野呂修平バレエ一筋55年

15、日本民族舞踊団海外公演(2)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 日本民族舞踊団の第2回目の海外公演は、外務省派遣文化使節団として、昭和43年(一九六八)8月、アフガニスタン、イラン、トルコなどの中近東諸国と決まった。
 1950年代に、中東やアフリカで相次いで大油田が発見された。これにより世界のエネルギーの主役が石炭から石油へと移行していった。
 日本は、昭和35年(一九六〇)の池田内閣の所得倍増政策を前後して、経済の高度成長の時代に入った。
 それと相まって、エネルギーが石炭から石油へと転換、いわゆるエネルギー革命がおこった。
 その中で中近東は、日本にとって石油輸入の外交上重要な国々であった。
 第2回目の海外公演の団員は、音楽では、雅楽家で後に日本芸術院会員となる竜笛の柴祐靖、後に人間国宝となる打楽器の堅田喜三久。同時代では高橋竹山、白川軍八郎と並んだ津軽三味線名手木田林松栄、津軽民謡の池田まつこなど、その道一流の錚々たるメンバー。
 踊りでは、男性は江崎司、五条雅巳、福田一平、藤陰静枝、そして野呂修平と5人で、修平以外は舞踊団の踊りの指導者で、一般のダンサーとして選ばれたのは修平一人だけであった。
 ダンサーで修平が選ばれたのは、どこに行っても一番の人気は「八岐大蛇」であった。「八岐大蛇」は、大きな大蛇の縫いぐるみの中に入っての演技なので体力勝負である。多分、その体力が評価されたのではないかと修平は笑う。
 女性は、石井みどりの門下生の折田克子、石井漠の門下生木村公香、日本舞踊の西崎元と、女性も現在バレエ団を主宰しており、当時若手のトップダンサー・舞踊家たちであった。
 一行は、8月21日、羽田を出発。最初に向かったのがアフガニスタンであった。アフガニスタンは、首都カブールで行なわれた建国50周年記念祭への出演であった。
 アフガニスタンでの演目は、第1部、傘踊り、南部牛追唄、綾子舞、鬼剣舞、津軽三味線などの小品集。第2部は、「八岐大蛇」である。
 アフガニスタンの国民にとって、日本文化に接するのは初めてであったろう。特に「八岐大蛇」はヤンヤヤンヤの大喝采で、満員の会場が総立ちになり、何回もアンコールを要求した。
 アフガンでは、国王が臨席した建国50周年の祝典他、日本大使館でジャパンデーレセプションが行なわれた。その中で、特に着物姿の女性は人気の的で、国王から第3夫人にならないかと声をかけられたほどであった。
 ところが、その夜とんでもない事が起こった。突然にお腹が痛み出して、吐いたのである。次の日も公演があるというのに食中毒である。
 どうやらレセプションで出た刺身やエビの天ぷらが原因らしい。限られた人数である。代役がきかない。
 最初に症状が現れたのは修平であった。修平は、真夜中に薬局を探し、処方してもらい大事に至らなかった。
 続いて福田先生である。福田先生は七転八倒の苦しみであったが、大使のお嬢様が介護してくれたお陰で、何とか事なきを得た。
 続いて症状が出たのが五条先生である。五条先生は何と公演の真っ最中に高い熱を出してしまった。
 それも「八岐大蛇」の舞台で、須佐之男命が大蛇を退治する、一番盛り上がる大場面である。
 五条先生が須佐之男命をやっており、須佐之男命の面を被っての演技である。ところが大蛇の中に入っている修平と五条先生の須佐之男命が絡まない。須佐之男命は今にも倒れそうである。
 そんなことがありながらも何とかやり終えた。
 五条先生の須佐之男命は面を被っていたので素顔が見えなかったからよかったものの、素顔が見える踊りであったらどうなったろうと、冷や汗ものであった。
 食中毒になったのはみんな踊りの連中である。
 が、酒の強い江崎先生だけは食中毒にならなかった。やっぱりアルコールで消毒したのが良かったかと、無事に舞台が終わったあとの、笑い話となった。
 そして、イランのシラーズ音楽祭、トルコのイスタンブール、アンカラと廻り帰国した。いずれも熱狂的な反応であった。
 第3回目の海外公演は昭和44年(一九六九)であった。
 行き先は、ソ連及びチェコスロバキア、ユーゴスラビヤ、ポーランド、ブルガリアと、ソ連・東欧の5ヵ国である。
 このときはカナダ、アメリカ、メキシコを廻った第1回海外公演とそう変わらない32名の大所帯で構成した。
 そもそも、日本民族舞踊団をつくるきっかけは、ソ連のモエセーエフ・バレエ団や、ポーランドのマゾフシュェ民族舞踊団の来日公演であった。
 いってみれば民族舞踊芸術の本場に行くようなものである。
 そのために団長は、オペラの演出家・振付師として国際的にも名が知られている青山圭男であった。
 演目は、第1回公演をほぼ踏襲し、第1部小品集、第2部「八岐大蛇」、第3部「農民の祈り」であった。
 一行は、昭和44年2月13日、羽田を出発。ソ連のレニングラード、リガ、モスクワ。ポーランドのワルシャワ、クラコフ。チェコスロバキヤのプラハ、ブラチスラバ。ハンガリーのブタペスト、シケシフルバード。ユーゴスラビアのベオグラード、スコピエ。ブルガリアのソフィアと、ソ連・東欧の主要都市を廻った。
 ソ連・東欧圏でも一番の人気は「八岐大蛇」で、続いて第3部「農民の祈り」の中の「津軽荒馬」であった。
 これは、津軽の今別町に伝わる民俗芸能で、馬を模した衣装を身に付けた男性と、馬の手綱取りの女性がペアになって踊るもので、テンポが速くリズミカルなうえにコミカルな踊りで、コサックダンスにも似ていた。
 この「津軽荒馬」の舞台になると、観客は熱狂的に手拍子を打ち、なかなか止まらなかった。
 その様子を、2月28日付けのタス通信は、
 「日本の民族舞踊団『オドリ』は、レニンフラード・リガでの公演のあと、モスクワの最高のコンサートホールであるところのチャイコフスキーホールで、その芸術を抜露した。
 これは、両国の舞踊家間の発展しつつある結びつきを新たに例証するものである。
 バレエ『マリモ』には、ソ連の踊り手が参加したし、最近はマイヤ・プリセッカヤが東京で公演した。
 『オドリ』のプログラムは様々なテーマを民謡の精神で興味深く解釈しているという点で見る者をひきつける。
 面をかぶった踊り、『ヤマタのオロチ』の舞台、田植、収穫の踊り等が特に成功であった。舞踊専門家は『オドリ』の出演者の高い技術と、そのスタイルに複雑さを指摘している...」
と報じた。