杉本佳築子物語 夢かぎりなく

4、元気印のかっちゃん

 校門の前の桜はもう散り始めていた。ちょっとでも風が吹くものならば花びらはわれ先にとその風に乗り、ひらひらと美しい舞いを見せるのである。それは、この学校に入学する新1年生を祝う歓迎の舞のようでもあった。
 母は、この日ばかりは口に紅をつけ、淡い無地の紫の着物に、黒の羽織をはおっていた。佳築子はときどきその母を見上げ、着物を着た今日の母ちゃんはきれいだなと誇らしげであった。佳築子はその母と手をつなぎ学校の門をくぐった。昭和25年(一九五〇)4月、佳築子は美浜町立野間小学校に入学した。
 佳築子のクラスは50人ぐらいであったろうか。生徒は男の子はほとんど子供服であったが、女の子は可愛い女の子用の子供服や、着物にモンペをはき下駄をはいたものなど様々であった。が、母親たちのほとんどは着物であった。
 また、男の子は坊主頭で、女の子はおかっぱであったが、子どもにしては珍しく一人だけパーマをかけた子もいた。
 担任の先生は母より歳がいっているようであったが、着物に袴をはき、その姿は子どもながら格好よく見えた。
 現在、佳築子は偶然にも呉服屋をやり、洋服はパジャマしかないというぐらい呉服好きであるが、その呉服好きはこのとき刷り込まれたようである。
 それでは出席をとります。みなさん呼ばれたら元気に返事をしてくださいねと先生は一人一人の名前を読み上げて行った。
 「なかむらかつこさん」
 「ハーイ」
 元気印のかっちゃんである。手をあげ誰よりも大きな声で返事をした。そしてちらっと後ろにいる母親に目配りをした。母はニコっと微笑み返しうなずいた。
 佳築子の家の三軒先はすぐ海である。夏は学校から帰ると玄関にカバンを放り投げて海に行った。母は手作りの水着を作ってくれた。姉の洋子は泳げなかったが、佳築子は海であれ山であれ、遊ぶのが大得意であった。夏休みは一日中海で遊び、やせっこでまっくろなかっちゃんになっていた。
 三河湾の東幡豆海岸から1・5㌔のところに猿ヶ島がある。この猿ヶ島はもともとは沖島であるが、名古屋鉄道によって観光開発が行われ日本猿を放し飼いしたことからそう呼ばれるようになっていた。ここに家族で行ったとき、あまり近づき過ぎて猿に襲われたこともあった。
 また、佳築子の家では、家族が食う分ぐらいの田んぼを作っていたので、春になると家族総出での田植えであった。佳築子はその田植えも楽しみであった。佳築子たち子供の役割は苗運びである。田植えをしている父や母が、「オーイ苗がないよ」というと、束ねた苗を「行くよー」といって、田植えをしている母たちのところに苗の束を投げるのである。時折田んぼにいるカエルを捕まえては遊ぶ。そして昼休みの田んぼの畔での昼飯も楽しかった。一面の緑と真っ青な青空。その下での昼飯は家で食べる何倍もおいしかった。佳築子は意外に自然児であった。
 家ではまた 山羊や鶏のチャボを飼い、子どもたちに世話をさせた。山羊の乳やチャボの卵は夕餉の食卓にのぼることもあった。
 佳築子が小学校2年生のとき中村の祖父が亡くなった。これをきっかけとして佳築子たち一家は、倉庫を改造した家から中村の家に戻った。が、子供の多い佳築子一家である。祖母は子供たちがうるさいからと、かざり屋が持っていた家に移り、佳築子の父の兄の奥さんが亡くなっていたので、その子供たちと一緒に住んだ。子供といってももう大きくなっていたのであまり気を使う必要がない。祖母にしては、小さな子供たちと暮らすより、その方が気楽であった。その祖母も佳築子が小学校4年のときに亡くなった。
 中村の家は、かまどもタイル張りで倉庫を改造した家とは比べものにならないくらいきれいであった。そのかまどでごはん炊くのが佳築子の役割になった。釜から泡が噴き出すとかまどの薪を引いて火を弱めるなど、焦がさないように炊くには炊き終わるまでそこから離れられなかった。
 佳築子小学校3年になったころ、琴を買ってもらい姉と二人で琴教室に通った。が、佳築子は、お前は音感が悪いといつも姉と比較され、結局は1年も続かなかった。姉の洋子は、その後続けただけでなく現在なお子供、孫と続いている。
 また踊りは、父の実家であるかざり屋で、小学校に入る前から何かあると踊らされていて、自分では体を動かす踊りは大好きであった。が、これも姉と比較され、佳築子の踊りは品が良くないといわれた。
 父は、「いいよいいよ佳築子は元気が取りえのかっちゃんだからそれでいいよ」といった。だから、音感が悪いといわれようが、品が良くないいわれようがそんなことは全く気にもしないどころか、学校で悪さをして、男の子と一緒にバケツを持って廊下に立たされたこともあるほど、元気印のかっちゃんであった。
 佳築子の得意は、図工に算数、そして運動であり、国語は苦手であった。その国語苦手な佳築子が今は短歌をやり、地元紙である東奥日報やデーリー東北の歌壇に投稿し入選の常連となっている。学校の成績なんてあまりあてにならぬものである。
 野間小学校の遠足は秋である。4年生の遠足のときである。遠足から帰って来たら一番下の妹が生まれていた。
 これで兄弟は長女の洋子、次女の佳築子、長男の清蔵、三女の加代、そして今生まれた四女の純子と5人になった。それぞれ兄弟の性格は皆違う。長女はしっかり者で何をやってもそちなくこなす。次女の佳築子は、何事にもくよくよせず元気印である。長男は男一人であるから、両親から可愛い可愛いで育てられちょっとあまちゃんである。三女は頭が良くてまじめで、しかも可愛いかった。そして四女はどんな子どもになるやら。それから2年ほどして、母が子宮筋腫で入院したとき、洋子は学校を1ヵ月休み母に付き添い看病した。
 父は祖父の不動産屋を手伝っていたが、それをやりながら梅屋という金物屋を開業した。その隣に父の弟が若くして亡くなったこともあり、かざり屋のおばあちゃんがその弟の嫁におもちゃ屋を開業させた。おもちゃ屋ではケーキなどお菓子類も扱っていた。クリスマスになると、かざり屋のおばあちゃんが子供たち全員にまん丸い大きなケーキを一個づつプレゼントしてくれた。ショートケーキではない。そんな大きなケーキ、子どもたちが1日や2日で食える量ではなかった。
 かざり屋のおばあちゃんにしてみれば、孫たちの喜ぶ顔が見たいというのと、おもちゃ屋をやっている息子嫁への援助でもあった。子どもたちにとっては、毎年のクリスマスがまちどおしかった。
 父が、神経痛を患い、田んぼや畑は無理だと、持っていた土地を150万円で売った。2、3年してその土地を買い戻そうとしたとき、150万円で売った土地が750万円にもなっていた。数年で約5倍である。この750万は父一人では買えなかったので兄弟3人で金を出し合って買い戻した。
 それをきっかけとして父は、祖父から独立して本格的に不動産屋に力を入れた。日本の経済の復興時期でもあり大分儲けた。
 佳築子たちがみかんを食いたいといえば、父はみかん一箱ではなく何とミカン畑を買ってくれた。みかんの木が30、40本もあったろうか。育ちざかりの子どもたちが5人もいるから、みかんを箱で買ってもすぐなくなる。日当たりのいいところにあるみかんは甘い。子どもたちは、これはかっちゃんの木、これは洋子の木などと、それぞれおいしい木を見つけては印をつけていた。みかんの収穫は10月頃から始まる。畑に小屋を建て、そこに収穫したみかんを入れて置くと春まではいつでも食べられたし、30、40本分のみかんは春までに残すことなく全部食べた。それだけのみかんを食べると手が黄色くなる。風邪をひいたとき病院に行ったところ、病院の先生がその手を見て黄疸ではないかと心配されたこともあった。
 また、ビワが欲しいというとこれもビワ畑を買ってくれた。ビワ畑には7本のビワの木があった。えびせんは一斗缶で買ってくれた。子どもたちの多い中村家では、父がこうしてまとめ買いをして、あとは子どもたちがそれを自主的に管理させていた。
 小学校6年の卒業式の日、この地方では珍しい10㌢も積もるという大雪であった。

 肩ぐるまの父の背中は大きくて い合いたりわれと妹 (佳築子)