杉本佳築子物語 夢かぎりなく

2、おいたち

 伊勢湾と三河湾をさえぎるかのように細長く突き出た知多半島。半島の最南端は南知多町で、その一つ手前にあるのが美浜町である。美浜町の東西は海に挟まれ、東側は三河湾に、西側は伊勢湾に面している。
 そして、両海岸に向かって平地が広がり、そのほぼ中央を標高30㍍ほどの知多丘陵が南北に走っている。
 気候温暖で、美浜のその名の通り海岸線は美しく、伊勢湾側には海水浴場が4つあり、夏になると名古屋圏からの多くの海水浴客で賑わう行楽地でもある。
 また、伊勢湾側には愛知県で一番古い野間灯台があり、この灯台の周囲にあるフェンスに南京錠をかけると恋が結ばれるという伝説があり、錠前の重さでフェンスが倒れることもあったというほど、若者に人気のスポットである。
 人口は約2万4000人(平成26年1月現在)で、鉄道は名古屋鉄道河和線と、河和線の富貴から分かれた知多線がある。幾つか乗換えが必要であるが、いずれもJR名古屋駅から35分程度である。
 美浜には、三河湾に面する河和港と伊勢湾に面する上野間港と漁港が二つあり、漁が盛んである。特に天然トラフグが有名である。
 また、河和港からはカーフェリーも出ている。
 美浜にはまた、一時問題となった戸塚ヨットスクールがある。
 海岸は遠浅であることからむかしからノリの養殖が盛んで、「野間のり」はブランドになっている。また、アサリがたくさんとれ、潮干狩りには沢山の人で賑わう。
 一方、丘陵地では酪農が行なわれ、ミカンなどの果樹類や野菜、花卉の栽培などが行なわれ、季節にはイチゴ狩りやミカン狩りなども行なわれている。いわば海の幸、山の幸、漁業と農業に恵まれた豊穣な土地であると共に、名古屋圏の週末の行楽地ともなっている。
 また歴史的には、平安の末期、鎌倉幕府を設立した源頼朝の父義朝が、平治の乱(一一五九)で平清盛に敗れ京都からこの地に落ち延びた。が、家臣に裏切られ入浴中に謀殺された場所でもある。義朝38歳の若さであった。
 義朝は、「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と言い残したといわれる。
 後に徳川家康が義朝、頼朝親子を「武神」として敬ったこともあり、義朝の墓所のある野間大坊は人々に知られ、現在は美浜の観光名所の一つになっている。
 佳築子はその美浜町に昭和19年(一九四四)1月1日、父中村貞男、母さかゑの5人兄弟の次女として生を受けた。
 父の、もともとの姓は渡邊であったが、祖母の実家である中村家に跡取りがなかったことから、三男坊ということもあり中村家に養子に入ったのである。
 父の実家である渡邊家は関ヶ原の戦い(一六〇〇)のころに知多に来たといわれているから400年以上の歴史があり、江戸の後期には櫛やかんざしなどを営む飾り屋であったらしい。が、明治維新以降旅館に商売替えをし、現在は美浜・海鮮料理「旅館かざりや」として、美浜を代表する旅館の一つとなっている。
 この渡邊一族には、父の兄の子ども、佳築子の従兄弟にあたる渡邊元嗣がいる。元嗣は、東大医学部を出て、医局に入った。が、「私が目指したのは人の命を救う臨床医だった。そう思って故郷を出たのではなかったか。故郷の人々のために尽くすのが私の進むべき道だ」と、大学での研究に見切りをつけ、昭和36年(一九六一)美浜に戻り渡辺医院を開業。現在は、111床の渡辺病院他、渡辺病院検診センター、介護老人保健施設、訪問看護ステーション、居宅介護支援センターなどを経営する、美浜町の中心的医療機関として活躍している。
 父が養子に入った中村家、つまり佳築子の生まれた家はこれも300年ほど続く古い家柄で、渡邊家から歩いて2、3分のところにあった。
 当主中村清太郎は中村家の10代目で、大阪商船の船長をやっていたというが定かではない。
 大阪商船は、明治17年(一八八四)に瀬戸内海の船主55名が、93隻の船を現物出資して設立した会社で、その後三井船舶と対等合併し、戦前は日本郵船と並んで日本の二大海運会社として世界にその名が知られた船会社である。
 中村清太郎はその大阪商船の幹部であったからかなり裕福な生活をしていた。
 父貞男はその中村家の養子となった。成績は優秀で、中学校は美浜の自宅から、この知多半島ではいち早く市制を施行した半田市の中学校に通った。半田の中学校までは、自宅から自転車で30分ぐらいかけて国鉄武豊駅に行き、そこから汽車で4つ先の半田駅で降りるのである。自宅から学校までは1時間近くかかった。
 しかし4年生のとき身体を壊し休学。そのまま中退してしまった。
 その後、学校にも行かずぶらぶらしていたが、20歳を過ぎたころ商社に入り満州に渡りハルピンに行った。こうしてハルピンで10年ほど仕事をしていた。
 昭和16年(一九四一)貞男は31歳になっていた。いつまでも一人でいるわけに行かず、一時帰郷すると、農業をやりたくないという農家の娘さかゑを嫁にもらった。さかゑは21歳。貞男とは歳が10歳離れていた。それまで遊び人で通してきた貞男。それだけに番茶も出花の娘盛りで、10歳も年下のまぶしいほどのおぼこ娘のさかゑは可愛いくてしょうがなかった。
 よほど嬉しかったのであろう。当時はあまりなかった新婚旅行にさかゑを東京に連れていった。さかゑにとっては初めての東京であった。
 また名古屋の松坂屋デパートに連れて行き、「このデパートで一番高いものを買ってやるといった」。さかゑは半信半疑で、「本当ですか」というと貞男は、「本当だ。男には二言はない」といった。
 農家から抜け出したいと思い、17、18歳のころから、近隣の農家からやいのやいのとあった幾つものの縁談を断わり続けてきた。農家からの縁談は、働き手が欲しいだけであった。さかゑはそれが嫌であった。ましてや月給取り(サラリーマン)の嫁になるのは、農家の娘にとっては夢であった。さかゑはそれが叶ったのである。
 女が欲しいものというと宝石か着物である。さかゑは呉服売場に行き、「ここで一番高い着物が欲しい」といった。
 貞男は、「よしわかった」といって、店員にこの呉服売場で一番高い着物を出させた。それは最高級の結城紬であった。そんな高い着物を貞男は新妻にポント買ってやったのである。ハルピンの会社では相当の高級取りであったろうことが伺われる。さかゑはこんな高価なものを買ってもらったのは後にも先にもこのときだけであった。
 結婚すると妻さかゑも一緒にハルピンに連れていった。が、子どもができたことがわかると、やはり親がいる内地で生んだ方がいいだろうと、貞男はさかゑを日本に送ってくると、またすぐハルピンに引き返した。
 昭和19年12月7日、マグニチュード8の東南海地震が襲った。美浜はそう大きな被害はなかったものの、生まれて初めての大地震であった。長女洋子が2歳、佳築子が生まれてまだ1歳に満たない乳飲み子。母さかゑは必死で二人の子どもを守った。
 昭和20年(一九四五)3月、アメリカ軍が沖縄に上陸。1000人以上の島民が集団自決するなど痛ましい犠牲者が出た。そして3月には名古屋がB‐29爆撃機230機による大空襲を受け、一夜にして15万1000人が被災、826人が死亡した。日本の敗戦はもう誰も目にも明らかになっていた。
 その6月、貞男はすでに35歳になっていた。徴兵制度は、後備兵役及び補充兵役の上限が32歳になっていたが、35歳になっていた貞男にも召集令状が来た。多くの若者が戦場で亡くなり、男ならだれ彼かまわず召集する、日本はそんな末期的な状況になっていた。
 貞男は岐阜に招集された。岐阜には陸軍の施設として、陸軍航空整備学校があった。帰還後貞男は兵役についてほとんど話したことはなかったが、多分ここではなかったかと思われる。
 この航空整備学校は、本来は、飛行機の整備を担う少年飛行兵を志願する生徒の教育機関であった。

 伊勢の海岩に砕くる波しぶき 日にひかるわれのふるさと (佳築子)