野呂修平バレエ一筋55年

15、日本民族舞踊団海外公演(3)

[野呂修平バレエ一筋55年]
 行く先々で高い評価を受けてきた日本民族舞踊団の第4回目の海外公演は、昭和45年(一九七〇)に行なわれた。
 行く先は、フィリピン、タイ、インドネシア、シンガポール、マレーシアの東南アジアの5ヵ国である。
 一行は、外務省と国際文化振興会派遣の文化使節として、6月12日、羽田を発った。参加人数は、ソ連、東欧圏よりちょっと少ない28名。
 修平は、人気演目である「八岐大蛇」を抱えていたこともあり、一般ダンサーとして、第1回目から外されることなく、全ての海外公演に参加してきた。
 東南アジアの都市は、フィリピンのマニラ、タイのバンコック、インドネシアのジャカルタ、シンガポール、マレーシアのクアラルンプールである。
 羽田を発つときは、6月であったから、梅雨どきでむしろちょっと肌寒いくらいであった。
 が、今回訪問する東南アジアは、赤道直下の、あるいは赤道に近い国々である。このころはどこの国でもあまり劇場が整備されていなく、大学の講堂や炎天下の野外ステージであった。
 普通の公演であれば、舞台に立ち動いてから汗が出るが、今回は厚い衣装を着けているということもあり、立っただけで汗がどーっと出てくる。舞台は2時間半である。舞台袖に戻ると、まずタオルで汗を拭く。化粧なんてあったもんじゃない。そして次の衣装に着替える。中には、リハーサル中であったから良かったものの、熱中症で踊れなくなった者もいた。ともかく暑さとの戦いであった。
 特に修平の場合は、大蛇の中に入っているから、ちょどサウナに入っているような暑さであった。
 舞台が終わると、汗で濡れた衣装を乾かす。すると襟などがカビが生えたように真っ白になった。塩である。身体から塩が噴き出たのであった。
 身体から塩が噴く?分からないひとの為にちょっと説明しよう。
 戦国時代、上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送った話が有名であるが、人間の血液には0・4~0・5㌫の塩分が含まれている。その塩分が、激しく汗をかくと汗とともに噴出するのである。
 むかし、100度以上という溶けた鉄を扱う製鉄所の控え室には、塩が置かれていた。身体の塩分を補うために、労働者は塩をなめなめ仕事をするのである。
 そんな苦労をしながらもどこでも歓迎を受けた。
 特に、「荒馬」、「じょんがら」、「稲の祭り」の中の「刈り入れ」、「さんさ踊り」などになると、同じ稲作文化の国である。会場から共感の歓声があがった。
 また、「八岐大蛇」や「鷺舞」は、どこに行っても圧倒的な喝采をあびた。
 赤道直下の海は美しい。いわゆる南国に海である。移動の合間には観光地を巡った。苦しくも楽しい公演旅行であった。
 日本民族舞踊団の公演を、フィリピンの新聞「マニラ・クロニル」は、
 「...日本のアンサンブルは、舞台構成上特別な技術的操作が加えられていない。にもかかわらず、日本の踊りは西ヨーロッパのバレエが表しうる以上の繊細で洗練された、こまやかな美を表す。その美しさは、微風に揺らぐ細い葦、緑の原野に静かに降る雨、又は日光に照りはえて輝く雪片に似ている。優雅であること、洗練されていること、その踊り手が熟練していること等は、日本の舞踊の明白な特徴である。ステップは一般に小さく気取った風である。動きはゆっくりしていて優雅でリズミカルである。手と足は、角立ったポーズをとる...」
 西洋のバレエと並び評され、ちょっと褒めすぎではないかと思われるほど高い評価で書かれている。
 これは、内部的にも、「その発展段階は、第二段階に入った」と評価されていた。
 準備段階を含め昭和38年(一九六三)から始まった日本民族舞踊団。7年の歳月が流れていた。
 この間、海外公演が4回、16ヵ国以上廻った。痩せても枯れても日本という国を背負った日本を代表する舞踊団である。7年間に団としては勿論だが、個々人の技量も参加当初とは比べものにならないくらい高くなっていた。
 一般ダンサーとして唯一人、4回全ての海外公演に参加した修平。その技量が高まるとともに、当然その評価も高まり、民族歌舞団が、一時休団ということもあって、大きな舞台への依頼が次々と舞い込んできた。
 その主なものを紹介すると、東京都助成公演『眠れる森の美女』(日本バレエ協会)産経ホール5公演。日本民族舞踊団公演『有田神楽』『鬼剣舞』他、国立劇場8公演。藤原歌劇団『バレエの夕べ』NHK。現代舞踊協会公演『トロイヤの女たち』産経ホール。小林恭バレエ団公演『リゼット』。松山善三プロダクション『ダンダンボッコ唄』狛江スタジオ。東京シティバレエ団『エスメラレダ』世田谷区民会館。バレエグループ『オンデーヌ』日生劇場。秋田芸術学園東京公演『白雪姫』産経ホール。間瀬・矢野合同公演『白鳥の湖』熊谷会館(こけら落とし)などである。
 昭和44年(一九六九)から、後に引き継ぐことになる間瀬バレエスタジオの専任教師となっていたが、昭和47年(一九七二)間瀬バレエスタジオの第25回発表会『卒業舞踏会』、『小人の国』、『メヌエット』の演出及び振付を初めて行なった。
 この舞台が、埼玉県バレエコンクールで、埼玉県のトップ賞である県知事賞及び読売新聞社賞を受賞した。これは、間瀬バエレスタジオの初めての快挙であった。
 どんなに上手いダンサーでも振付や演出ができるわけではない。踊る能力と演出及び振付る能力は別である。演劇の演出家、映画での監督の能力である、創造する能力がなければならない。
 7年間の日本民族舞踊団での活動は、修平にそんな能力を身につけさせていた。
 さらに、1年置いた昭和49年(一九七四)に行なわれた、間瀬バレエスタジオ第27回発表会、そして間瀬バレエスタジオの創始者である間瀬玉子舞踊生活50周年記念発表会でもあり、修平は『レ・シルフィード』、『親指姫』、『八岐大蛇』の演出及び振付を行ない、そしてダンサーとしても踊った。
 この舞台は、県コンクールで第2位の県教育長賞及び東京新聞社賞を受賞した。第25回及び今回の功績で、間瀬玉子は埼玉県文化奨励賞を受賞した。
 もはや修平は、間瀬バレエスタジオには欠かすことのできない、なくてはならない人間になっていた。