BUNKA新聞社30年の歩み

3、県南は文化が低い??

[BUNKA新聞社30年の歩み]
 文化新聞の発刊にはもうひとつ決定的なきっかけがあった。それは朝日新聞の記事である。
 昭和58年(一九八三)朝日新聞に、『新・人国記』青森県版が連載された。これは、その地方の風土、文化等を背景に、文化分野で活躍する青森県出身者を紹介する記事であった。第1回目の紹介は高橋竹山と高橋竹与(後に二代目高橋竹山)であった。二人とも東京時代に付き合いがあった。
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 私は、あの人も青森県出身だったのか、この人も、あの人もと、毎日くる新聞を楽しみにすると共に、切り取ってファイルしていた。
 連載が終わり、それを改めて読み直して見て、〃何だ!これぁー!!〃と思った。津軽と県南の文化の格差があまりにもひどいのである。
 記事は、高橋竹山他、淡谷のりこ、寺山修司、長部日出雄など107名が紹介されていた。が、ナント上十三、三八、下北の青森県の太平洋岸、いわゆる南部といわれている地域で紹介されていた人は、三浦哲郎、馬場のぼるなど一割ちょっとの、わずか14人だけ。十和田市に至っては菅原都々子と森一彦の2人だけで、あとはすべて津軽であった。
 このとき思ったことは、私が昭和48年(一九七三)に十和田市に帰ってきたとき、十和田市民は酒を飲むと口に出るのは「十和田市は何も無い、十和田市は駄目だ」というグチであった。
 また、文化関係者の口から出る言葉は「十和田市は文化の沙漠だ、文化不毛の地だ」という卑下であった。そんなこともあり、やはり十和田市を含む県南は文化が低いんだという落胆であった。
 と同時に、朝日新聞の記者がどれほど調べて書いたんだろという疑問であった。
 私は、若いころ東京の劇団に入っていて、北は網走から南は沖縄まで、公演で全国を歩いた。そして十和田に帰ってみると、近くに十和田湖・奥入瀬渓流があり、町並みが整備されていて、とても美しいまちだと思った。
 よし!それならオレが調べてやろうじゃないかというのが文化新聞を発刊するそもそもの直接的なきっかけである。
 そこから文化新聞の発刊の目的であり、社是である「地域の歴史・文化・人の掘り起し」が決まった。
 文化新聞創刊号の「発刊にあたって」に、私はこう書いている。
 「十和田市は文化の砂漠と言われて久しいが、私はこのような新聞(文化新聞)の必要性を痛切に感じたのは、朝日新聞の『新・人国記』青森県版を読んでからのことです。これを読み進んでいくうちに、津軽と県南の文化の格差のあまりのひどさに考えさせられました。もちろん十和田市は言うに及びません。言われてみれば津軽には文学サークルや同人誌等、文化を育み発表する場がたくさんあります。十和田市にもこのようなものが必要ではないでしょうか」
 朝日新聞の記事が文化新聞の発刊と、その理念を決定づけてくれた。