BUNKA新聞社30年の歩み

1、BUNKA新聞社前史

[BUNKA新聞社30年の歩み]
「歴史・文化・人の掘り起こし」からまちづくりへ
 これまで15周年、20周年、25周年と5年ごとに記念増刊号を発刊してきたが、今回はその機会がなかったので、ここにBUNKA新聞社の30周年の歩みを紹介させていただきます。  BUNKA新聞社編集長 小笠原カオル


BUNKA新聞社のそもそもの始まりは、自主上映の映画サークル「十和田映画センター」であった。
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 昭和55年(一九八〇)、サーカスに青春をかけ、高所での綱渡りの最中に落下して亡くなった若者の実話を映画化した『飛べイカロスの翼』(森川時久監督、さだまさし主演)の自主上映をきっかけとして映画の自主上映サークル十和田映画センターが発足した。
 かつて映画は文化の中心であった。が、映画はテレビの普及とともに衰退。昭和40年代の中ごろまでは、十和田市でも、東映、稲生座、スバル座、ロマンス座と4館あった映画館はつぶれ、当時残っているのはポルノ映画専門の映画館だけになっていた。
 そんな状況の中でも、映画に情熱を持った人たちがいた。東京で映画の配給会社に勤めていた若者が帰郷。昭和47年(一九七二)に「青年映画サークル」をつくり自主上映を始めた。この青年映画サークルは昭和55年(一九八)までつづき40本前後の映画を自主上映した。
 同じく昭和47年、十和田市で地域新聞『日刊東北』という新聞を発刊していた佐藤不器さんが、『ある告発‐出稼ぎ裁判の記録』を出版した。
 これは、出稼ぎ先で不慮の死を遂げた川村由松さんというひとが、その身元を証明する所持品があったにも関わらず、警察はロクに調査もせず、身元不明人として医科大学の解剖用遺体になっていたという事件である。この本はその裁判の記録である。
 その本に注目したのが映画監督・シナリオ作家の新藤兼人であった。
 新藤さんは、その裁判記録をもとにシナリオ『わが道』を書いた。
 そこで佐藤さんは『わが道』製作実行委員会を組織し、川村事件をテーマにした映画『我が道』を、昭和49年(一九七四)に完成させ、県内外で自主上映した。
 映画製作者となった佐藤さんは2作目、当時八戸職安に勤めていた藤田健次さんが書いた『看護婦のオヤジがんばる』(あゆみ出版)を映画化。映画『看護婦のオヤジ頑張る』(神山征二郎監督、前田吟・佐藤オリエ主演)を制作した。
 このように、大手映画会社で制作する映画は衰退したものの、映画文化が衰退したのではなかった。良識ある映画人たちが、近代映協のような自主的な映画製作会社をつくり、映画を制作していた。そしてその配給も映画館に頼らず、自主上映という形で上映していた。
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 そんな流れの中で、昭和55年に十和田映画センターを設立。八戸を除く青森県南の各市町村公会堂や公民館、集会所などを廻り、映画上映を始めた。
 映画センターは、昭和55年から平成2年までつづき、三戸町出身の漫画家馬場のぼる原作の『11ぴきのねこ』、『看護婦のオヤジ頑張る』など延べ39本の映画を上映した。
 その映画センターが、映画の内容や、子どもたちの映画の感想文を載せた『映画ニュース』を発刊した。
 当時、文化センター建設運動の高まりと共に、市民の文化への関心も高まり、『映画ニュース』は映画のみならず、要望に応じて文化センター建設運動や、文化的ニュースも載せるようになってきた。
 この十和田映画センター及び『映画ニュース』が、BUNKA新聞社及び『人間情報紙‐夢追人』のそもそもの始まりである。