杉本佳築子物語 夢かぎりなく

10、そして結婚

[杉本佳築子物語 夢かぎりなく]
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 昭和42年(一九六七)2月21日、佳築子は杉本正太郎と結婚した。2月というと青森は1年中で一番寒い時期である。佳築子は23歳であった。
 十和田へ来る前、その前年の秋に父の実家であるかざり屋の祖父の米寿の祝いの席で父は、今度縁あって佳築子は青森に行くことになりましたと親戚一同に紹介した。
 米寿の祝いには祖父の子、つまり父の兄弟や孫、ひ孫、親戚など100人ほど集まっていたが、当然のことながら皆は、何でそんな遠いところに行くのといった。皆はびっくりどころか納得できない様子であった。
 父は、これもモラロジーの縁でと、そのいきさつを説明した。渡辺家の中には、モラロジーの講師をしていた父の兄の他、モラロジーに関係していた者が何人かいたので、それでは仕方があるまいと納得したようであった。
 が、この知多半島から青森はあまりにも遠すぎる。皆が心配して、口々にお祝いの言葉と共に励ましの言葉を述べてくれた。お年寄りには佳築子の手を取り、今生の別れのような話しする者もいて佳築子はちょっと複雑な気持ちであった。この日は祖父の米寿のお祝い会であったが、佳築子の親戚への結婚が決まったことの報告及びお祝いとお別れ会になった。
 また、青森に来る直前には友達もお祝いとお別れ会を開いてくれた。そこでも話題になるのはやはり、何でそんな遠いところに行くのであった。が、佳築子の話しを聞くと皆は心から祝ってくれた。
 佳築子は高校を卒業したあと和裁を習うと同時に洋裁学校に入っていたから、持って行く着物は自分でなおしたが、洋服は洋裁学校時代の友だちが作ってくれた。
 佳築子の心はもう十和田に飛んでいた。特別に準備することもなかったが、佳築子は結婚式の10日ほど前に先に一人で十和田に来ていた。両親と伯父、叔母たちは結婚式の前日に十和田に入り、杉本ショッピングセンター近くの昆元旅館に泊まった。
 その夜、佳築子は両親の部屋に行って、
 「父さん、母さん、こんなところに来てしまってごめんなさい。これまで育ててくれてありがとうございました。ここで頑張りますからこれからもよろしくお願いします」と両親に対して育てていただいたお礼のあいさつをした。
 父は、
 「お前はこの北国で暮らして行かなければならない。それはお前が選んだ道だからしょうがない。これからいろいろなこともあるだろう。しかし、どんなことがあってもひと謗るようなことはいってはならない。が、もし生き死にに関わるようなことがあるときは、俺の目の黒いうちはお前は俺の娘だから、そのときはいつでも帰って来なさい。ただし、その前に仲人だけにはちゃんと話してから来い。俺は頭を下げてお前を迎えに行くから」といった。
 これは10年後わかったことだが、名古屋より遠くへはやらないといっていた父だから、父は結納をもらった後で十和田に来て、身分を隠し佳築子の婚家となる杉本家の、その家柄や街の人たちの噂を密かに聞き調べていたのであった。当然その発展を誉めるひともいれば、急速に伸びてきた杉本ショッピングセンターに対する嫉妬などから誹謗するひともいる。
 特に商家の嫁である。商売はいいときもあれば悪いときもある。苦労することは目に見えている。そんなところに嫁に行って佳築子は苦労するだろうと思った父の言葉であった。
 見知らぬ土地での不安はあったが、娘の幸せを願う父親の愛情の深さを思い、逆に何があっても簡単には帰れないと心に決めた佳築子であった。
 杉本ショッピングセンターは昭和41年(一九六六)12月にオープンした。十和田市では初めての量販店である。結婚式はそのショッピングセンターの3階の大広間で行われた。
 当時の田舎での結婚式の多くは、嫁をやる方と嫁をとる方、つまり嫁の家と婿の家の両方で行われていた。それぞれの家でやるから1回でお客を呼べるのは30人から多くても40人程度である。そのために祝宴は、1日目は来賓や近い親戚を呼ぶ本振舞い、2日目は付き合いのある近所のひとたちや付き合いのある遠い親戚を呼ぶ振舞い、そして3日目は付き合いのある近所の若者や手伝い人を呼ぶざっぱ振舞いと3日3晩続いた。
 それに対して青年団はそんな無駄な結婚式はやめようと、結婚式の簡素化を進める結婚式改善運動を始めた。これは公民館などで、両家が嫁取り嫁やりを一緒に1回で行う、現在の結婚式の形である。
 杉本ショッピングセンターでは、そんな結婚式の変化をいち早く見てとり、ショッピングセンターの3階を結婚式場としたのであった。十和田での最初の結婚式場であった。
 二人の仲人は、モラロジー青森県支部世話人である三沢市高橋銘木店の高橋石蔵氏、そしてもう一人はモラロジー本部の小山政男氏である。すべてモラロジーがらみである。
 結婚式は、結婚式場での新しい結婚式の手本となるような結婚式で、夫婦の契りの盃や結婚届けへの署名、誓いの詞、結婚指輪の交換など結婚の儀式を招待客の前で行った。そして結婚披露宴である。この披露宴も食事はフォークとナイフを使った洋食であった。これも十和田市では珍しく招待客はフォークとナイフの使い方に戸惑っているようであった。
 招待客は、十和田商工会議所会頭の田中静一、十和田商協会長の江渡武多朗、青森銀行支店長、弘前相互銀行(現みちのく銀行)支店長、十和田市助役の中村亨三他、十和田市経済界の主だった人たち約100人であった。中村家からは、遠いことから佳築子の両親、父の兄弟、つまり伯父の渡辺秀一、同じく渡辺幸二、叔母の磯貝てる、叔父の林辰美の6人のみであった。
 宴会が進み酒が入るほどに歌はでるは踊りが出るはと大賑わいである。地元の人たちは民謡や三橋美智也の『お富さん』、三波春夫の『チャンチキおけさ』などであった。
 そこに父が私もやりますと、「妻は夫をいたわりつつ 夫は妻に慕いつつ 頃は六月中の頃 夏といえど片田舎 木立の森もいと涼しく...」と唸り出した。座は一瞬静まり返り、皆その名調子を聞き入った。浪曲の『壷坂霊験記』である。
 『壷坂霊験記』は明治時代に作られた、夫を献身的に支える妻の夫婦愛を描いた浄瑠璃であるが、人気を博し浪曲、娘義太夫、講談、果ては歌舞伎にまでなった物語である。父としては、この一節に娘の幸せを願った一世一代の余興であった。やんややんやの大拍手であった。
 十和田市一の大店となった杉本ショッピングセンター。招待客は1日で納まるはずもなく、2日目は正太郎の友人や商店街の若いひとたちが、やはり100人程が招待されていた。

 からまれる元木を越えざる蔦の蔓の理にわれをいましめし父