野呂修平バレエ一筋55年

18、熊谷市に腰を据え創作に専念

[野呂修平バレエ一筋55年]

 昭和45年(一九七〇)指導に行っていた、日本のクラシックバレエの草分けの一人である間瀬玉子から、間瀬バレエスタジオを引き継ぐことになった修平。
 しかし、日本民俗芸能協会の海外公演などがあり、修平が熊谷市に腰を据えたのが昭和50年(一九七五)になってからであった。
 そして間瀬玉子の死去(昭和51年)に伴い修平は、埼玉県舞踊協会のクラシック部門の副会長、熊谷市文化連合の洋楽部長に就任した。それだけ修平に対する期待が高かったであろう。
 修平はその期待に応えるかのように、地域文化の発展のために後継を育てる傍ら、地域の民話や伝説、その時々社会的課題をテーマに、旺盛な創作活動を始めた。
 修平の主なバレエ創作を紹介しよう。
 昭和50年(一九七五)
 間瀬バレエスタジオ第28回発表会(以下、発表会については回数のみとする)『おもちゃの交響曲』、『ワルプルギシの夜』。公害追放キャンペーン『車椅子の願い』。埼玉県芸術祭『平和への先駆者たち』 。
 この年修平は、県コンクール第1位県知事賞、同橘秋子賞を受賞した。
 昭和51年(一九七六)
 第29回発表会『ピーターと狼』。第30回間瀬玉子追悼発表会『精霊』、『眠れる森の美女』。亡き母に捧げる『幻想ラルゲット』。県コンクールで第2位の県教育長賞受賞。
 昭和52年(一九七七)
 文化庁の海外派遣事業で、アメリカサンフランシスコバレエ団に研修。第31回発表会『77Dance Suitte』、『ヘンゼルとグレーテル』、『マチネーミュージカル』他。県コンクールで昨年に続き第2位県教育長賞受賞。
 昭和53年(一九七八)
 第32回発表会『愛情の森』、『道化師』、『猫の館』、『湖畔の乙女』。この『湖畔の乙女』は、修平のふるさとである十和田湖の「湖畔の乙女像」(高村光太郎作)と、十和田湖伝説「八郎太郎と南祖坊」をテーマにした創作バレエである。県コンクールで読売新聞社賞。
 昭和54年(一九七九)
 第33回発表会『子供の情景』、『レ・シルフィード』、「ドン・キホーテ」より『夢の景』他。
 この年、バレエ、モダンダンス、ジャズ、日本舞踊、声楽、ピアノ、フルート、演劇、歌謡曲の科を持つ熊谷芸術学園を開設し、園長に就任。
 またこの年、全国13支部をもって日本バレエ協会が設立(服部智恵子会長)されるが、修平は埼玉ブロックの委員長に就任した。
 そして、前年に創作した『湖畔の乙女』を持ってふるさとに初めての凱旋公演を行なう。が、肝心の十和田市には公演できるホールがなかったために八戸市及び弘前市の公会堂で行ない喝采を受けた。
 昭和55年(一九八〇)
 第34回発表会『古典交響曲』、『動物の謝肉祭』、『世界の踊り』。公害追放キャンペーン『宇宙会議』他。間瀬バレエスタジオが「埼玉県文化ともしび賞」を受賞。
 また、ふるさとの母校である三本木高校で「バレエ講座」を行なう。
 昭和56年(一九八一)
 第35回発表会(夏季)『四季の花』、『白鳥の湖』(第2幕)。第35回記念発表会『くるみ割り人形』(全幕)、『おもちゃの交響曲』他。バレエ協会『案山子』出品。
 昭和57年(一九八二)
 第36回発表会『花のワルツ』、『子供の交響曲』他。日本バレエ協会埼玉ブロック結成記念公演『菊路物語』。これは、埼玉の民話「黒浜の盗賊」を題材にした創作バレエである。
 昭和58年(一九八三)
 第37回発表会『皇帝円舞曲』、『コッペリア』他。公害追放キャンペーン『さぎ山』発表。
 熊谷市制50周年記念で、文化連合主催で交声曲『直実』を制作発表。その成功のために文化連合副会長として尽力。また記念に制作されたレコードのジャケットに修平の写真が使われた。修平は熊谷市文化運動の、もはや中心的存在になっていたことが伺われる。
 またこの年、文化庁芸術家在外研修員としてアメリカ、スペイン、フランス、ベルギー、イギリスを3ヵ月に亘って研修。
 昭和59年(一九八四)
 第38回発表会『古典交響曲』、『愛情の森』、『動物カーニバル』他。
 熊谷市文化連合主催で、海外研修帰国報告会開催。
 *恩師服部智恵子逝去。
 昭和60年(一九八五)
 第39回発表会『おもちゃの交響曲』、『誕生日の贈り物』、『白鳥の湖』(第2幕)他。
 バレエ協会バレエフェスティバルで『猫の館』発表。大好評であった。
 昭和61年(一九八六)
 第40回記念発表会『コッペリア』(全幕)他。埼玉県舞踊協会主催「バレエ・モダンダンスコンサート」出演。
 昭和62年(一九八七)
 第41回は発表会。秩父屋台囃子をもとにした創作バレエ『秩父旋踊紋』、『菊路物語』他。
 また、この年ふるさとである十和田市に市民文化センターが開館。そのこけら落としに間瀬バレエスタジオ一行40名を、バス1台チャーターし、『コッペリア』(全幕)持って凱旋公演を行なった。昭和28年(一九五三)にふるさとを出てからちょうど35年。文字通り錦を飾ってのふるさとへの凱旋であった。1000人のキャパは満席。ふるさとの人たちには初めて観るバレエ公演に大感激であった。夜は、ふるさとの同級生や公演を支えてくれた人たちと美味しい地酒を飲む。
 昭和63年(一九八八)
 第42回発表会『湖畔の乙女』、『ドン・キホーテ』(夢の景)他。
 平成元年(一九八九)
 第43回発表会『眠れる森の美女』(第3幕)他。
 この年に、間瀬桂子他5名が、ロシア・ワガノウバレエ学校に短期留学した。
 平成2年(一九九〇)
 創立45周年記念事業として、鉄骨三階建ての新スタジオ建設に着手。
 平成3年(一九九一)
 新スタジオ完成。完成祝賀会を行なうと同時に、創立45周年記念発表会『竹取物語』(2幕7場)を行なう。
 修平、埼玉県文化奨励賞を受賞する。
 平成4年(一九九二)
 第46回発表会『ジゼル』(第2幕)、『絹のはしご』他。
 平成5年(一九九三)
 通常の発表会は休会。
 埼玉県北部バレエ連絡協議会結成し、修平会長に就任。旗揚げ公演を行なう。
 平成6年(一九九四)
 第47回発表会『レ・シルフィールド』、『くるみ割り人形』(第2幕)、『ディズニーワールド』、『フラワーガーデン』他。
 修平個人として「埼玉県文化ともしび賞」を受賞。
 平成7年(一九九五)
 第48回発表会『The World Dance Festival』、「ドン・キホーテ」より夢の景『パ・キータ』他。
 ニュージーランドINVERCARGILL市より、ダンサー4名、教師2名招聘して国際文化交流を図る。
 平成8年(一九九六)
 第49回発表会『ピーターと狼』、『くるみ割り人形』(雪の景)、『平和の使者』他。
 姉妹都市INVERCARGILL市へ、翌年の合同公演のための振付をするために渡航。
 平成9年(一九九七)
 第50回夏季発表会『バルンファンタジー』、『白鳥の湖』(2幕)他。
 ニュージーランドINVERCARGILL市に間瀬バレエスタジオ一行30名で海外公演。このとき、前年に渡航し振付けた作品の合同公演を行なった。公演は成功裏に終わり、国際交流を深め帰国した。
 埼玉県芸術文化振興財団理事長諸井誠氏(当時)から相談を受ける。諸井氏は秩父セメント創業者の一族であり、父は作曲家諸井三郎、兄は太平洋セメント相談役の諸井虔で、作曲家・音楽評論家として活躍後、晩年は埼玉県芸術文化振興財団理事長・彩の国さいたま劇場初代館長に就任していた。
 諸井氏は、熊谷は埼玉のバレエの発祥の地であるから、オーケストラ付の本格的なバレエ『くるみ割り人形』の全幕を5年間やる。
 その主役は海外から一流のダンサーを呼び、周りはプロダンサーで固めるが、県内からヤングダンサーをオーディションで120人募集するといった。なんとも大胆な企画であろうか。ヤングダンサーは、主には修平が会長を務める埼玉県北部バレエ連絡協議会から選ばれた。
 芸術総監督は諸井誠氏、振付は江川明氏で、修平はその振付補佐を任されたと同時に、実施的なプロデューサーもやらなければならなかった。
 修平64歳の新たな創造への挑戦であった。