カオルのざっくばらん対談

BUNKA新聞社30周年記念対談 3 (下)

[カオルのざっくばらん対談]

黒沢一郎&小笠原カオル(下)

私たちはまだまだこれからだ

kurosawaitirou2.jpg 小笠原 私もね、この新聞を始めるとき似たような経験があるんです。40歳になるまで新聞を出すなんてこれぽっちも考えたことがなかった。
 私が40歳になったとき、我が家はほとんど80歳まで働いていたから、じゃ私も80歳、あと40年働かなければならない。そんなことを考えていたとき、学校の先生をやっていた知人が、新聞をやるから手伝ってくれと声をかけてくれたんです。
 新聞を発行するたって、書けるわけじゃないし、私はヰセキ農機でセールスをやっていましたから、広告とったり、新聞を増やすぐらいならできるだろう。これが人生を変えるきっかけになるかも知れないと、後先も考えずに会社をやめた。
 黒沢 一大決心だね。
 小笠原 ところがその知人、新聞を発刊する前に頓挫してしまった。それから1年後に自分で新聞を出して、今があるわけです。
 その知人が私に声をかけてくれなければ、新聞なんて全く考えも及ばなかった。だから今はその知人に感謝しています。
 黒沢 まさしく、人生出会いが大事ですよね。自分にとって、悪い出会いも、良い出会いも全て人生の肥やしですよ。
 以前編集長がいいましたよね。Y氏がいたから今のクロさんがいるんだと。
 小笠原 出会いだよなー。
 黒沢 ほんとうにそう思います。僕もY氏に感謝しているんです。
 僕が市議会議員をやっていたとき、十和田観光電鉄の出身ということで、観光議員と言われていた。
 Y氏は、当時、市商工観光課の課長だった。そんなことから、4年間十和田市の観光がどうあるべきかなど、議会で質問をしたり、意見をぶっつけあったりしていた。それからの付き合いだった。
 小笠原 クロさんたちがファックス情報紙をやるって聞いたとき、地域新聞が8社もあるまちとして「ズームイン朝!」(日本テレビ)にも取り上げられたほどの十和田市だから、また新しい新聞ができるなとぐらいにしか思っていなかった。
 しかし、タウン誌のアドバー社を買うということを聞いて、雑誌は印刷代が高いから、こりゃ大変だなと思ったわけ。それでBUNKA新聞社を買わないかとクロさんに電話したわけだ。
 黒沢 勿論タウン誌だけでは大変で、その他チラシとか求人広告なんかやって、トータルで経営をして行こうと考えていた。
 その他、相撲の星取りビンゴゲームとかもやった。
 しかし、二人で始めると、時には経営方針で意見が合わなかったりして、僕は独立したんです。
 初め「月刊ファミリー」という情報誌を発行したんだが、その頃になるとバブルも崩壊し、3K、すなわち雇用、広告、交際費を抑えるという時代に入っていて、広告収入もなかなか伸びない。それで新聞をあっさりとやめて、デザインに方向転換したわけだ。
 実は僕は東京ではデザインをやっていたんですよ。大学は電気専攻だったんですが、アルバイト先が広告の企画会社だった。
 小笠原 広告代理店ではなく?
 黒沢 制作ですね。松下電器(当時)とか、大手の企業の宣伝物を作っていた。これが今のデザイン会社のベースになっている。
 僕が十和田に帰ってきたのは昭和42年(一九六七)2月です。そして十和田観光電鉄に入って、2年間はバスの車掌をやった。
 小笠原 えっバスの車掌。
 黒沢 当時の杉本社長体制の時は、新入社員は全員路線バスの車掌をさせられた。それから2年ぐらいして自動車部管理課に配属された。そのとき十和田湖の双胴船名のロゴをデザインしてくれといわれたのが、十和田観光電鉄での最初のデザインの仕事でした。
 そして私鉄史上に残る十和田観光電鉄の大ストライキが勃発した。それがきっかけとなって労働組合の専従になったんだけれど、僕の根にあるのはやっぱり絵、デザインだな。
 実は、小学校6年生のとき図画で文部大臣賞をもらったんですよ。
 小笠原 凄いね。当時ですから新聞にも書かれたでしょう。
 黒沢 僕にとってそれがベースかもしれないね。大学受験のとき千葉大学の工学部デザイン学科を第一志望にした。なぜかというと、あそこは建築デザインで有名な大学だったんですよ。残念ながらその道には進めなかったけれど、心の中に常にデザインがあったね。
 時代の変化に合わせデザインにも変化があり、今でも毎日がデザインの勉強と考えています。
 小笠原 いや、凄いですよ。クロさんにはデザインの部分では主に本の表紙もやってもらっているわけだけれど、いつも凄いと思っています。これは、クロさんに備わった感性だね。それと、「とわだ夏おどり」「十和田市民大学講座」のポスターなんかね。
 「夏おどり」というと、クロさんとはまちづくりで一緒にやってきました。
 黒沢 最初は「まちづくり塾」でしたか。
 小笠原 私は、東京に2年間通い「まちづくりコーディネーター」の資格を取るための勉強をした。そして平成12年(二〇〇〇)に、北里大学名誉教授の和栗秀一先生を塾長に迎えて「まちづくり塾」を開講した。
 黒沢 そこから、北海道から道産子を6頭買い、生きた馬でのまちづくりが始まった。それがNPO法人十和田馬主協会と発展し、今では馬事公苑駒っこランドを運営している。
 小笠原 そして次に立ち上げたのは「NPO法人どんぐりの森・山楽校」と、「とわだ夏おどり」です。
 黒沢 すべて「まちづくり塾」が原点ですからね。
 小笠原 実はね、話し合いでなかなか前に進まないとき、私はチラッとクロさんの方を見るんですよ。そうするとクロさんは適切なアドバイスをしてくれた。ほんとうにいいパートナーとして、ずいぶん助けられてきました。改めてありがとうございました。
 黒沢 いやいや僕たちは、まだまだ夢がありますからこれからですよ。
 小笠原 本当にそう思います。まだまだこれからです。夢を持ち、お互いに頑張りましょう。ありがとうございました。

 【黒沢一郎】
 現在は、仕事の他、ボランティアでは、十和田湖ライオンズクラブ会員、十和田馬事振興協会事務局長、NPO法人十和田馬主協会副理事長、十和田馬事公苑副苑長、十和田駒フェスタ副実行委員長、とわだ夏おどり実行委員長などを務める。