杉本佳築子物語 夢かぎりなく

9、情熱のひと杉本正太郎と出会う(下)

[杉本佳築子物語 夢かぎりなく]
 モラロジーに戻り佳築子は課長に、
 「家族は全員反対ですから、結婚の話しはお断りしてください」といった。
 課長は、本部のお偉いさんから頼まれたものを、簡単に駄目だそうですとはいえない。それでは子どもの使いと同じである。しばらく考え込んでいた課長は、
 「じゃ、こうしよう。せっかく申し込んで来たんだから、どんなところか一度行って見てからでも遅くないんじゃない。それで嫌だったら断ればいいし。ね、そうしよう」
 十和田まで行って断ったのであれば課長も上に対して顔も立つ。こうして昭和41年(一九六六)初夏、佳築子と課長が下見という名目で十和田市に行くことになった。
 佳築子は結婚する気なぞ全く無かったから、後で断ればいいやと遊び気分で十和田に来た。
 名古屋から東海道本線で上野まで行き、上野から東北本線の特急寝台に乗った。下車予定の尻内駅(現八戸駅)に着いたのは朝6時ころであった。
 さて、駅に降りたものの迎えに来ているはずの杉本家のひとたちがいない。5分、10分待っても来ない。困った二人。名古屋から東京まで約360㌔、東京から八戸まで約710㌔、併せ1000㌔を超す距離。時間も15時間以上かけて来た。課長は杉本家とどのように打ち合わせをしていたのかは知らないが、佳築子は何コレ!と思った。
 課長は、「じゃ普通列車に乗り換えて行こう」といった。
 十和田市へは、国立公園十和田湖への東の玄関口である三沢駅で降り、そこから私鉄の十和田観光電鉄に乗り換え、その終着駅が十和田市である。しかし、三沢には特急や特急寝台が停らない。だから尻内で降りたのである。尻内には杉本家のひとたちが迎えに来ているはずだった。
 二人は十和田市までの切符を買い青森行きの普通列車に乗った。
 とたん、大きな背負い籠に荷物をいっぱいに詰め、さらにその上に風呂敷で包んだ物を載せたおばさんたちがたくさんいて、ワイワイガヤガヤと何やら大きな声で騒々しく話しをしていた。佳築子には何を話しているのかその言葉がほとんどわからなかった。
 これ同じ日本?佳築子はとてもじゃないがこんなところには来れないと思った。
 このおばさんたちは今はないが八戸名物のかつぎ屋のおばさんたちであった。
朝6時台の一番列車はかつぎ屋のおばさんたちの列車でもあった。八戸は港町である。かつぎ屋のおばさんたちは、八戸港の市場に行ってスルメや昆布、魚の干物など海産物を買い、これを大きな背負い籠に入れて、内陸部の農村に行って売るのである。その重さは30㌔から40㌔もあり、男でも敵わないほどの逞しい浜のおばさんたちであった。また、言葉も独特な浜言葉で少々荒っぽく、同じ青森県の太平洋岸でも内陸部とは言葉が違っていた。
 そんなおばさんたちと出会った佳築子。初めての東北、初めての青森県でびっくりしたのは無理もない。
 普通列車は走り出しまでまだ15分くらいあった。そんなところに正太郎と正太郎の父親が二人を探しに来た。佳築子たちを見つけると申し訳ありませんと、平謝りにあやまり、駅前に止めてあった車に案内した。
 佳築子は正太郎の父には初めて会ったが、モラロジーの会員らしく社長といっても威張った風もなく品が良く佳築子には好印象であった。
 車は、駅を出ると淋しい山の中の道を走った。先ほどのかつぎ屋のおばさんといえ、この山道といえどんなところに行くんだろうとさすがの佳築子も不安になった。
 八戸から十和田市へは国道45号線が通っていたが、当時はまだ舗装されていなかった。そこで道路の良い国道4号線に出る国道454号線で五戸を通り、五戸から国道4号線に出て来たのであった。
 十和田市に着くと、杉本ショッピングセンターはまだ建物の基礎となるパイルを打ち込んでいる最中であった。建設される杉本ショッピングセンターは、通称30番と呼ばれるバスの停留所のすぐ近くにあった。ここは十和田市の中心部で、十和田市の農村部や十和田町など近隣町村へのバスの発着場であり、バスはひっきりなしに行き来していた。そこに杉本ショッピングセンターが建設されるのである。
 佳築子たちが十和田に着くと、「よく遠くまで来てくれました」と、今に花火でも打ち上げるかと思うほどの歓待を受けた。
 次の日、課長は十和田湖に行きたいといって十和田湖を見物すると、「あとはよろしく頼むよ」といってさっさと名古屋に帰ってしまった。
 困った佳築子。が、正太郎は今日は十和田湖、今日は八戸の蕪島、今日は平泉、今日は何処どこと、毎日青森の観光名勝を案内して佳築子のご機嫌をとり佳築子を返そうとはしなかった。
 正太郎にすれば青森県ってこんないいところだよとアピールしたかったのであろう。佳築子は結婚する気なんて全くなかったから、もう二度と来ることがないだろうと、都会の娘らしく自由奔放に振る舞っていた。
 その自由奔放さが、夏目漱石の小説『三四郎』の里見美禰子にも見えたのであろうか。正太郎はますます佳築子を好きになって行った。
 夏目漱石の『三四郎』の美禰子は、自由奔放主義の裕福な家庭で育った都会の女性。しかも美しく、知的である。佳築子も経済的な苦労を知らない家庭で育ち、表面は隠しているものの本音はスピード狂である。一方、モラロジーで一級の花嫁修業をしている。正一郎にとってはまさに美禰子であった。
 こうして一週間ぐらい十和田に居て帰った。そしてすぐ課長に「十和田には行きません」と断った。
 ところがである。帰って10日ぐらいして正太郎が美浜町の佳築子の家を訪ねて来て、「ぜひ、佳築子さんを下さい。返事を貰うまで帰りません」と居座ってしまった。『三四郎』は勇気がなかったばかりに美禰子と結婚できなかった。が、正太郎は返事をもらうまで帰らないという。
 かといってやることは何もない。父に知多半島を案内してもらったり、父と一緒に釣りをしたり、夜は父と酒を飲みかわし十和田について話しをしていた。
 何と情熱的なひとであろう。これほど想ってくれるひとならと、佳築子の心が動いた。
 ところが家族は大反対である。父は、以前から名古屋より遠くへはやらないというのが口癖であった。父の実家であるかざり屋のおばあちゃんは、「佳築子、何でそんな遠いところに行くの」と、オイオイ泣きだす始末。
 しかし父は最後に、「父親が反対したら子どもはいつまでもそのことを思って幸せにはなれないだろう。だから佳築子が幸せになれるんだったら俺は反対しないよ」といってくれた。この一言で佳築子の心が決まった。
 父は正太郎に、娘をやるからよろしくお願いしますといった。この言葉を聞いて正太郎はようやく帰った。
 結婚式は翌昭和42年(一九六七)2月と決まった。佳築子は結婚する前にもう一度十和田を見ておきたいと12月に一人で師走の十和田に来た。そのときは、クラブ花園やスナックセリカなど何軒か飲みに連れて行ってもらった。
 こうして1000㌔以上もあり知っているひと一人もいない本州の最北端、雪深い青森の十和田市に嫁ぐことに決めた。これはすべてモラロジーの縁であった。佳築子がモラロジーに入っていなければ十和田には来ることはなかったろう。

 十和田湖を初めてめぐる遊覧船 藍にとけこむ我は旅人       佳築子