カオルのざっくばらん対談

BUNKA新聞社30周年記念対談 3 (上)

[カオルのざっくばらん対談]

黒沢一郎&小笠原カオル(上)

私は人に恵まれている
kurosawaitirou.jpg 小笠原
 私が新聞を発行して30年になるんですけれど、本当に人に恵まれて来たなと思っています。多くの人たちに教わり、助けられてきた。
 だってそうでしょう。40歳になるまで、文章さえ書いたことのなかった人間が、無謀にも新聞を発行して、色んな人たちに出会い、教えてもらい、助けてもらって、気がついたら30年経っていた。
 黒沢 30年って、一言でいうけれど長いですね。
 小笠原 その30年の中で私は黒沢さん(以下親しみを込めてクロさん)との出会いが大きかったと思っているんです。
 黒沢 ありがとうございました。
 小笠原 何故かというとね、一つは本の出版ですね。
 本の出版は、設立当初から考えていて、1周年のとき『シャモ馬鹿』でオール読物新人賞をとった森一彦さんの『女軍鶏師マサ』を出版していましたからね。
 その後要望があるたびに出版していたんです。それは、私が原稿をワープロで打って版下を作っていたんですね。ところが新聞を出しながらですから時間がなかなかとれない。
 ある方が、「早く出さないとオレ死んじゃうよ」といっていたんですが、本当に出版する前に亡くなってしまった。そんなのが2件ほどありました。
 「あッそうだ。クロさんがパソコンをやっていた筈だ。パソコンで版下を作れないんだろうか」と最初にお願いしたのが多分『教えるは学ぶの半ば』(橋本清著)だったと思うんです。
 以来、宣伝もしていないのに、BUNKA新聞社出版部の「文化出版」で、年2、3冊コンスタントに出版していますからね。これはクロさんのお陰ですよ。
 黒沢 出版では大変お世話になっています。
 小笠原 もう一つはパソコンです。ワープロの時代は私は一歩も二歩も進んでいたと思うんです。ワープロで新聞の版下、本の版下を作っていましたからね。
 ところがパソコンの時代になった途端、横文字に弱く全くついて行けなくなった。
 私は、中学校1年生のときは英語が大好きだったんです。1年生の冬に骨隋炎という骨が腐る病気になって半年学校を休んだ。それから英語の授業について行けなくなった。
 ワープロからパソコンに切り替えるとき全部クロさんにセットしてもらった。わからないことがあればすぐ電話をして、ここどうするのと聞く。そして今は、ネット新聞まで出せるようになった。本当にこれはクロさんのお陰だと思っています。30年の歴史の中で、クロさんとの出会いは、私にとっては大きな出会いでした。改めてありがとうございました(笑い)。
 黒沢 いやー、俺も息子がIT産業に勤務しているので、息子から学びましたよ(笑い)。ところで『教えるは...』を出したのは何年ですか。
 小笠原 平成9年(一九九七)3月ですね。
 黒沢 そうすると16年ということですか。現在編集中の出版物で40冊近いでしょう、ずいぶんかかわってきたなと改めて感謝します。
 小笠原 ですからクロさんとの付き合いは、BUNKA新聞社の歴史の半分ですよ。
 私が最初にクロさんに電話したのが、BUNKA新聞社の10周年のころですから、多分平成4年(一九九二)ころだったと思います。
 何故電話したかというと、私は20代は東京の劇団にいて、30代は帰って来てサラリーマンをやった。40代は新聞をやったというように10年ごとに仕事が変わっていた。じゃ50代は小説家になろうと馬鹿なことを考えていた。今でもその夢は捨てていないんですがね。
 そんなときクロさんたちがタウン誌のアドバー社を買うという情報が入ってきた。借金さえなくなれば何とかなるだろう。タウン誌は印刷代が高くて大変だというのを知っていたからね。だからアドバー社を買うよりBUNKA新聞社を買わないかと電話したわけだ。
 そのときまで私はクロさんとは一度も話したことがなかった。でも何故かクロさんに電話をした。その後の長い付き合いの始まりです。
 黒沢 その電話をもらった記憶があります。
 俺も自由奔放で、Y氏と会社作るかといって、当時『県南新聞』に、「黒沢十鉄辞める。Y氏も商工会議所専務を辞める。二人で何をやるのか」と大きく書かれました。
 そして二人で辞めて、俺たちにはペンとアイディアしかないと情報新聞十和田タイムリー社を立ち上げた。
 当時の福万組の社長に挨拶に行ったら、社長が、「お前たちね、資本もないのに商売やるなんて考えられないよ」といわれたんです(笑い)。
 小笠原 本当だよね。BUNKA新聞社も資本ゼロから始めたからね。
 黒沢 そうこうしているうちにタウン誌のアドバー社の売却問題が出てきて、商売にイロハも知らない俺たちが、有限会社だったアドバー社に役員として入って、社長が代わり、社名も変えるという手法をとった。
 それでY氏が社長で、私が専務となった。が、実際にやってみると経営に関してはY氏も私も素人だし、経営方針の違いから平成6年(一九九四)に、俺が独立したわけだ。
 考えて見ると、それから19年、来年20周年だね。
 小笠原 早いね。
 黒沢 廻りではY氏に対して厳しい見方もあったが、私にとってサラリーマンから自営業に導いてくれたと、今では感謝しています。        

 黒沢一郎プロフィール
 
一九四三年東京都中野区に生まれる。父の実家である岩手県を経て、母の勤務地であった十和田市に移住。
 三本木高校、東京電機大学卒業。広告デザイン会社内外企画(東京)勤務。昭和43年(一九六八)十和田観光電鉄㈱入社。平成4年(一九九二)十和田タイムリー社創業。平成6年(一九九四)独立しアイクリエイト創業。平成23年(二〇一一)法人化。