杉本佳築子物語 夢かぎりなく

3、かっちゃん数の子鰊の子

 ももたろうさん ももたろうさん おこしにつけたきびだんご ひとつわたしにくださいな...
 佳築子は、母と手をつなぎながら大きな声で歌った。
 母は、生まれて間もない一番下の妹をおんぶし、左手は佳築子と手をつなぎ、右手には風呂道具やら着替えなどを持っていた。
 父と長女の洋子、下の弟は、父の実家であるかざり屋の風呂に行っている。
 夫婦で同じ家族であるから一緒に行けばいいものを、母にとっては小さな子どもがいるし、家も近いことから実家の五右衛門風呂の方が誰にも気兼ねすることなくゆっくりと入ることができた。
 また、農家の娘にとっては夫の実家はいわば商家である。農家と商家では生活が全く違う。夫の実家には行きにくかったということもある。
 母の実家には祖父母と、18歳と14歳になる母の妹がいるだけであった。
 母には長男の兄もいるが、長男は家から独立して酪農をやり、乳牛を10頭ほど飼っていた。
 母は、帰り道いろんなことを話してくれた。だから佳築子は、今日はお母さんと行きたいなと思うと、「アタシお母さんと」と真っ先に手をあげた。佳築子は行動的であった。
 すると姉の洋子は、じゃアタシお父さんと行くとぼそぼそといった。姉の洋子は佳築子とは性格が正反対であったが、目がくりっとして可愛いかったため、どこに行っても可愛がられた。
 佳築子は、母の実家の五右衛門風呂も、かざりやの風呂も好きであった。風呂が好きというより、風呂上りに出るお菓子が好きという方が正確であろう。
 かざり屋の風呂は旅館であったから様々な買い菓子がもらえた。
 母の実家では、農家であるからサツマイモを蒸して乾燥させた自家製の干しイモや手づくりのほっとくれ餅が出た。
 ほっとくれ餅は、米の粉やもち米に砂糖を混ぜて臼でついて棒状にして切って軽く天日で干した知多半島に伝わる民間の手づくり菓子である。佳築子はこのほっとくれ餅が大好きであった。
 母の実家は、源義朝が家臣に裏切られ殺された義朝の墓のある野間大坊のすぐ西側にあり、佳築子たちが住んでいた家とは歩いて10分程度のところにあった。野間大坊の前には、野間大坊に来た観光客を泊める旅館も数軒あった。
 だから農家といっても街中といっていいほどの場所である。家は大きな母屋があり、中庭を挟んで蔵や作業小屋、養蚕室、鳥小屋があり、農家としては裕福な方であった。ちょっと離れたところに田んぼや畑、桑畑があり、家の前には金柑や武士柑など果物がなる木があった。佳築子たちはそれをとって食べた。
 父貞男が兵隊から帰ってきたのは昭和20年(一九四五)の10月である。帰って来たもののすぐ仕事があるわけではない。まず、食わなければならない。そこで妻さかゑの実家から畑を借りて白菜や大根、ジャガイモなどをつくった。
 朝、荷車に鍬や昼飯、ゴザなどを乗せ畑に行く。子どもたちはその荷車に乗るのが好きだった。
 まだ小さかった弟はゴザを敷き木陰に寝かせ、佳築子と姉の洋子が、春にはタンポポの花を摘んだり、白いクローバーの花で冠や首飾りなどをつくって遊んだ。また、また畑の近くに清水が湧き、そこにはグミの木や桑畑があり、夏になると、グミや桑の実をとって食べた。桑の実を食べると、手や口が紫色にそまる。桑に実を頬に塗り、二人はそれを見合って大笑いをした。子どもたちは遊びの天才である。野山で全く退屈しなかった。
 母は、農家から抜け出したくて月給取りの嫁になったのにと、笑いながらぼやいていた。しかし、戦後食糧事情の悪い中でも、母の実家は農家であったということもあり、他の人たちのように着物をヤミ米に換えたりする必要もなく、食べるのに困るということはなかった。
 佳築子たち一家は、最初は中村の家で祖父母と一緒に生活していた。昭和23年(一九四八)に末の妹が生まれた。子どもが増えるにしたがって、子どもを育てたことがない祖母は、子どもの泣き声や、家の中を走り回る音は耳障りであった。佳築子たちは「うるさい!!」って怒鳴られることも度々であった。
 祖母は都会の生まれで、子どもが出来なかったこともあり子育ての経験がない。
 この祖母のもとで農家出の妻がどれほど気を使っているであろうか。父貞男は妻の気持ちを察し、貞男の実家のかざり屋の倉庫を借りそこに移った。
 10歳年下の妻は可愛いということもあったろう。父は、何処へ行くにもいつも母を連れて行くなどのおしどり夫婦であった。
 中村の家にはタイル張りの立派な風呂はあったが、倉庫には風呂おろか、飯炊きをするカマドさえなかった。カマドは手の器用な父が作ったが、風呂はそれぞれの実家でのもらい風呂であった。
 倉庫の家は、子どもたちも母も誰彼に気を使う必要がない。子どもたちが家の中を多少走り回っても、父も母も、子どもってそんなもんだと叱ることはなかった。家の中はいつも笑い声がたえなかった。
 母のつくる料理、特にうどんの作り方がうまかった。かざり屋からブリやタイの魚の粗をもらうことも多かったから、時折かざり屋のおばあちゃんを呼んで食べてもらうこともあった。
 「かっちゃんのお母さんのつくるうどんは美味しいね」といつもほめられた。
 母は、3月3日のひな祭りには桜餅を、5月5日の端午の節句にはちまきを、彼岸にはあんころ餅を、お月見には団子をと、季節季節の祝い日には、供え物を作り祝ってくれた。
 かざり屋の祖父は不動産の仕事をしていた。やがて父貞男は祖父の手伝いをした。不動産の仕事は、朝から晩まで仕事をしても間に合わないほど忙しかった。
 それは、空襲で名古屋が全焼した他、終戦により中国や朝鮮など外地からの引揚者や帰還兵たちで、住宅が圧倒的に不足していたからである。名古屋方面からも毎日のように家を探す人たちが来た。不動産の仕事が忙しくなるにしたがって、父貞男の収入も当然のことだが増えていった。
 佳築子が5歳になったときである。子どもたち4人ともハシカにかかってしまった。ハシカは空気感染をする非常に強い感染症だが、むかしは子どもは必ずハシカに1回はかかる。1回かかればもうかからないから早くかかった方がいいといわれていた。しかし実際には、ハシカで亡くなったり後遺症が残ることもある。
 ハシカは小学校に入ったばかりの洋子が学校に行きもらってきたのである。佳築子たち兄弟4人とも一斉に寝込んでしまった。38℃から39℃の熱が三日、四日と続いた。
 ハシカは1歳ごろかかるのが多いが、歳がいくにしたがって症状が重くなる。下の弟と妹が五日目にもう起きていたが、佳築子と洋子だけは熱が下がらず足腰も立たないほど重症であった。医者も危ないかもしれないと父にいっていた。両親はこんなことで死なせてはならんと一生懸命に看病してくれた。
 父は寝ている二人にカステラを買ってきてくれた。そのカステラのうまかったこと。佳築子は起き上がるまで1ヵ月かかった。それまでは佳築子はふっくらとしていたが、このハシカでがりがりに痩せてしまった。
 近所のおじさんから「かっちゃんカズノコ鰊の子 かっちゃんがりがりにやせてやせっこ」といわれた。
 むかし北海道で鰊は猫も見向きもしないほどたくさん獲れた。その鰊の子はカズノコである。「かっちゃん数の子」は、カズノコとかっちゃんと呼ばれていた子どもとの語呂合わせのからかい歌である。
 佳築子はハシカにかかる前はふっくらとしてたが、ハシカで1ヵ月寝込んだことによって、そういわれるほどがらがらに痩せてしまった。
 夜、両親が子どもたちの足を洗ってくれた。洋子ちゃんの足が大根のようだけどかっちゃんの足はまるでごぼうだねといわれた。佳築子は、親からもそういわれるほどがりがりに痩せてしまった。

 十五夜の月仰ぎみし幼き日 の作りしだんごのうまき(佳築子)