野呂修平バレエ一筋55年

17、日本民俗芸能協会

[野呂修平バレエ一筋55年]

 yamatanooroti.jpg話をちょっと後に戻そう。
 修平にはその理由はわからなかったが、昭和49年(一九七四)に、日本民族舞踊団とは別に、新たに日本民俗芸能協会が結成された。
 民俗芸能協会には、民族歌舞団から、五条雅巳、福田一平、藤陰静枝、江崎司が参加。そして会長に、紫綬褒章を受章している、民俗芸能研究では第一人者の本田安次氏が就いた。
 その日本民俗芸能協会の、文化使節団としての第1回海外公演は、アフリカのケニア、マダガスカル、エジプトの3ヵ国であった。
 使節団のアフリカ訪問は、訪問の3ヵ月前に声がかかり、国立劇場で厳しい練習が行なわれた。
 使節団の団長は、会長の本田安次氏。演出は日本民族舞踊団に最初から参加していたモダンバレエの江崎先生で、修平は演出助手兼ダンサーとして参加した。
 メンバーは、男性はモダンバレエの加賀美次郎、日本舞踊の高橋春夫、藤間鳳州、女性は日本舞踊の花柳小童、モダンバレエの加藤英子、甘間節子の小編成であった。
 演目は、「有田神楽」、「鬼剣舞」、「綾子舞」、「田植え踊り」など、日本民族舞踊団のときの縮小版であった。
 一行は、昭和49年3月7日にケニアに入り、首都であるナイロビで2回公演した。
 ケニアは人口約3900万人。旧イギリス植民地であったが、一九六四年に独立。今ではアメリカのバラク・オバマ大統領の父親の出身地として知られている。
 ケニアには公演できる大きな劇場はなく、会場がキャパシティが500席、舞台が間口12㍍、奥行き6㍍と小さかった。
 そんな小さな劇場で、「有田神楽」で、二匹の大蛇が絡み、火を噴く場面がある。 それを見た観客がびっくりして大騒ぎになった。 
 一行は、次のエジプト公演の合間に、ケニア国立自然動物公園の一つ、ナイロビ国立公園を見学した。ここは、幾つかの自然動物公園の中でも動物の数が一番多い公園である。遠くにはアフリカ大陸の最高峰キリマンジャロが見えた。
 途中、遠いむかし首刈り族として恐れられていたマサイ族の集落があった。ケニアの国旗には、自由と独立を意味する、このマサイ族の旗が描かれている。
 ケニアで1週間滞在したあと、次の公演地であるエジプトに向かった。
 エジプトというと、誰しもが思い浮かべるのがピラミッドであろう。エジプトの人口は約8200万人。国土の90㌫が砂漠という国である。エジプトの首都はカイロは、アフリカ、アラブ世界で最も人口が多く、アラブ文化圏の中心都市である。
 一行は、そのカイロで2回公演をした。カイロでの公演の前に、身体をくねらし官能的に踊るベリーダンスのダンサーたちから歓迎の熱烈なハグを受けた。日本ではハグがまだ珍しい時代だったから、男たちは喜ぶやら戸惑うやらであった。
 カイロでの本番前夜のリハーサルが終わって、いつものことながら、明日は頑張ろうと一杯やった。が、江崎先生が飲みすぎて風呂場で転倒し、怪我をしてしまった。
 さあ大変。江崎先生も「八岐大蛇」の大蛇に入っていた。急きょ修平が舞台の責任者となり、加賀美次郎に大蛇に入ってもらい、無事舞台が終了した。
 また、エジプトでも見学の時間が取れた。エジプトでは何といってもピラミッドである。
 ピラミッドは、キザの大ピラミッドである。この大ピラミッドはフク王のピラミッドで、高さがなんと146・6㍍というちょっとした小山のようである。紀元前2540も前に、どのようにしてこれを造ったのであろうか。その威容さに圧倒された。

 一行はラクダに乗り、ピラミッドの前で記念写真を撮った。
 三つ目の訪問国はマダガスカルである。マダガスカルには、一旦ナイロビに戻り、そこから空路マダガスカルに入った。
 マダガスカルは旧フランスの植民地で、人口約1900万人。徳利形の巨大木バオバブでも有名である。
 また、第二次世界大戦中の昭和17年(一九四二)、このマダガスカル島とインド洋のシーレーンをめぐって、日本軍がイギリス軍と激戦を繰り広げた地でもある。
 マダガスカルの主産業は農業で、人口の80㌫が農業に従事をしており、このときはまだ裸足での生活であったが、大変自然の美しい国である。
 ここでは公演は1回だけであったが、日本人に対しては大変親しみを持って好意的に接してくれた。
 こうして、3ヵ国を訪問し、3月25日に帰国した。
 翌昭和50年(一九七五)日本民俗芸能協会の第2回文化使節団は、アメリカ民俗フェスティバルへの出演であった。
 このアメリカでの公演は、アメリカ建国200年祭は、イギリス貴族・鉱物学者のスミソニアンが、遺言によってアメリカに寄付された全財産によって設立されたスミソニアン財団による招聘であった。
 メンバーは、新舞踊藤蔭流を創始した藤蔭静枝、江崎司をトップに、修平は前回と同じく、演出助手兼ダンサーとして舞台に立った。
 舞台は、有田神楽、鬼剣舞、獅子舞、田植え踊りなどであったが、指導者が変われば、解釈も変わり振付も全く同じではない。そういう点では大変収穫の得た公演であった。
 このときは約1ヵ月の長期公演で、ワシントンを皮きりに、ミルウォーキー、フィラデルフィア、ソルトレイクシティ、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなどを巡回公演した。
 サンフランシスコでは日本人街で公演した。日系二世、三世の人たちが、焼き鳥やおでんなど、日本の屋台をつくって、大歓迎を受けた。
 修平は42歳になっていた。修平は、この民俗芸能協会の2回公演を最後に海外公演から手を引いた。
 東北の片田舎の開拓村出身から出て、バレエを始めたのは昭和31年(一九五六)、修平23歳のときであった。バレエダンサーとしては遅い出発であったが、それから約20年、今はバレエダンサーとしても名が通り、間瀬バレエスタジオを主宰するまでになった。
 その修平を大きく育ててくれたのが服部智恵子・島田廣との出会いと、日本民族舞踊団への参加であった。
 出会いは人生を変える。修平は服部智恵子・島田廣との出会いがなければ、今の修平はなかったであろう。まさに一期一会であった。
 修平には、間瀬バレエスタジオの主宰者としての新たな人生が待っていた。

 写真/アメリカ公演は主にはこのような野外舞台での公演であった。舞台は「有田神楽」の八岐大蛇。子どもたちにも人気があった