野呂修平バレエ一筋55年

9、上京

[野呂修平バレエ一筋55年]

 本州の最北端にある青森県。そのど真ん中に奥羽山脈が横たわり、奥羽山脈の東側、つまり太平洋岸を一般的に南部。西側、日本海側を津軽といっている。
 これは、明治維新以前の幕藩体制、津軽藩と南部藩の名残である。
 しかし、津軽と南部は気候風土が違い、言葉やそこに住む人たちの気質まで違う。
 高校を卒業するとき、進路指導の先生が、津軽では優秀な生徒には県庁や警察に入るよう指導する。
 いわば権力志向である。
 それに対して南部は、首都圏への就職を指導する。
 これは、明治維新のとき、津軽藩は勤皇方につき、南部藩は幕府方について負けたことも影響しているだろうが、100年以上経った今でも、県庁や警察に行くと津軽弁であふれている。
 高校3年になり繁雄は、日体大(日本体育大学)に入り、将来は体育の先生になろうと思い、進学コースに入っていた。
 それが夏頃になり、父が、 「繁雄、お前も大学へ進みたいだろうが、義雄と省三を大学に入れてやりたいと思っている。我が家の経済力では、3人も大学にやる余裕がない。悪いがお前は就職してくれ」といってきた。
 五男の義雄は繁雄と三つ違いで中学3年生、義雄と末っ子の省三は、やはり三つ違いで小学6年生である。
 繁雄は、スポーツ万能で、ヴァイオリンを弾き、歌をうたい、芝居をやっていたが、その分勉強はちょっとおろそかであった。
 それに比べ弟たち二人はいつもクラスで1、2番であった。
 そんな状況をみると、繁雄は行かせて下さいと無理にはいえなかった。
 しようがないかと、繁雄はしぶしぶ承諾し、「わかりました」といった。
 父は、
 「そのかわり、お前の仕事は、俺が責任を持って探す。米軍三沢基地で働きなさい。ここは給料もいいし、将来性もある」といった。
 繁雄は、もし大学にゆけないのであれば、東京に行こうと思い、
 「いや、仕事は自分で探します」と断った。
 繁雄は、これをやりたいというはっきりした目標はなかったが、東京には夢があるような気がした。
 そのことを、先生にいい、進学コースから就職コースに切り替えてもらった。
 昭和28年(一九五三)3月10日、三本木高校の卒業式であった。
 式の途中で先生から、もう一人の生徒と二人、校長室に来いと呼ばれた。
 行くと、50代ぐらいであろうか、背広を着こなした恰幅のいい、会社の社長さんらしい男性がいた。
 就職指導の小笠原先生が、
 「こちらの社長さんは、東京でアートワークスという貿易会社を経営している矢吹社長さんで、本校から社員を採りたいといって、わざわざこうして寄っていただきました。どうだ、行ってみる気がないか」といった。
 「矢吹です。三沢のアメリカの基地にも店があるんですが、青森県人は真面目で、非常に良く働いてくれます。三本木高校の今年度の卒業生から、社員を二人採りたいと思っています」といった。
 講堂からは『蛍の光』が聞こえてくる。
 勿論、就職するつもりではいたが、これまでいいところが見つかっていなかった。
 が、いきなりの面接である。それも卒業式の当日である。貿易会社というだけで、どんな会社かもわからない。どんな仕事をするかもわからない。
 二人は、どきまぎして、返事に困っていると、
 矢吹社長は、机の上にあった書類を指して、
 「これ、読めるかね」といった。
 それは、英語で書かれていた。どうやら、貿易関係の書類らしい。
 二人とも、単語程度はところどころ読めるが、意味はというと全くチンプンカンプンであった。
 社長はいった。
 「ま、読めなくてもいい。君たちは見たところ真面目そうだから、英語は東京に来てから勉強すればいい。先生、二人共真面目そうなので、決めました」といい、繁雄たちに向かって、「よろしくな」といって、有無をいわせず、手を出して握手してきた。
 握手も二人にとっては初めてのことである。
 社長の勢いに押され、二人とも、親に相談することもなく、「あ、は、よろしくお願いします」といった。
 その夜、繁雄は父にそのことを報告し、「東京へ行きます」といった。
 実は、父は繁雄に大学進学を諦めてもらうと同時に、父の上司の紹介で、すでに繁雄の就職先を決めていたのであった。
 父は一言、「困ったな」といい、そっぽを向いてしまった。
 気まずい空気が流れた。が、繁雄の東京へ行くという気持ちはかわらなかった。
 ㈱アートワークスは、貿易会社といっても、米軍基地内のアメリカ向けの売店(PX)を営む会社であった。
 社長は、米軍三沢基地のPXからの帰りに、三本木高校へ立ち寄ったのであった。
 それから一週間後の3月17日、繁雄と、㈱アートワークスに一緒に就職が決まった白川昌幸君は、十和田観光電鉄の三本木駅にいた。
 繁雄たちは、就職組の出発の第一弾であった。
 そんなこともあり駅には、校長先生を始め、担任の長谷川先生や、進路指導の小笠原先生、そして同級生、母、兄弟たちが来ていた。
 が、父は顔を見せなかった。
 出発のベルが鳴った。皆は、「頑張れよ、身体に気をつけろ」、「東京に着いたら住所を教えろよ」など口々に叫び、送ってくれた。
 繁雄と白川は、皆が見えなくなるまで窓から手を振った。
 この電車で三本木に来たのは、昭和21年(一九四六)8月である。それから約7年の三本木での生活であった。
 が、この7年間は、青春時代の最も多感な時期であったということもあり、たくさんの友人が出来、また長谷川先生との出会いは、繁雄の文化的な様々な能力を開花させてくれた地である。
 東京で生まれ、満州に行き、そして三本木で青春時代を過ごしたわけだが、繁雄にとっては、心から思えるふるさとである。
 電車は、三沢駅に着き、ここから国鉄本線で約12時間かけ東京に行く。
 駅には、繁雄たちと同じく、やはり東京への就職であろう。まだ学生服を着た者たちが何人かいた。
 汽車に乗ると、そこには乗客の三分の一を越えるかと思うほど、東京、あるいは東京近郊へ就職する者たちが乗っていた。
 父には、申し訳ないという気持ちを残しながら、昭和28年3月17日、夢と希望、あるいは少々の不安を抱きながら、繁雄はこうして上京した。