杉本佳築子物語 夢かぎりなく

6、伊勢湾台風

 昭和34年(一九五九)4月、佳築子は県立内海高校に入学した。内海高校は、美浜町の南に位置する内海町(現南知多町)にあり、佳築子の家からは、県道247号線を4㌔ほど南下した丘陵地にあった。
 入学して1ヵ月は自転車で通っていた。が、その後部活などで帰りが遅くなることもあったためバス通学に切り替えた。国道247号線はまだ舗装されていなかったが、西側は伊勢湾で野間海水浴場や野間灯台があるなど美しい海岸線に沿った道である。
 内海高校は、昭和14年(一九三九)に県立高等裁縫学校として設立され、戦後県立半田高校内海分校となり、昭和32年(一九五七)に県立内海高校として独立した歴史的には新しい高校である。十和田市でいえば三本木高校のような高校である。だから佳築子が入学したときは内海高校になってから2年目ということになる。
 もともと女性を中心とした裁縫学校で、高校としては新しい学校だから校風は大らかであった。
 佳築子は高校に入ると茶道部と生け花部に入った。中学時代は学年一駆けっこが早く、ソフトボール部で活躍するなどスポーツマンであったものが、高校に入ると茶道部と生け花部である。佳築子の中学時代を知っているひとなら、かっちゃんがお茶とお花?!何!!あのお転婆娘がもう花嫁修業??というに違いない。
 実は、痩せでガラでおくての佳築子ではあったが、K君との悲しい初恋を経て高校に入り、胸も多少ふくらみ女らしくなり急速に色気づいてきたのであった。
 茶道は松尾流である。松尾流は文亀2年(一五〇二)と創設は古いが、家元が名古屋市にあり、名古屋を中心とした流派である。学校には家元が直接指導に来てくれていた。
 生け花は石田流である。石田流は、幼いころから花が好きで、関西の諸流派を学んだが、生け花の古い様式にあきたらず、生け花の自由な発展を求めて大正11年(一九二二)に石田秀翆が創設した、これも名古屋を中心とした名古屋由来の流派である。
 お茶の松尾流の直弟子が内海町で教室を開いていた。佳築子と一番仲の良かった満月のような真ん丸顔をした、知多半島の最南端である師崎町(現南知多町)の旅館の娘、中川しほちゃんと二人で部活とは別にその先生の教室に通った。そしてお茶の先生からお花の先生を紹介してもらった。
 母の妹である夏子おばさんが高校の近くに住んでおり、生け花教室で遅くなると、おばさんの家に寄り、そこからバスで帰ることもしばしばであった。 
 しほちゃんが満月のお月さんであれば、佳築子のあだ名は花王石鹸であった。石鹸といっても顔が白いわけでも、いつも石鹸のいい匂いがしているというわけもない。
 当時、花王石鹸のロゴマークは、三日月に、目、鼻、口がついたものであった。佳築子はちょっと面長で顎がしゃくれていた。イメージがその花王石鹸のロゴマークに似ていたことからそういわれた。満月と三日月、いいコンビである。
 父の仕事もうまくゆき、この頃には三種の神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機が入っていた。贅沢はさせなかったものの、必要なもの、あるいは勉強のためのものであれば何でも買ってくれたし、学校の行事があると行かせてくれた。
 その年の9月26日、忘れもしない大災害に見舞われた。室戸台風(昭和9年)、枕崎台風(昭和20年)と並び昭和の三大台風と呼ばれた、最大風速60㍍以上という伊勢湾台風である。
 新聞やテレビで大型台風が来るから十分注意するよう呼びかけていた。
 台風15号が紀伊半島に上陸したのは9月26日の午後6時であった。このときは風速30㍍程度であった。が、上陸後風速が加速し最大60㍍にも達し、東海地方を中心に、死者、行方不明者5098人という史上最悪の被害をもたらした。特に伊勢湾沿岸の愛知県、三重県の被害が大きかった。
 知多半島を台風が通過したのは午後8時半ころであった。佳築子の家は自宅と、海岸沿いの店とがある。家は台風に備えて明るいうちに雨戸を閉め、畳を起こし窓に立てかけた。
 家と店を護るために、店には父と母と弟が、家には姉洋子と佳築子、妹2人の4人がいた。風が強くなるにしたがって、家がきしみ、屋根の瓦がはがれ、その瓦がまるで木の葉が飛ぶかのように飛び、木がなぎ倒された。電気が消えた。その暗い中、子どもたちは部屋の中央で布団をかぶり、懐中電灯を真ん中に置き震えていた。テレビアンテナが風で飛ばされたようである。同時に屋根瓦も剥がされそこから雨水がザーザー入ってきた。佳築子たちはもう生きた心地がしなかった。
 9時半ころになって父が、「オイ大丈夫か」と言って入って来た。
 子どもたちは、「お父さん!!」といって駆け寄った。まさに地獄に仏である。
 父はこんなに風が強くなるとは思っていなかった。だから子どもたちだけ家においていた。父は風が強くなって30分ぐらいしてあわてて家を出ようとした。が、風速60㍍の風である。とても立っていることができない。子どもたちが怖がっているだろう。何としても行かなければと、座布団を頭と体に巻きつけ、這って来たというのである。家と店の距離は数十㍍で普段は5、6分で行き来できるところを30分もかかったという。父は、「ごめんよ、ごめんよ怖かったろう」と言って子どもたちを抱き寄せた。
 生まれて初めての怖い体験でしたと、佳築子は語る。
 夜、9時頃である。風が急にやんだ。あ、台風が過ぎたと思い外に出た。外は瓦がたくさん散らばっていた。家の屋根を見るとテレビアンテナが飛ばされていた。その屋根の向うに月が出ていた。でもそれは一瞬であった。再び風が強くなり、あわてて家にはいった。この地域がちょうど台風の目に入った瞬間であった。
 幸いに佳築子一家は、誰も怪我することもなく、瓦がちょっとはがれ、テレビアンテナが壊れただけで家も店も無事であった。が、一週間ぐらい停電が続いた。
 台風が去って、近所の人たちと良かったね大したことなくてと喜びあった。が、堤防に死体があがった、あっちで死体があがったなどという、台風の被害の大きさを伝える話があっち、こっちからと聞こえてきた。
 この台風で幸いに美浜町はあまり大きな被害がなかったものの、知多半島のつけ根である伊勢湾沿いの東海市と三河湾沿いの半田市は壊滅的な被害を蒙った。その被害はちょうど高潮時と重なったこともあり、強い風の押された海水が道路が川となり街の中になだれ込み、その水位は数メートルに達した。今でもその慰霊碑が、伊勢湾や三河湾沿いの市町村にたくさん残されている。
 学校では、夏休みや、秋の文化祭、冬休みなどで様々な行事が行われた。
 夏休みには上高地や白馬山などへのハイキングであった。交通費や宿泊費など金がかかるので参加人数は少なかったが、父は、そんな学校の行事には必ず行かせてくれた。そんなときは男子生徒が荷物を持ってくれた。
 また秋の文化祭には盆踊りがあり、佳築子はゆかたを着て出かけた。
 冬のスキーには、姉の洋子がスキーで怪我をしたこともあって、行かせてくれなかった。
 佳築子は顎がしゃくれ、花王石鹸といわれていたほどだから、決して美人顔ではなかった。が、男にはモテた。3年生のときには彼氏ができ、彼氏とのデートの場所は教室であった。
 先生はそれを見て、蓼食う虫も好きずきといった。先生が生徒を蓼食う虫と冷やかすほどであったから何とも大らかな学校である。
 佳築子にとっての高校生活は、伊勢湾台風という忘れることの出来ない大災害に遭ったが、それ以上にまさにプラトニックな「若く明るい...」『青い山脈』の青春時代であった。

 なつかしき幼き日々の 海守の彼の人思う (佳築子)