑地環境学。日本草地学会賞、農業土木学会賞などを受賞。早くから、「21世紀は環境保全の時代」を唱えて、「中国内蒙古荒漠草原の緑化研究」や、「環境保全に配慮した草地開発工法の創出研究」など、国内外での多くのフィールド研究業績を残している。
 一方で、青森県や十和田市の公共事業や、都市計画策定に関する審議委員を多数委嘱され、「子どもが自慢できる故郷づくり」を原点にした「地域開発の在り方」についても多くの提言がある。
 現在は、八甲田自然塾を主宰し、真の豊かさを求める「エコヘルス学」を提唱すると共に、自ら実践している。