杉本佳築子物語 夢かぎりなく

7、スピード狂?佳築子

昭和37年3月、高校を卒業した佳築子は、ナント運転免許をとるために鳴海町(現名古屋市緑区)にあった自動車教習所に入ったのである。当時、愛知県では自動車教習所はここしかなかった。
 佳築子が自動車の免許を取りたいといったら、父は反対はしなかったが、
 「もし、事故を起こしたときお前は死んでもいいけれど、ひとを乗せて事故を起こすようなことはするな。狭い道で歩行者と出会ったとき、お前が自分を捨てて崖の下に落ちても歩行者を傷つけない覚悟があるのか」と聞いた。
 自動車は便利な乗り物であるが、一方では怖い乗り物であるんだよと佳築子に諭したのであった。
 ともかく自動車免許を取りたかった佳築子は、「ハイ、あります」と答えた。
 この時代、女子は高校を卒業すると一般的には地元の会社に就職するか、いいところの娘は花嫁修業としてお茶やお花を習うとか、あるいは花嫁の箔を付けるために短期大学に行くとかであった。もちろんはっきりとした目標のある女性は大学まで進んだ。が、それはそう多くはなかった。
 ところが佳築子は、短期大学に行こうと思えば行けたのに、自動車教習所に入ったのである。その理由はというと、単に車を自分で運転して乗りたかったからである。受講生には女性が数人いたが若い女性は佳築子一人だけであった。
 昭和35年(一九六〇)、日本史上空前の安保反対運動で退陣した岸内閣に代わって、池田勇人が所得倍増政策を引っ提げて登場した。政治的にはここから日本の経済高度成長時代に入る。が、庶民には車はまだ高嶺の花で、佳築子の父でさえスクーターに乗っていた。
 当時、大衆車というと軽自動車ではカブトムシといわれたスバル360。普通車では後部のトランクがガクッと欠けたダットサン、昭和33年(一九五八)に新発売されたコロナ。翌34年(一九五九)に新発売されたブルーバードなど。圧倒的に多かったのが貨物ではあるがオート三輪や小型三輪車のミゼットなどがまちを走っていた。そして昭和35年にマツダが軽自動車R360クーペを新発売し、車も庶民に手が届きそうになりつつある時代であった。それでも女性のドライバーは珍しかった。
 また、自動車専用の日本初の高速道路、名神高速道路が昭和38年(一九六三)7月に滋賀県の栗東、兵庫県の尼崎間が開通した。
 そんな時代に佳築子は、車にのりたいばっかりに短大にも行かず自動車教習所に行き免許をとったのである。向こう見ずというか、大胆というか、今は死語となっているがいわゆるじゃじゃ馬娘で、自分の思ったことをやらなければ気がすまない佳築子であった。
 免許をとったからには早く車に乗りたい。当時、マツダがキャロル360を、鈴木自動車がスズライトフロンテ360、三菱が三菱ミニカと次々と軽乗用車を発売していた。価格も40万円前後であった。
 佳築子は免許を取ると軽自動車の中古を父から買ってもらった。当時のサラリーマンの給料は、少し前の流行歌の歌詞に「1万3800円」とあった。経済の高度成長期に入ったこのころは、毎年1割ぐらいの割合で給料が上がっていた。が、それでも大学出の初任給はせいぜい1万5000、6000円であったろう。それを中古でも20、30万円したであろう車を買ってもらったのである。18歳の女の子としては贅沢な買い物であった。
 佳築子は運転になれてくると、軽はスピードがでないし、次第に軽では物足りなくなってきた。
 佳築子の父の兄弟が5人、母の兄弟が8人いる。そんなことからいとこが30人近くと多かった。そのいとこ同士は仲が良かった。
 いとこの中には車やオートバイを持っているものもいた。そのいとこたちと三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットに行き250CCのオートバイに乗り飛ばしたこともあった。
 またコロナを持っているいとことは、できたばかりの名神高速道路を走った。アクセルをいっぱいに踏み高速道路を走った。爽快であった。メーターを見ると120㌔であった。120㌔出すと車がギシギシと軋んだ。それでもスピードを緩めることはなかった。まさにスピード狂の佳築子であった。
 名神高速を走っているときである。路肩に車のようなものがあった。車のようなというのは、車であった面影がないほどにぐしゃぐしゃの鉄の塊りとしかいいようのない車があった。事故になると車がこんなになるのか。これでは乗っていたひとは生きていないだろう。そう思った途端にスピードを出すのが怖くなり、しばらくは車に乗れなかった。以後、佳築子のスピード狂は収まるかのように見えた。が...
 佳築子は70歳になるこれまで事故を起こしたのは、仮免のときスピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれずよその家の門にぶっつけたのと、事故ではないが違反切符を切られたのは平成6年(一九九四)、佳築子50歳のとき37㌔オーバーでつかまり免停となり、6万円の罰金を取られた以外にはない。
 自動車免許をとった佳築子は、昼は個人でやっている和裁の先生のところに通い和裁を。夜は編み物を習った。手の器用だった佳築子は半年もすると、先生の助手をするほどに上達した。
 これに対して父は、一つのことを極めると、それで食っていかなければならなくなるからほどほどにしておけといった。
 普通なら、手に職を持っていると食いっぱぐれがないから職を身に付けておけというであろう。それが、手に職、つまり技術を身につけるのはほどほどにしておけである。
 これはひとつの人生哲学でもある。確かに佳築子の父のいうように、若いころ技術を身に付けるとその技術でもって一生が左右される場合が多い。ところが若いということは、一方では可能性をたくさん持っているということでもある。若いときに様々な経験をして、その中から自分の進むべき道を見つけて行けばいいのである。
 翌年佳築子は、半田市にあった桐華学園(現桐華家政専門学校)という洋裁学校に入った。桐華学園には週1回料理教室があった。佳築子は料理教室に入り半年もすると一通り覚えたので、調理師の免許を取ろうと思った。が、調理師の免許にはある一定の経験年数が必要である。そこで佳築子は父の実家である旅館かざり屋に行き、板前に話しここで経験したことにし試験を受け、父には内緒で調理師の免許をとった。
 また、従兄弟と一緒にゴルフの練習場に行き打ちっぱなしのゴルフもした。このころの佳築子は、車にゴルフとまさに青春を謳歌していた。
 佳築子20歳。当時は20歳から22、23歳は一般にいう結婚適齢期で、25歳を過ぎると行き遅れといわれた時代であった。このころになると、見合いの話しがたくさん舞い込んできた。4回目の見合いのときである。相手は名古屋の大店の息子であった。見合いには本人と母親が来た。
 この見合いには佳築子と姉の洋子がでた。あとで父が、「姉と妹とどちらがいいですか」と尋ねた。相手は「どちらでもいいです」と答えたという
 佳築子は「何!これ!!」と思った。姉の洋子と佳築子と比べたら、姉は目がくりっとしていて可愛いかった。大概の男だと姉というに違いない。そういわれても姉はきれいだと思っていたから佳築子は傷つかなかったが、それがどちらでもいいですとは何事か。
 名古屋の大店だから玉の輿である。しかしどちらでもいいということは単に跡取りを生んでもらえばいいというだけである。そんなところに行ったら幸せになれるはずがない。当然、姉も佳築子もその見合いを断った。
 そんな佳築子を見ていた伯父が、こんな我儘な娘では将来が思いやられると、モラロジーを学校の理念としていた廣池学園の麗澤高校瑞浪分校(岐阜県瑞浪市)と併設されていた社会人を対象とした廣池学園一般教養講座に入れてしまった。

 自動車の免許をとりて五十年 無事故にすごしし時に感謝す(佳築子)