野呂修平バレエ一筋55年

16、結婚、そして間瀬バレエスタジオの主宰者となる

[野呂修平バレエ一筋55年]
 昭和51年(一九七六)、修平は指導に行っていた埼玉県熊谷市にある間瀬バレエスタジオを引き受け、スタジオを主宰することになった。
 バレエスタジオの主宰は、バレエをやっていたからといって、誰彼が簡単にできるものでない。しかも熊谷駅近くの一等地である。
 確かに、公設のホールやスタジオを借りてやっているひともいる。が、独立したバレエスタジオとなると、まず土地、建物が必要である。一からやるとなると大変なことである。
 間瀬バレエスタジオを主宰していた間瀬玉子は、日本のクラシック・バレエの草分けの一人であった。
 間瀬玉子は明治43年(一九一〇)、横浜市で生まれたが、後に鎌倉市に移った。
 その鎌倉に、ロシア革命で日本に逃れてきたエリアナ・パヴロワがいた。パヴロワは、ロシア・サンクトペテルブルグの貴族の家庭で生まれた。が、ロシア革命に遭い、大正9年(一九二〇)、母と妹の、女性だけ3人で日本に亡命してきた。
 パブロワは、このときまだ21歳であったが、ロシアにいたころはクラシック・バレエをやっていた。
 貴族であった一家は、革命ですべてを失い命かながらに日本に亡命してきた。パヴロワは、日本でクラシック・バレエを教え、生計を立てようとしていた。
 しかし、日本ではバレエはあまり知られておらず、バレエを習おうという人は皆無に近かった。そこでパヴロワは社交ダンスを教え細々と生計を立てていた。
 大正12年(一九二三)そのパヴロワの門を叩いたのが間瀬玉子であった。玉子はまだ13歳であった。パヴロワはバレエに関しては非常に厳しいひとであった。玉子はやがて内弟子となり指導を受けた。
 そのパヴロワのもとには、後に日本のバレエ界を背負って立つ東勇作、藤田繁、橘秋子、貝谷八重子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣らがいた。
 また、少女時代を貿易商であった父についてロシアで過ごし、ロシアでクラシック・バレエを学んできた服部智恵子が、パブロワの片腕となっていた。服部智恵子も、ロシア革命で日本に帰って来た一人であった。
 このパヴロワが最初にバレエを教えた鎌倉の七里ヶ浜の旧パヴロワ館を、後にバレエ関係者は「日本バレエ発祥の地」として碑を建てている。
 玉子は、16歳で初舞台を踏み、本格的なバレエの道に入った。
 パヴロワは日本に帰化。日本最初のバレエ団エリアナ・パヴロワ舞踊団を結成した。しかし、日中戦争が勃発(昭和12年)、国家総動員法が公布(昭和13年)されるなど、戦争が色濃くなるにしたがってバレエ団の活動が制限されてきただけでなく、昭和14年(一九三九)、パヴロワ舞踊団は、満州に日本軍の戦地慰問に駆り出された。
 昭和16年(一九四一)、パヴロワは慰問中の南京で病に倒れ亡くなった。パヴロワ42歳であった。パヴロワはロシア人ではあったが、帰化していたこともあって、軍属の戦病死として扱われ、靖国神社に祀られた。
 この満州慰問団の中には間瀬玉子も入っていた。
 そして帰国後玉子は、パヴロワが亡くなったので、東京・中野でバレエ教室を開いた。玉子30歳のときである。
 しかし戦争が激しくなり昭和19年(一九四四)、玉子は埼玉県熊谷市の藤井経太朗宅に疎開した。が、昭和20年(一九四五)8月15日、熊谷市も空襲を受け焼土と化した。
 この熊谷市の空襲は、死者234名、焼失家屋3630戸という、埼玉県内最大の空襲であった。
 命の助かった間瀬玉子。焼け野が原となった熊谷市を見、この熊谷市に骨を埋めようと決心。昭和21年(一九四六)、矢野薬局の一室を借り、バレエ教室を開いた。
 これが間瀬バレエスタジオの始まりである。
 昭和24年(一九四九)、その間瀬バレエ教室に入ってきたのが野辺トリ(後の間瀬桂子)であった。
 昭和32年(一九五七)、子供のいなかった玉子は野辺トリを養女とし、名前も間瀬桂子と改めた。
 昭和42年(一九六七)、バレエ教室開設20周年記念公演を機に、名称を間瀬玉子・桂子バレエ研究会と改めた。
 そして昭和44年(一九六九)、修平はこの間瀬玉子・桂子バレエ研究所に、専任講師として行くのである。
 間瀬玉子はすでに59歳になっていた。来年は還暦である。熊谷市に来て23年、今では埼玉県舞踊協会会長他、熊谷市文化功労賞を受賞している。熊谷市は勿論だが、埼玉県内でも名前が知られるようになった。私が亡くなった後、このバレエスタジオを継続して行くには桂子一人では無理である。やはり創作・振り付けのできる優秀な男性のバレエダンサーがいなければならない。
 そう思った間瀬玉子は、バレエを始めたころから知っている、バレエの先輩でもある服部智恵子に相談した。
 そして、服部が白羽の矢を立てたのが、人一倍の努力家である修平であった。
 修平は、そんなこととはつゆ知らず、服部先生に行けといわれ、週末に熊谷市に通い、専任講師として指導した。
 こうして、ちょうど1年後の昭和45年(一九七〇)4月、修平と間瀬桂子が結婚することになった。修平37歳になっていた。
 しかし、修平には日本民俗芸能協会の海外公演など、すでに決まっている仕事があり、東京から通いながらの結婚生活であり、指導であった。
 昭和46年(一九七一)、間瀬玉子は、修平を養嫡子にした。つまり、婿ではなく玉子の子供にしたのである。間瀬玉子・桂子バレエ研究所を引き継ぐ修平に思い通りにやっていただくために、肩身の狭い思いをさせたくなかった玉子の配慮であった。
 また修平を迎えるために、自宅の2階をバレエスタジオに改修すると共に、バレエ研究所の名称も、代表は間瀬玉子であったが間瀬バレエスタジオと改名した。
 昭和51年(一九七六)、間瀬玉子が亡くなると共に修平は、間瀬バレエスタジオの主宰者となると同時に、埼玉県舞踊協会の副会長となった。
 人生は運と出会い、そして努力である。昭和28年(一九五三)、田舎から出て来た若者が、たまたま勤めたところの社長が、服部・島田バレエ団の島田廣と友だちであった。それがきっかけとなってバレエの道に進んだ修平。それから23年、バレエ界では押しも押されぬ名の知れたバレエダンサーになると共に、一国一城の主となった。